BC.27 1

 陰気な女の嘆き声のような音で、強い風が吹いている。
 パラティヌス丘から聖道(ウィア・サクラ)へ通じる坂を下る道すがら、「今日は風がすごいね」とドルススは笑いながら言って、耳を押さえた。いつもは並んで歩いたり、あれこれ気をとられて道草を食う弟だが、今日はティベリウスよりも3歩ほど先を歩いていく。カリナエを訪れるためだ。
 成り上がり者が好んで住みたがる哀れな風潮の犠牲にさらされつつあるエスクィリヌス丘の街並みは、雑然としてきたように感じられる。昔の人間に言わせると、新参者(ノウス・ホモ)めが、ということらしい。
 資産価値の高い住宅街の屋敷自体には居心地の悪さを抱く反面、今は公的な役割も持たない静謐さがあった。未亡人オクタウィアの家は、まだ喪に服しているかのようだった。 

 マルスの野での軍事訓練の後に、帰る支度を済ませた義理の従兄にして元学友のマルケルスに呼び止められた。少し離れた場所には同じく元学友のユルス・アントニウスがいて、大儀そうな顔をしている。ティベリウスを近くで顔を見るのも嫌だ、ということなのだろうがお互い様だ。
 マルケルスの一族(ティベリウスと同じく氏族名はクラウディウスだが、家族名が異なる)の所有する農園で取れた野菜や果実を取りに来いと言う。迷惑なことだというのが実感だった。何故この自分がわざわざ赴かねばならぬのか。マルケルスの母オクタウィアの我が家への好意だろうが、奴隷を寄越せば済むことだ。たとえティベリウスが立ち寄ったとしても、実際に持ち帰るのはティベリウスの連れている家内奴隷である。ただの収穫物のやり取りに、仰々しい。
「ドルススも一緒に、だってさ」
「では私は用はないのでドルススだけ行かせるが」
「お前、失礼なこと言ってる自覚ある? 親戚じゃなかったら絶縁してるぜ」
 マルケルスが呆れたように言った。縁故を理由に恩を着せられるまでもなくつながりを絶たれても異議はない。
「今、くだらないこと考えてるだろ」
 いかにもティベリウスを知り尽くしているかのような言い草が不快だった。
「用がなくたって、母上が招待した以上は来いってことなんだよ」
 マルケルスの母はティベリウスの弟のドルススがお気に入りなだけで、ティベリウスにはさして関心はない。子供をわけ隔てなく扱う、という大人の視線の心遣いがかえって迷惑なのだ。
 大人達は子供は子供同士の方が気が合うと思い込んだままだが、ティベリウスは大人に混じっていた方が気楽だった。話題が合わなくても会話が出来なくても当然であるので、批判されないからだ。
 マルケルスともユルスとも仲が良かったことは一度もない。ユルスとはほとんど話題も合わなければ、上から目線のマルケルスも神経に触る。何年もの間、何度も大人の事情で同じ部屋に子供を集めて閉じ込められたが、その時もろくに会話をしたことがないというのに、何故仲がいいと思うのだろう。
 さぞや退屈な訪問になることだろう。

 うやうやしいしぐさで門番によって屋敷の扉が開かれた時、マグナ・ドムスと言われるポンペイウス邸の豪勢な景色の中に、見慣れぬ人物が存在していた。
 通り過ぎようとしていた少女は、突風にひるむ様子もなく、顔を上げてティベリウスを見た。
 質素なローマの女児の服装の生気のない顔に、黒い宝石のような瞳があった。乾燥した大地に実る果実のような違和感だった。
 12歳と聞いているが身体は大きく背丈もあり、表情も異母姉妹、アントニア姉妹に比べ大人びていた。オクタウィアが異母妹達と変わらない格好をさせているからだが、かえって不自然さが際立った。
 視線があったのは一瞬にすぎなかった。ティベリウスは反射的に人から目をそらすことにしている。人の視線は気分が乱れるし、逆にティベリウスが見た相手は睨まれたと勘違いする。目に入っただけだという言い訳にも飽きた。
「こんにちはセレネ! 元気?」
 ドルススが元気に挨拶をした。少女は弟に向き直った。どうということはないが、優雅な動きだった。
「こんにちはドルスス」
 ドルススは親しげに話しかけている。こうしてカリナエを訪問する度に言葉を交わすようになっていたのだろう。
「ティベリウスも来たのか」
 ユルス・アントニウスが出てきて、彼女は自分の名を耳にする。
 ちらりとセレネはティベリウスに視線を向け、黙礼のように軽く首を傾ける。アシア的というのか、不思議なしぐさや目つきをする。
 ティベリウスは相手の名を知っている。クレオパトラ・セレネ。プトレマイオス王朝の最後の王女にして、最後の、唯一の生存者。そして国賊マルクス・アントニウスの娘であり、ユルス・アントニウスの異母妹でもあった。
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ドルススはセレネとも普通に話してたんじゃないかと想像します。
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