名残の薔薇     2

 二十年前。自分達が何になるのか、何になれるのか、知りもしない時代。
 非力だったが大それた野心を抱き、自分たちの力だけを信じていた。駆け抜けて登りつめるか、落ちて逆賊として葬られるのか。今思えばよくぞ暗闇の中を真っ直ぐに、進むべき道を歩けていたものだ。
 異国の丘の風。満天の星空の下。重く湿った空気。それぞれの場面が思い浮かぶ。
 当時も別に、多くを語りあっていたわけではない。もしかしたら各自が抱いていた未来は漠然としすぎていて、別の景色を見ていたのかも知れない。
 白んでゆく空と冷たく澄んだ外気の中、馬上のアグリッパを見送る、見上げてくる外套を羽織ったマエケナスの微苦笑。昔から淡々としていて、お互い命にかかわる仕事が待っていたとしても仰々しいやり取りはしなかったし、無事に帰還しても感涙にくれることもなかった。
 遠大な未来までを描けていたわけでもない。目まぐるしく状況が変わり、ひっきりなしに解決の手段を探し続けていた。あの頃は自分たちの若ささえ疎ましかった。
 ふと不安を口にする友に「お前なら大丈夫だ」「俺がついている」「こいつに任せておけ」と叱咤する言葉こそが、もしかしたらアグリッパの語った「夢」や「自信」や「野望」であったのかも知れない。「この中で一番自信家なのは、実はアグリッパかも知れないなあ」とからかわれた。
 不安はあったが、疑いもしなかった。自分の力を信じていたのではない。友の力を信じていたのだ。オクタウィアヌスがいて、マエケナスがいれば、世界だって手にすることができると思っていた。

「――でも過去ばかりを愛しむのは、好きではないな」
 マエケナスが呟いた。
 杯を片手に書斎の椅子に腰掛け、アグリッパにも椅子を勧めた。
 珍しい風味の酒と、それ以外の何かによって温まりかけた胸の中にも、確かに異物があった。無意識に流されまいと構えていたアグリッパも、この友人の淡白な言葉には一瞬驚かされた。
「あの頃は若かった、楽しかった。我らの美しい友情に乾杯、なんてさ。まだそんな歳でもないだろ。過去の美談にすがって友情を繋ぎとめるなんてお断りさ。それとこれとは別なんだよ、テレンティアのことは」
 違うな。
 カエサルのことに限ってのことではなく、自分とのことも含めての発言なのだと感じた。

 嘗てマエケナスは、カエサルの娘の結婚相手に、カエサルの甥のマルケルスを推した。そしてカエサルの娘婿になったことは、マルケルスをローマの第一人者の後継者として知らしめることになった。年齢的には子供で実績を全くあげていない者が、婚姻だけを理由に名誉や権限を与えられるのだ。自分の実力でつかみ取り、積み上げてきたアグリッパには、面白くはなかった。お互い、それが原因だったとも思ってはいない。
 それ以前から――たぶん最初から。マエケナスとは何か理解できない、理解しあえない、部分はあった。世界中の人間が自分と気が合うわけでもないし、誰もが自分に迎合すべきとも思わないので、それは気に病むほどのことでもない、ごく自然なことだった。少しずつきしんできたのは、それがマエケナスとのことだけではなくて、カエサルとの立場のあり方に及んできたからだ。
 カエサルのやり方は納得できなかったが、それを指摘することもしなかった。身内にあからさまに名誉を与えることは非常識だと思ったが、若輩者のマルケルスへ因縁をつけるようで、見苦しい気がしたからだ。もちろん表立って対立して、誰にとっても不利益になる愚は避けねばならなかった。
「なので、若者たちの未来について語ろう。私はあの子が大好きなんだ。君と一緒にウィプサニアまでミュティレナに行くことになった時は、寂しかったな。あの子は私の庭の薔薇が大好きだったから」
 そしてアグリッパは東方支配を名目に、レスボス島のミュティレナに赴いた。屈辱から逃げ出したのだと思われるのだろう。だが昔のように、言うべきことも言わなくなっていたのだ。彼の力になれない以上は、忠義のふりをするのも間違っていると思った。違う。彼に、もはや彼の思い通りにはならなくなった、自分を見せたくはなかったのかも知れない。
 今のマエケナスの気持ちは、理解できる気がする。過去のままではいられないのなら、距離をおく、去るというのも、選択の一つであるのだ。
「――細君のことだけではないのだろう」
 マエケナスは窓越しからギリシア風の列柱の奥に広がる、自慢の庭園を見やった。広大な敷地を持つエスクィリア丘の庭園は、ローマの厳しい住宅事情とは別世界のような豊かな自然に溢れている。
「テレンティアのせいにしておくよ」
 マエケナスは否定したが、少し考えてから言葉を続けた。
「……昔は、彼は私が訂正を入れれば、嫌そうにしながらも直した。ローマ市民の面前で彼のメンツをつぶしても、恨めしそうにしながらも従ってくれたもんさ。でも、今は」
 マエケナスは杯に口をつけた。
「自分の言いなりにならなくなった、か?」
「もっと絶望的だ」
 言葉とは裏腹に、マエケナスは笑っていた。
「私は、彼の望む言葉を選んでいるのかもしれない」

「私が私の言葉で語れなくなるくらいなら、彼の近くにいる必要はない」
「ほう。お前は自分の抱えている文人達には、奇麗ごとばかりを書かせていると思ったが、勘違いか?」
 カエサルを賛美する作品を生み出すために、マエケナスが作りあげた小宮廷。彼の子飼いの文人たちの文壇が、ローマの世情を操作しているつもりらしい。カエサルまでが詩人の顔色を伺うことがあるのが、アグリッパには滑稽だった。
 何故そんな無意味なことに夢中になるのか、金や時間をかける意味があるのかと尋ねた時に、マエケナスは言った。
「作り手ならば、いつの世にもいる。それを見出す者がいなくては残るものも残らない。過去や現在の事物について、後世の者たちに書き残すことは、生きている者の義務だ」
 そして勝ち残った側が主観で語ることも、世のならいだ。所詮、人は主観でしかものを語らない。過去の怨讐を掘り返しローマを粛清の嵐に置くことに比べたら、輝かしい現在を語ろうとする精神は、健全であるとさえいえる。
「私たちは今、彼の時代を生きている。それを書き残すことは、同時代に生き、後世に語る筆を持つ者の務めだ」
 その高慢な義務感はどこを根拠にしているのだ、と思う。
「ふん。権勢で命じる者と、言いなりになる者。名を残したい者同士で釣り合いは取れているのかも知れんな」
「君には彼らが権威に屈しているように見えるのか」
 心底から驚いたかのように、マエケナスはアグリッパを見た。
「彼らは何をくれてやっても、剣を向けられても、魂はけして譲らないよ。私には恩義を感じてくれているかも知れないけど、心は他者の下僕にはならない」
 アグリッパには、稚拙な言い訳にしか聞こえなかった。 
「どちらにせよ、権力を崇めるための仕掛けを作っている男が、何を今さら追従を恐れている」
 話をそらした。マエケナスは「君にはいくら話しても、わかってはくれないからなあ」という諦めに似た表情をしていた。こちらが理解することはないし、向こうも説得する気はない。怒っているのではない。お互い歩み寄れないこともある、と割り切っただけだ。

 マエケナスは苦笑した。
「私はあいつの友達だから」
 子供でさえ言わないようなきれいごとだ。学問の題材としてならまだしも、いい歳をした男が日常会話で口にするのに、嫌悪さえ感じた。
「さっきは過去のことだと」
「過去にはすがらない。若い頃の功績を、恩着せがましく振舞う気もない。彼の前で私であり続けることができないなら、彼と友人でいる意味はない」
 今も嘗ても、マエケナスは言いたいことを口にする。そしてマエケナスは、カエサルのことを指していながらも自分、アグリッパについても告げている。そんな気がした。
「それができなくなるくらいなら、表向きは妻を寝取られた、情けない夫の嫉妬のせいにでもして、身を引いてみせるのか」
「そんな偽善でもないし、彼のためだとか言うわけでもないよ」
 マエケナスの言葉に、かすかに嘲笑が混じった気がした。若い時からこれが苦手だったのを思い出した。この男は。誠意から発したとしても、他人が自分をわかっている顔をして、買いかぶることを嫌うのだ。
「私の生き方に反するっていうか。単純にかっこ悪いから」
 だろうよ。肯定するわけがない。俺もまだまだ甘かった、とアグリッパは思った。だが歳を取ったせいか、今ではこの男のやり方が、照れ隠しであることも承知している。
「もしも有効ならローマ市民の前で、忠実な臣下にでも、彼の崇拝者にでもなってみせる。だが彼に対して、誠実な友人を演じることだけはできない」
 彼に臣下であることを求められたことはなかった。
 友であり続けることを求められたのだ。
「私だって彼の友でい続けたい。最後まで私は、彼の友であり続けたい」
 無意識にでも自分を彼の前で偽ること、彼の「権力」に屈することは、マエケナスにはできない。それは裏切りにも匹敵する。
「大切なのは、過去ではないんだよ、アグリッパ」

 過去を過大評価することは、あの頃の思い出を汚すも同じことだ。そのために「私はあいつの友達だから」などと軽く言うマエケナスの言葉が、過去を貶めているように感じた。
 だがマエケナスとの不仲説が流れてもアグリッパが気にもとめなかったのは、「友情」を過信していたことになるのだろうか。マエケナスはこうして冷めた目で、アグリッパやカエサルとの距離を測っていたのだろうか。
「そう言うわけで」
 しかし友は念を押すように言った。
「ホントにテレンティアの件には、怒ってるんだ。浮気など常識の範囲でならいくらでもするがいい。ただ長年の友達の妻に手を出すってことだけは許せない。やっちゃならんことをされたら、私だって怒るからな」
 だからそれは。お前の妻の素行の方が。だいたい別居しようと離婚をほのめかそうと、妻に心底惚れていて、結局は不問にしてしまうのだ、この男は。
「ま、それでも許しちゃうんだろうけどね」
 一応自覚はあるらしい。
「『許さない』と言った口ですぐそれか」
「恨みや怒りを溜め込んで数え上げるより、そんな風に怒りはしても、愛しいと思えるものとともにある人生の方が、豊かに感じない?」
 マエケナスは無意識にか、愛用の筆記用具を撫でながら穏やかに笑った。
 とりたてて珍しくも贅沢でもないが、使いやすく手に馴染んだ陶製のインク壷が、装飾過多な道具箱の中に混じっている。確かにマエケナスの持ち物には高価なものも貴重なものもあったが、この男のいう豊かさとは他人から見た価値ではなく、自分の認めたものに囲まれた状態をさすのだ。
 「少しゆっくりしたいだけだよ」とマエケナスは言った。
「……そのかわりに、君は戻ってきた。マルケラと離婚して、ユリアと結婚した」
 彼から離れて行こうとしているマエケナスとは逆に。
「それは。お前が決めたことだろう」
 一度はマルケルスを推挙しながら、よくもそんなことを口にできたものだ。
「私は常に、その時の私が最善であると思うことを言うだけだ。残念ながら時には残酷なことでも言わねばならないし、言ったことを後悔したこともない」
 同時に「彼」が望んだことでもあったのだ。ためらう男の代わりに、肩に手を置き、それを口にするのは、マエケナスの役目でもある。
「君は戻ってきた。後は、頼む」
「なんだその言い方は」
「……大丈夫。私は近くにいる。これからも彼の耳目であり続けるために、こうするだけだから」
 おい、と言いかけたアグリッパを遮るようにして、家内奴隷が来客を告げた。
「ティベリウス・クラウディウス・ネロ様がお見えになりました」

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たぶんマエケナス氏は、こんな薄っぺらで浅いこと、考えてないと思います。良かったよ相手がアグリッパで。これが文人たち相手なら、知性に見合う会話を繰り広げねばならんかったよー。ネタ明かしをすると、中学でやった漢文「千里馬常有、而伯楽不常有」「千里の馬は常にあれども白楽は常にはあらず」まんまです(笑)。
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