名残の薔薇     3

 誤解されているようだが、アグリッパはこの若いクラウディウスを、嫌っているわけではない。だが彼の弟のドルススなどは頻繁に、切羽つまった顔でひしひしと訴えてくる。「兄はこういう男なんです」と。
 わかっている。わかっているのだ。
 ティベリウスの幼い頃の記憶は実に薄い。気づいた頃には既に大人並の背丈になっていた。そして居心地の悪くなる目つきで自分を睨んでくる。義父であるカエサルが苦手としているのにも納得がいく。
 だが別に、嫌っているわけではない。彼は優秀な武人だったし、頭も良い。将来は立派な将軍になるだろうと太鼓判を押せた。
 だがそれと、これとは違うのだ。
 自分の娘をくれてやってもいい、と思うような類の男ではないのだ、ティベリウスは。
 具体的に言うと、彼には感情に欠陥があった。高慢で異常な、クラウディウスの血が色濃く表れたせいだと思われた。
 それがアグリッパには、残念だった。
 
「アグリッパ将軍……」
 あからさまに困惑しているティベリウスに、アグリッパは何故か自分から声をかけている。仕事は完璧にこなすのに、私事になるとひどく不器用なのだこの青年は。慌ててティベリウスは返礼して、それからマエケナスを疑いの目で睨んだ。性格が真面目なので、義父の友人宅を訪問するのにも、しっかりと正装のトガを着込んでいる。
「なに、私は立ち寄っただけだ」
「そうですか」
「すぐ帰るところだ」
「……そうですか」
「そんな、せっかくの機会なんだから飲もうじゃないか」
 マエケナスが言って、アグリッパを含めた客を食堂に案内しようとする。
「いえ。用を済ませたら私も失礼させていただきます」
 ウィプサニアよりも六歳年上だから、二十一歳になる。背は高く、若者らしい肉体は鍛え上げられている。だがどこか病的な印象があるのは白い肌のせいか。クラウディウス独特の後ろ髪を伸ばした髪形は、ユリウス家にありながらの自己主張のようにも思われた。
「用?」
 アグリッパが尋ねるとティベリウスは生真面目に説明した。
「私が興味があった書物の写しが出来て、頂けると伺いましたので」
 そういえばこの若者には、そういう面もあった。ラテン語ではろくに会話も成立しないのに、ギリシア語を流暢に喋るという不思議な性格をしている。高尚な会話を好み、マエケナスとわけのわからん会話をするような、実に嫌みったらしい趣味を持っているのだ。
「おいおい、貰うものを手に入れたら、すぐに逃げる気なのかい?」
「ですが……」
 ティベリウスが強引に説得されている。少し気が重くなった。別に嫌ってるわけではないのだが。カエサルが彼を娘の婚約者と決めた時には深くは考えなかったが、今になってみると「なんてことを」と後悔せぬでもない。
「わかったから。そんなに気になるなら図書室へどうぞ。私の秘書が用意して待っている。その代わり戻ってきたら食堂においで。飲むのは嫌いじゃないのだろう?」
 ティベリウスはろくに返事もせず、不機嫌そうに去った。


 ティベリウスはマエケナスに騙されたとても思っているのだろうか。というか招かれた先で、思いがけずに自分に出くわしたことが、そんなに不愉快なのだろうか。(いや、「上官の相手をしなければならないのか」とうんざりしているだけで、どうでもいいのだろうが)
 憂鬱な想像をして苛立っていると、マエケナスが笑った。
「娘をあのバケモノにくれてやるのは納得行かない。バケモノから王女を救い出してくれる勇者募集中、みたいな王様の顔をしている」
 人ごとだと思って。
「そこまでではないぞ……」
 たぶん。
 一応、ティベリウスは自分に一目置いているらしい。
 一切そういう表現をする青年ではないので、判断しにくいが。
 軍での教育を任され、アグリッパの指揮下に放り込まれてきた時は、真面目で器用なだけかと思ったが、少し褒めてやるだけでどんどん伸びるのを感じた。
 他の者が言って納得できなくても、同じことを自分が言った場合には従う。実際、軍にいる時などにティベリウスが発言した時は、司令官である自分が肯定するかどうかだけを気にしている。軍内では明らかにカエサルの言よりも、自分の現地での指示の方を重く扱っているようだ。(まあ当然か)
 気分がいいか、と言われると正直、複雑だが。
 ティベリウスは、極めて優秀な政治家を輩出してきた半面、異常に誇り高く頭のイカれっぷりでも有名な名門貴族の裔(すえ)だった。一見、過去に執政官を出したこともない騎士階級出身の自分を、見下しているかのような印象を受けるが。
 どうやら尊敬されているらしい。極めてわかりにくいが。
 目上の者に媚びることも、好意らしき感情を示すことも一切できない、ティベリウスの生真面目さというか潔癖さそのものには、別段嫌悪は感じない。上っ面だけの愛想のいい男などに比べたら、信頼こそすれ軽蔑はしない。アグリッパも無骨なばかりで表現が豊かなほうではないから、誤解を受けやすい苦労はわかるつもりだ。
 だが娘を与える件については、アグリッパは躊躇してしまうのだ。ごく普通の家庭のように、娘には良妻賢母たれ、と言い聞かせて送り出すことになるだろう。いくら自分が現在は名誉を得ているとしても、娘を名家の令嬢のようには育てたつもりはない。ローマの普通の婦人として、どんな苦労にも耐えるようにと諭して嫁がせるつもりではいる。
 だが相手がこのティベリウスでは――。

「ウィプサニアはどこへ行ったのだ?」
「薔薇のとこだろう」
 マエケナスが答えた。先ほどの口直しにか、まともなぶどう酒が運ばれてきた。もともとティベリウス用に準備させていたのだろう。記憶にあるよりも邸内の各所が派手になっているが、いくつかある食堂の一つはギリシア風にまとめられている。壁に描かれた絵画も品はあるが嫌味なほどに格調高く、落ち着いた雰囲気が別の意味でアグリッパには居心地は悪い。
「彼女の薔薇が咲いたから、私の庭園に招いたわけだし」
「何故あの娘の薔薇なんだ?」
「いつの間にか庭園のはずれに植わっていた薔薇なんだよ。邪魔だし移しかえるか処分するか考えてたんだけど。彼女が気に入ったのでそのままにしてある」
「お前はあの娘には、甘いことだな。美意識に反しないのか?」
 ローマの一等地をそんな無駄に使う贅沢を、二人ともわかっているのだろうか。
「ウィプサニアは可愛いからね。うちには子供がいないから慕ってくれるのは嬉しいし。言っておくけど君の娘だから可愛いとか、本人にも迷惑なことを言ってんじゃないぞ。たとえいけすかない男の娘だったとしても、性格の良い娘だから可愛いんだ」

 そこが重要だった。
 長女ウィプサニア・アグリッピナは、器量はさほど恵まれてはいないと思う。離婚した妻と自分から生まれたのだから納得はいく。
 ティベリウスと婚約していなかったら、嫁ぎ先次第では夫の浮気に苦労させられるかも知れない。いやティベリウスだって興味も持たない可能性だってある。まあそういう地味で平凡な顔立ちをしている。
 だったら相応の家系に縁組をするのが、娘のためだったのではないかと考えたりもするのだ。性格ならばウィプサニアは自慢に値する娘だ。自分と同じ騎士階級の家であれば、アグリッパの娘を丁重に扱うこともあるかも知れない。
 だが相手はクラウディウス。無闇に高飛車で、無駄に誇り高いことで有名な、貴族だった。

「なんですかあれは」
 巻子を片手に食堂に戻ってきたティベリウスが、マエケナスに尋ねた。
「小娘がそこで、腰を抜かしていたのですが」
「小娘?」
 マエケナスには思い当たらなかったらしい。
 すると。
「戸口にヘビがいるので、行きたい場所に行けないそうです。庭園に用があるようでした」
 ははあ、とマエケナスも納得している。
 お前は。
 今まで何度も、何度もあの娘に会わせたことがあるのに、すっかり顔を忘れているのか、とアグリッパは嘆息した。いやそれでこそ、この青年なのだが。未来の花嫁を興味なさげに眺めるだけで、ろくに言葉も交わさないのだ。これがもう少し器量の良い娘でもあれば、少しはこの朴念仁の記憶にも残ったのだろうか。
「『別の出口から行けば良いではないか』と言うと『ここから出なければいけない、この先の薔薇に用がある』と」
「それで君は、(婚約者を)放って来たのかい」
 やや呆れ気味に、マエケナスが尋ねている。
「どうしても庭園に出たいらしく、その場で硬直してヘビを睨んで動きません。マエケナス殿、ヘビを殺してもよろしいですか」
「どうして私にいちいち確認するのだね?」
「もしかしたら、マエケナス殿のお飼いになっているヘビかも知れませんから」
「そんな趣味はないよ」
「そうですか。でもカエルはお好きですよね」
「別に。うちはカエルもカメも飼っていないよ」
「それでは、棒を貸して下さい」
「奴隷にでも言ってごらん。君がわざわざすべき仕事とも思えぬが」
「私もそう思います」
 なんなのだ、この無意味な会話は。
「あ、どこに行くの」
 アグリッパは立ち上がっていた。
「娘の危機を助けに行くのか?」
 さすがにティベリウスの顔色が変わった。マルクス・アグリッパの娘を、マエケナスの解放奴隷の娘だと勘違いしていたのだから。しかも自分の婚約者でもあるのにだ。
「頑張れお父さん!」

「どっちだ」
「……は、はい」
 別に。
 自分の娘は確かに「小娘」でしかない。ウィプサニアはマエケナスを親戚みたいなものだと思っているせいか、とりたてて着飾って訪問するわけでもない。その辺をほっつき歩いていたら、この屋敷に住んでいるのかと勘違いしても仕方がない。出る寸前にウィプサニアが「テレンティア様が下さった耳飾があったのを思いだしたからして行きたい」と言い出し、ユリアが「だったらそれに似合う髪型をさせなきゃ」と自分の世話をさせている女奴隷を呼ぼうとしたので、怒鳴りつけて出てきた。そうしていたところでウィプサニアが令嬢に見えたかは疑問だが。
 娘がまだまだ子供っぽいのも確かだし、ティベリウスがいまだに異性として見てないのも、全く同意できる。妙な好奇心でティベリウスが「婚約者ではない」余所の娘を眺めたりする方が不愉快なのだから、別に構わないはずだ。
「別に怒ってなどいないぞ」
 いちいち言うべきではないのかも知れないが、言わない限りはこっちの心情を理解することはない青年なのだし、そう自分に言い聞かせた方がいい気がしたので、アグリッパは言ってみた。
「……はい」
 花に固執していた娘を怒鳴りつけたり、見捨てたりしなかったのだからまだいい方だ。
「ティベリウスはどうしてあの娘のいた場所に行ったのだ?」
「……」
 無意味な遠回りをして、時間を潰す気だったのか?
「……うちに、帰りたくなかったので」
「は?」
「……うちには、いにくいので」
 なんなのだ、ぐずぐずと。いい歳して。子供か。
「私がいると、和やかな雰囲気も台無しにしてしまうので。いにくいのです」
 言いたいことはわかるが。
「ドルススとか、気安い人物たちと話しているところに、私が入っていくと」
 カエサルが不機嫌になってしまうのだ。まあティベリウスの引きずる陰気さを思えば、理解できるのだが。
「……あいつもなあ」
 この義理の親子も。もう少し率直に話し合えばお互いに信頼していて、嫌悪ではなく敬意を抱いていることくらい、わかるだろうに。ティベリウスはわかりやすく賛意を口にする男ではないし、カエサルにも言葉が足りない面はある。
「気にするな」
 と言っても無理か。彼の不器用さは生まれついてのものだ。
 自分の再婚相手にこんな息子がいたら。もしかしたら軍功を鑑みて尊敬してくれたかも知れないが、そうでなかったとしても、おそらくは早々にぶん殴って自分が父親であることをわからせているはずだ。友のやり方は生ぬるい。
「……でも、マエケナス殿が餌で釣って私を呼ぶ時は、絶対に何かあるはずなんです。それが何なのかわかりませんが、食堂に戻る気にもなれないし」
 そして遠回りして庭園を散策することにして、結局マエケナスの罠に突っ込んだわけだ。
「以前も何かあったのか」
「アウグストゥスが不在の時です。義父が嫌っている元老院議員に会わされました。なにかの便宜を頼まれましたが、マエケナス殿も義父に手紙を書く気がなかったんじゃないですか? 私は断りましたが」
 悪くない手だ。あらかじめ説明されていても不快なのに、「騙された」と思ったティベリウスが了承するはずがない。

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小説のアグリッパの心中の文章、推敲がなってないと思われますが、混乱ぶりを表現するにはいいかと。ちょうど私もあんな状態。
っつーか私、ティベリウス好きなんですよ。自分に一番性格が似ているキャラクター(史実の人物の性格は知りませんので)って、ティベリウスだと思う……。そして私を見る妹はドルススの心境だと思う……。
うるさいわいスエトニウス。人付き合い苦手で性格歪んでて悪かったな!
それくらいティベリウスに思いいれあるのになあ。
自分に似てると思うから容赦ないのかも。(自虐的すぎる……)
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