ふり返ってはいけない。
何度、そう思ってきたことか。
ユリアが冷めた表情で呟く。
「案外、罪悪感なんてないのね」
仰向けに寝転んで天上を見上げ、何故だか自分の手のひらをかざしている。その髪の色に、肌の色に、妻のマルケラを思い出す。だが触れるとその感触が全く違うことに、意外に戸惑った。
そして違和感が過ぎ去ると、女などどれもたいして変わらなくなる。それはこの女にとっての男でも、同じことが言えるのだろう。
「久しぶりに、私の意志で生きているんだって思えた……」
俺が返事もせず無言のままでいると、白い背中を向けられてしまった。
「何か言うことないの?」
「……ないなあ」
他の女ならば。
いっときの恋人にふさわしく、泣かせてやることも、抱きしめることも、愛を囁くことだってできる。
だがあの男だけでなくその馬鹿娘にまで、俺が下僕扱いされるいわれはない。
嘆いたり愚痴ったり、悲劇を演じたいのなら、そこの窓を開ければ良い。お姫様にひざまずく男は、そのへんで簡単に調達できる。
弱さなんざ人に見せつけるものではないと思っているし、他人に弱さを見せられるのもごめんだ。この女ならばなおさらだ。こいつの何倍もの屈辱に、俺は堪えて生きてきた。
誰が愛しているふりなどしてやるものか。
「まあ、気の迷いだものね」
自ら誘惑してきた際には、結構必死な様子だった。が、冷静になったユリアは「出来心」だと繰り返す。どう考えてもここで「ずっと好きだった」とか熱く告白し始める展開にはならない。
しかし、俺もこいつも落ちたものだ。
なし崩し的にこういうことになってしまったかと思うと。
――なかったことにしたいわ。
感慨がないわけでもないのだが、いかんせん付き合いが長すぎた。「こいつだけはありえない」と思っていた女をそれでも意識していたというイタさを、自覚させられたのだ。
この場から属州まで完走できるんじゃないか、っつーくらいに恥ずかしい。
お互いふざけていたとかいうノリでもなかった。概略で言うと「ユルスのバカ、私の気持ちわかってるくせに」「後悔するなよ」ってな、凍りつくような寒い展開だったもんで。
実際のとこ、何度か真剣な顔で見つめあったりもしたわけだ。しかも酒のせいにもできない、素面でだ。
……恥ずかしすぎる。これからも親類として顔を合わせるのかと思うと、途方にくれてしまう。
兄妹程度にあしらってきた相手に欲情するという、情けのなさに打ちのめされている雰囲気を何とか振り切り、今はこうやって「ま、気楽に」と虚勢を張り合っているわけだ。
ユリアは「ダメだわこの男は」とばかりに無言で服を着始め、俺にもトゥニカを投げてきた。やはりとっとと帰れということか。
ユリアは子供の頃から「私はあなたの味方だから」という顔をした。オヤジと俺を同一視して、忌まわしそうに眺めまわす大人の視線よりも厄介だった。俺の境遇に同情して無言で見つめられる、あのいたたまれなさ。
自分たちが、あの男の犠牲者としての仲間であるみたいな顔をする。
どこが。俺とお前とは違う。絶対に。
「あなたにとってはこんなこと、たいした意味ないんでしょうね」
何を言われても俺がろくな返事をしないので、ユリアが恨みがましい口調で言った。立ち上がって机上にある櫛を取り、椅子に座ってこちらを真正面から見る。あどけなさなど微塵もない、女主人の顔だ。
女は親しくなる前には「わかってる」ってな顔をするのに、親しくなったとたんに「あなたの考えていることがわからない」とか言う。
女ってのは何か。眼の前の人間を理解できるとか、時間をかけて言葉を費やせば意思は通ずるとか、そういうふうに考えてるわけか。俺は自分のことすらわからんのに。
髪を梳いていた手を一瞬止めて、思いつめた顔で呟いた。
「私には、大きなことよ。お父さまを裏切ったのだから」
おい。そういう時は、まずは亭主じゃないのかよ。
「あの男(ひと)が知ったら、どんな顔するのかね」
言ってやりたい。お前の娘は簡単だったと。
自分から飛び込んで来る安い女だったと。お前の娘は、とんだ失敗作だよ。
「……」
なんだよその顔。
俺が、己の命も顧みずに愛を選んだとか思いたいわけか?
この期に及んでまだ幻想を抱いてるとはね。
結局お前は、ガキのままだよ。
「……あなたはお父様にとって特別だから、ただでは済まないでしょうね」
ユリアは暗い表情をしていたが、ふいにクスリと笑った。
「裏切られたと思うでしょうね。……気分がいいわ。ざまあ見ろ、よ」
自分は「アウグストゥスの娘」という印で、俺と抱きあった理由はそれだけだとでも言いたいのだろう。俺はマルクス・アントニウスの息子だから、あの男を陰で笑うにはもってこいの相手だ。
「でもあの男、俺とユリアの間に子供が出来たら、喜ぶと思わないか? 何だかんだ言って、可愛がりそうだけどな」
姪の大マルケラと結婚しながら、俺が浮気をしていると知っても、アウグストゥスは怒ることはなかった。己も身に覚えがあるからだろう。意味ありげに「ほどほどにするように」と言って笑われただけだった。
その相手の一人が自分の娘でも、その態度を保てるのだろうか。
どうだろうな。想像がつかない。アントニアたちの子供でも、俺の子供たちでも可愛がってくれていることだし。もしユリアから子供がもう一人、しかも男児が得られるのなら、案外あっさりと許したりするのかも知れん。しかし体面あることだ。怒るか。怒るのだろうな。一応、自分の後継にしたティベリウスの妻なのだしな。別に養子には一滴の愛情もないだろうけど。しかしティベリウスに比べたら、俺の方が好かれてる自信はある。絶対だ。
「そうね。子供は愛してもらえるかも。でも私たちは殺されるでしょうね」
ユリアは髪を手早くまとめて、立ち上がった。
「お主は実の娘なんだからありえなくね?」
「私はあの人の息子じゃないから……!」
ユリアは半ばヤケになったように叫んだ。泣き出しそうな顔をしているくせに、何故か微笑んでいる。
「……男に生まれたかった。男だったらあの人に、無条件に愛してもらえたのに。マルケルスも、ティベリウスも目じゃないほどに。愛をもらえたはずなのに!」
だったら俺、今頃はやってらんねーだろな。お前が女だから男として使える手駒として重宝されてんだし。
嘗てのマルケルスや、今のユリアの子供たち以上の溺愛ぶりを長年見せられていたら、とっくに愛想も尽かしているだろう。
あの男は結局、自分だけを愛しているのだ。自分の血を引いていること、自分にどれだけ血が近いか、そういうことで後継者に足るかを判断している。血のつながりのない、妻の連れ子のティベリウスなどはインテルレクス、中間統治王に過ぎない。
あのお方、おかしくなってきてねーか。そう気づいている者はいても、忠告する者はいない。なかなか寒い光景だ。アグリッパ将軍やマエケナス殿のような、有能なだけでなく冷静で親身になる友人も失った。姉のオクタウィア様も亡き後では、情報も妻リウィアや付き合いの長いだけのボンクラに偏ってきてしまう。
俺の目の前には、無様な男がいるだけだった。ああいう見苦しい年の取り方はしたくないものだと思う。
ユリアが男だったら、少しはあの男の自己愛の矛先が落ち着いていて、多少は平和だったか。
いや、ユリウス(仮)のバカ御曹司っぷりで、俺もかなり疲労していたかも知れないか。マルケルスの時でさえ「うわー勘違い男」とか思っていたほどだ。あれは本人も悪いが、アウグストゥスの溺愛も間違っていたと思う。
「女になんて、あんな人の娘になんて、生まれるんじゃなかった。辛いばかりで、少しも楽しくないんだもの。何故女になんて、生まれついたのかしら」
自分の父親に女であることを利用され、自由や意思を否定された娘。
ま、別に珍しくはないか。贅沢を許され生かされているのだ、処刑されるよりはマシだ。たとえ愛されてなどいなくても。アグリッパ将軍の妻だった頃から、好き勝手浮気もしてたほどだしな。
ゲルマニア女の髪で作ったカツラや、東方の絹やアフリカの宝石。化粧をし、流行を追い、その美貌を褒め称える男にも不自由しない。俺にはユリアほど女であることを楽しんで生きている女は、他にいないように見える。美しく華やかで、光を放ち輝いている。誇り高いローマの女王。
その女が、俺の腕の中にあったのだ。
「それでは先ほどは、ご不満だったんでしょうか?」
ユリアが思い出し笑いをしてから、寝台に座ったままの俺の肩に手を置いて、ふざけた様子でキスをした。
「……馬鹿な人」
今の、キスする前の一瞬の緊張感はなんなのだろう。
お互い「割り切った大人の関係」とか悟った顔で言ってるわりに、目が合ったり触れようとする際には、とっさに素に戻るのだ。
「……何よ、そのひきつった笑い」
「俺ら、とっくに三十過ぎてんだよな……」
俺は三十半ばになろうとする二児の父だし、ユリアに至っては五児の母だ。何なのだ、俺らのこの可愛らしさは。
「そうねえ。若い時なんて痩せてる方だと思ってたけど。そろそろお腹とか気をつけた方が」
うるさい。お前の亭主の軍人馬鹿と比べんな。
どうしてこういうことになったんだっけか。
思い出してみると、ユリアは異常に怒っていた。最初に泣かれていたら、相手にはしてない。
「なんなのよ、その顔!」
「生まれつきの憂い顔の美青年だっつの」
モノ投げるの禁止。ヤメロ。
ユリアがそのへんのものを掴んで投げつけ、見事に俺に命中させてくる。
「そういうふうに、憐れむ顔しないでくれる? ものすごく不愉快だわ」
「……」
なんだ。お互いにそう思っていたのか。ホント、鬱陶しいんだよな。
怒り狂うユリアは、見ていて面白かった。
待望の末に授かった子供が夭折した。アウグストゥスを労わる声は耳にしても、ユリア本人に対する同情は少なかった。夫婦とも子供は作れるという実績がある分、周囲は容赦なかった。他人は自動的に、まるでそれが励ましであるかのような「次があるから」という言葉を無造作に投げつけて去っていく。
子供を五人産んだ。しかも家督を継ぐ男児にも恵まれている。そうでありながらまだ、ユリアは周囲やアウグストゥスにとって、親不孝で至らない娘に過ぎなかったのだ。
さらに「これ以上、嫌悪に堪えての夫婦関係は御免こうむる」と態度を豹変させたティベリウスには、蔑ろにされている状態だった。
こうした場合、ユリアは悲劇にひたって嘆き悲しむのではなく、現実を怒る。泣かれるよりはずっといい。嘆きには結論はつけにくいが、怒りは悪が想定されていて勝手に自己完結してくれるので、慰める必要がない。
ま、他人に怒りをぶつけて満足しているような女は、馬鹿だとは思うが。ささいなことに自分を正当化できる敵や、自論を展開する材料を見出して、嬉しそうにさえ見える。離れて見ている分には滑稽なのだ。
「どうせ私、恨まれまくってるんでしょ? 二度も自分の結婚のために、夫になる人を離婚させて。ローマの女どものゴシップの的よ。そんなの楽しむ人間がいると思う? ましてやその結果で、好きな男がその『誰か』と結婚したなんて、サイアクだったわよ」
「それ、俺かよ。どさくさで言うなよな。適当すぎ」
永遠の乙女は、過去にそういう悲恋的な思い出のある男がいたとか、妄想的なことを考えるものなのかね?
「うるさいわね。黙って聞いてなさいよ!」
「酔っ払ってんのか」
「素面でクダを巻けるくらい、こっちはブチ切れてるのよ、悪い!?」
ユリアが吼えまくる。何年分の愚痴やら鬱憤やらだ。八つ当たりを恐れてアントニアも子供たちも近寄りもしない。しっかし姑と同居してんのに。よく大声でわめけるよな。
やってられないわよ、あんなつまんない男!
毎回手順が同じで飽きたから、私が教えてやったわよ!
今までの男の中で、一番ヘタクソ!
……ひいいいい〜。
「……やめてくれ。なんか男として聞いててマジにツライ……」
泣けてきそうだ。顔が上げられない。俺もティベリウスと同じくアグリッパ将軍の元妻と結婚してるから、グサグサと来る。マルケラにそんなこと思われていたら、立ち直れないわ。
ユリアは怒りまくり、さんざん恨みがましいことを愚痴った。
聞きながら、俺は「このバカ女」と思った。いったい貴様は何様のつもりなんだ。
お前は父親が偉いだけなんだよ。お前そのものに、何の価値もあるものか。何を勘違いしてるんだか。
「我慢してたけど、浮気してやる。もうやってられない」
「まあ、たまにはいいんじゃね?」
そろそろそれくらいは許されるだろ。あのティベリウス相手にお前はよくやったよ、と褒めてやりたいくらいだ。
「ま、相手は選べよな」
「そうね。好き勝手にさせてもらうわ!」
げ。
振り返るとユリアの夫が、部屋の前を音もなく通りすぎるところだった。ゲルマニア遠征から一時ローマに戻っているのだが、夫婦の会話は一切ないという噂だ。
なあおいティベリウス。何か言ったらどうだ。せめて傷ついた顔するとか。
挑発は沈黙で報われた。両者の間に漂うひんやりした空気は、けして修正のきかないことを雄弁に語っていた。
ユリアは伏した机を叩きながら泣きだした。ティベリウスとどうにかやっていこうとした努力は、無残にも無に帰した。
それでもユリアは悲劇の女主人公のように自分を憐れむのではなく、こうした境遇を怒るのだ。人間の役どころではなく、それを操る大いなる神を。
手を出してはいけない。
引き寄せたら最後だ。一度でも近寄らせれば、引き返すことはできなくなる。
それが破滅へと続くとわかっていた。
見ているしかなかった。呆れたような顔をして、距離を置いて。
「……あの馬鹿男! サイテー! 大嫌い! ……嫌い!」
ユリアはそれでも、ティベリウスとやりなおしたいと思っていた。夫に愛されたいと歩み寄る努力もしていたし、どうにかしてこの男の心を開き、婚姻という手続きのみならず、本当の意味での家族になりたいと願っていた。
しかし誠実であれば必ず通じるとか、愛したその分だけ愛情が返ってくる、というほど現実は甘くないし、相手も悪かった。
「何故ティベリウスなの? あいつとは性格があわないだけ。他人だったらどうでもいい男だったのよ」
ユリアは堪えきれないように呟いた。
去年の九月にドルススが死んだ。軍務でエルベ河から退却する際の、落馬がきっかけだった。同じくゲルマニアにいたティベリウスは、一日馬を走らせて弟の元に向かい、亡骸に付き添ってローマに戻ってきた。
ドルスス・ゲルマニクスを失ったことが、ローマにとってどれだけの損失であったことか。義父アウグストゥスや母リウィアはもちろん、ローマ中が悲しみにくれた。そしてティベリウスの精神にも支障をもたらした。母も妻も子も愛していなかったティベリウスは、気を許せた唯一の家族を失ったのだ。
ユリアは夫を労わり、哀しみを分かち合おうとしたが、ティベリウスは拒絶し冷淡にあしらった。それにユリアは傷ついたわけではない。自分が弟の代わりにはなりえないことは理解している。
この怒りの本当の矛先にあるのは、ティベリウスではない。もっと根底にあるものだ。
「子供を何人産んでも、あの人の孫を何人も産んでも、お父さまはまだ許してくれないの。どうして? あの人の妻は、一人もあの人の子を産んでないのに、あの人には愛されて、大切にされているのに」
あの男が生きている限り、ユリアは命令によって何度でも妊娠させられ、夫が死ねば次をあてがわれるだけのことだ。アウグストゥスはユリアが子を産んでさえいれば満足で、それ以上のことは期待していない。つまり、娘が幸せに暮らしているかどうかなど、二の次だったのだ。
だがユリアは父親に愛されているのだと自分に言い聞かせ、命令に従うことで父親の愛情に応えているつもりだった。それしか望まれていないのだから、他にはこの親娘に接点はない。
「お主はあの女以下なんだよ」
そこまでして自分の血を分けた後継者が欲しいのなら、今後出産の望めない妻を離縁して、アウグストゥス本人が若くて子の産める女と再婚すればいいだけのことだ。
アウグストゥスは確かに、妻を愛しているのだろう。アグリッパ将軍を別れさせ、ティベリウスに恨まれても離婚を強いたが、けして自分だけは離婚しなかった。
勝手なものだ。
本人たちには純愛だろう。美談だろう。だが駒の如くに配置される当事者は、アウグストゥスの自己愛に怯えていた。どんなに要求が常軌を逸していたとしても、従うしかないのだ。
「……違うわ」
「そう思いたかったら、諦めるしかないだろが」
あの夫妻はこのユリウス家とクラウディウス家、ついでにアグリッパ将軍の一家までも巻き込んでいる。(俺らアントニウスは、いい目を見せてもらっているということになってるから省くが)
「いつか楽になれるとか思ってるのか? つーかあのヒトに愛されてると思ってるわけ? 認めて楽になったらどうだ。あの夫婦に比べたらティベリウスの方がまだ、お主にとっちゃ無害だろ」
無駄な努力をやめたティベリウスは、アウグストゥスの怒りの対象になっている。表向きくらいは義父にいい顔しておけばいいものを、あのお貴族様は妥協すら出来んらしい。俺などは、そうやってプライドをすり減らして生きて来たのに。
オクタウィア様は何人子供を生んだ? 二回の結婚で五人だ。ユリアは既に同等なのに、それ以上を求められているということだ。
「しょせん、お前は雌鳥なんだよ。卵を産んでりゃいいんだって」
適当に言った俺の言葉が、ユリアの怒りの焔を煽る形になった。
「ひどいことを言わないで!」
「だから、事実ってもんが――」
ユリアは泣いていた。大きな瞳からポロポロと涙がこぼれる。瞬きするたびに長い睫が涙をはじいた。化粧も崩れたユリアは、目を手の甲でこすりながら子供のように叫んだ。
ユリアの怒りの、更に先にあるもの。
「――わからないふりをしないで!」
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