絶対に近寄るな。
ガキの頃からわかってたはずだ。
ユリアはあの男の娘だ。
関わったらこの身の最後だ。
同情は捨てろ。その弱さが、いつか自分を滅ぼすことになる。
「一度目も二度目も、三度目の結婚の時も。あなたは私を見て、憐れむような顔をしてたわ。その夜、別の男のものになる私に、笑いかけさえして。生きながら身を焼かれているようだった」
助けて。助けて。助けて。
華やかな姿とは裏腹に、強張ったユリアの顔を思い出す。何かを探し求めるように怯えた瞳。目を逸らさないことが、俺の強がりだった。
受け入れること、事実として流すこと。いちいち感傷的に受け止めていては、この先、命にかかわってくる。不要なものは切り捨てること。自分の心を削っても見返りのないことになど、情を抱くべきではない。
だが俺の方こそ、「おまえの気持ちはわかってる」という顔をしていたことだろう。
俺には妹たちがいて、俺の振る舞いに命運のかかってくる一門もいた。
これがあの男の持つ力なのだ。あの男の意のままに執り行われる、非情な結婚。
オヤジが生きていれば、俺の兄嫁になったかも知れない女だった。どちらが幸せだったろう。
――こっちだろう。明らかに。俺の放蕩者の兄貴が夫で、あのバカが舅なのだ。今以上に不幸に決まってる。
これで良いのだと納得して背を向けた後に、幾度となくふり返るという誘惑に負けそうになった。
「あのな。そんなん俺に言われても……」
なんで今、そんな話になる。
どさくさすぎる。
「わかってるくせに!」
この女は、我が身を嘆いて男の同情を買おうとする女ではない。
怒りながら要求するのだ。
ガンガン近づいてきて、俺に説教する。
そういう女はわかりやすかった。泣かれるよりも、涙を隠されるよりもいい。
勝手に怒ってろと思う。お前が世界で一番正しいとでも思ってるがいい。
不満を口にしない者は、気づくことも感じとることも出来ない、愚か者だとでも思っているんだろう。このバカ女。余計なことに「私はわかっている」などとほざくのだ。「あなたの気持ちがわかる、わかってあげられるのは私だけだ」と。
身の程を知れ。
同情などするな。
この女はあの男の娘で、そういう運命なのだから。
俺がマルクス・アントニウスの息子で、その事実からは逃れられないことと同じことだ。それに反発したって仕方ない。
こいつを憐れむな。
「ユルス」
名を呼ばれた。
ユリアが俺の背中に抱きついてきた。
ユリアの身体は軽く、柔らかく、振り払うことはできた。怒って怒鳴りつけることも、笑って誤魔化して遠ざけることも。
――あの時。
ユリアがすがるような目で、マルケルスとの結婚を告げた時。
いつかこの瞬間が来ることを予期していた。
あなたの気持ちはわかる。
昔からユリアはそんな顔をする。
違う。お前なんかに俺の――。
誰が、俺のことなんか、理解できると?
「わかってるくせに……!」
ああ、わかっている。ずっと俺をそんな顔で見るな、と思ってきた。
「だから私から言ってあげる。これは全部私の責任。私の咎」
誰がお前なんか、と思ってきた。お前なんか必要ない。認めたくなかった。自分の弱さを、こいつの前だけでは絶対に。
だからこんな形でなければ踏み出すことはないだろうという、漠然とした予測はしていた。
俺にも理性はある。やばいだろうという自覚もある。
何よりも、他人に俺の何がわかるのだ。そう思った。
わかった顔をして近づいて来るな。俺にいちいち関わってきて、俺について語るな。俺は俺自身が、どんなことを考えて生きてるかなんて、わかっちゃいないんだ。
「おい、なんでそうなるんだよ。さっきまでティベリウスとか、父親とかに怒ってたはずだろ」
落ち着け。何故に俺らは、裏ありまくりの駆け引きめいた会話しておるのだ。そんな色気のある仲かよ。ガキの頃からのつきあいだろ。何を今さら。
ユリアが手を離し、俺から離れた。一気に冷めた顔をした。甘い雰囲気は拡散し、白けた空気が残った。
「……あなたのそうやって逃げるとこ、嫌い。みっともないわよ」
くそ。さすがにつきあい長いわ。誰であれ、侮蔑のこもった女の視線はこたえた。
「私、あの人の思うような娘であることに疲れたの。ユルス、あなただってそうでしょ?」
ああそうだよ。
オヤジが生きてる頃から、あの男の俺に対する威圧感が気に入らなかった。実姉をあのバカに嫁がせたのは自分のくせに、それが気にいらないのが見え見えだった。
そんなの俺の知ったこっちゃねーっての。
しかしながら無力な子供だった俺は、あの男の不機嫌にもオクタウィア様の不幸にも、罪悪感を持っていた。
疲れていた。
あの男の顔色を伺って接してきた長い年月が、肉体的にも精神的にも俺を疲弊させた。聡明だと思っていた執政官は、偽善的な視野の狭い王に成り果てた。
妻はあの男の姪で、自分の美貌と権威を自覚している。出戻りであることには劣等感を抱いていたが、複雑な自尊心のある女だ。俺を管理する意思はないが、名誉を傷つけることがあれば面倒なことになるだろう。
戸惑った。オクタウィア様そっくりの、白い肌。美しい髪。見上げてくる眼差し。けして心からは微笑まない女。俺の聖女と同じ貌。悟り、諦めた、絶望の淵にいる女。逃れようとすると、責めるように悲しげに閉じられる双眸。誇り高い妻が泣く時にだけ、この女がやっと本音を見せたのだと思うことができた。俺はこの女の亭主なのだと安堵できた。
それとも、泣くマルケラを慰めてやることで、幼い頃になにもしてやれなかったオクタウィア様を、取り戻しているつもりなのだろうか。マルケルスが死んだ時に、生きる気力を喪失したあの人には、全身で頼られたし、息子として尽くし力になれたという自負はある。だが繰り返し思い出すのは、オヤジを失った当時のオクタウィア様の、俺の見知らぬ泣き崩れる姿だった。
この世界に疲れていた。
「やってられないわ。私の人生なのに!」
ああ。俺も、何度そう思っただろう。
何度も結婚するユリアを見ながら、やってられねーや、と思った。
どうして俺たちは、あの男の言いなりで生きてるんだろう。
俺も、ユリアもティベリウスも大マルケラもウィプサニア・アグリッピナも。そもそもアグリッパ将軍だってオクタウィア様だって。
なんであの男のいいようにされているんだろう。
――簡単なことだ。誰もが、結果的に自分に都合が良いと計算できるから従った、それだけだ。
だが、こんな人生が続くのか?
俺はあの男が死ぬまで、あの男の奴隷であり続けるのか?
一族が争う時代に比べたら、どんな悪政でも「平和」の方がましだから、という理由で。
では今の状態は、一族が栄華を謳歌していると言えるのか? 最高権力者の家族ならば、幸せなはずではないのか。見渡せば、どいつもこいつも暗い顔をして薄笑いを浮かべている。
これが幸福だと? これが?
「いいじゃないこれくらい。あの人を見返せるのよ?」
この女が哀れだと思った。
そんな言葉で挑発し、必死にこんな低俗な男にすがりつかなければならないほど、落ちぶれた女が。
「あの人が私にしてきたことに比べたら、なんだっていうの?」
――助けて。
さしのばされた指は、俺を誘うのではなく、救いを求めていた。
この時が来るのを、待っていたのかも知れない。
世界が傾いてゆく。
発熱のような、眩暈のような、泥酔のような。
自分の身体は、呪縛がかかったように動かなかった。
いつかこの日が来ると、わかっていた。だからこそ禁じ続けてきた。
手を出すな。
わずかな意識が訴えている。
至る結果は知っている。ずっと。物心のついたころから。
この先には、破滅しかありえない。
だが俺は、破滅を待っていたのだ。
この屈辱的で平和な日常がだらだらと続くほどならば、一度に終わらせる結末も悪くないと思っていた。
ユリアの体温は低く、握りしめた指先は、ひやりとしていた。
なあオヤジ。
あんたが女で失敗した理由は、わかるような気がする。
小声で俺の名を呟くユリアを眺めながら、俺はどうしても憎めなかった父親のことを考えていた。男がこんな風に自分に身を寄せてくる女を愛しいと感じるのは、自然なことだ。それを軽蔑できる者の冷静さを、羨ましいとは思わない。
人はあんたを愚か者だと言う。この先歴史が続く限り、馬鹿にされ続けるだろう。女で道を誤った男というのは、最低の部類に貶められるのだ。スパルタ王妃ヘレネをさらってトロイア戦争の発端になった、トロイア王の次男坊といい勝負だ。とことん見下されて当然だと思う。
だが一人の男としては、祖国ローマに叛旗を掲げ、人生をかけても共にあろうと思える女に出会えた、幸せな男だったと思う。
エジプトの女王は、男にこの女にふさわしい生き方をしたいと思わせるような、素晴らしい女だったのだろう。我が手に確保して満足するのではなく、この女があってこその生き方を見出すような女だったのだろう。
いいんじゃないか、別に。
アウグストゥスが妻リウィアを離縁しないことと、オヤジが女王に人生を賭けたことに、重さの違いはあるのか。最後まで共にありたいと思う相手がいて、前者は生きられたが、後者は死ぬしかなかっただけだ。
人生を変えるほどの相手を得たことのない者だけが、オヤジのような男をただの放蕩者とあざ笑うのだ。
アウグストゥスは離縁出来ないことで、家庭レベルでは暴君に成り果てた。無様だが、あれも一つの生き方だ。当人は満足なんだろうし、後継者候補たちには迷惑な話だったが、正妻に子供が生まれていたらもっと立場に困ったことだ。利を得るには犠牲はつきものなのだし。
ティベリウスは人生を手放した男だった。賢い選択だったが間違いなく不幸だ。
ドルススは義父に不満を抱えたまま、いいように使役されて死んだ。もう少し生きていれば面白いことになっていたかも知れないが、最終的には何もしなかった気がする。
俺には、オヤジはさほど不幸な男には見えない。大いに女を愛し、好き勝手生きて、死ぬ時まで自分の勝手で決めて、やらかしたことの後始末もつけずに死んだのだから。
このまま何もなさずに人生を終えるのかも知れない俺に比べたら、自分の父親が委ねたその狂気(マイナス)が、羨ましかった。
オヤジは一度は自分を律しようとして、失敗している。この女でないと駄目だと実感したのだろう。俺のおふくろやオクタウィア様では得られなかったものを、クレオパトラという女によって得たのだ。
「尊厳者」の王杓のもと、今のローマ人は、何もなせずに不満を鳴らして人生を終えるしかない。
憎悪されようが世界を敵に回そうが、自分の欲望のままを通した愚か者は、俺が死の床につく時よりは幸せだったに違いない。
オヤジ、あんた後悔はなかったろう?
俺の場合はどう考えても、そこまでの女は存在しない。
人生を変えるほどの女はいなかった。オクタウィア様を除いては。どんな女も無価値だ。
俺にとってのマルケラは、最悪な上に申し分のない、扱いにくい女だ。
ユリアもたいして価値のある女ではない。
ただあの男を見返せるようで、気分がいいだけだ。
女を愛しいと思うのはいつも錯覚で、関係を経るとすぐに冷めてしまう。
――あの男が知ったら。
どんな顔をするのだろう。それでも俺に笑いかけるのだろうか?
子供の頃から、俺はずっと疑問を抱いていた。
あの男がどこまで俺を信用しているふりができるのか、限界を試してみたい気がした。
嘆くか、怒り狂うのか。立ち上がり、近寄ってきて、俺を殴りつけたりするのだろうか。あの貧弱な身体で。俺に敵うわけもないのに。その時には、笑いながら殴られてもいいなと思っていた――。
俺の野望なんて、結局こんなつまんないところで打ち止めなのかも知れない。
愛情や欲情が先立つ関係であったなら、顔を上げ、胸を張れた。
同情でしかなかった。だが結局それはユリアへではなく、自分への哀れみを置き換えたものだ。自分の弱さを誰かに支えて欲しいという願望にすぎない。
ユリアは俺の人生観を変えるほどの女ではなかった。男女の関係になってしまうと無個性な女の一人に埋没してしまう。これで何かが変わるということはない。
俺にはオヤジが女で人生を踏み外した理由はわかる。弱かったのだと思う。あるいは自分の強さを過信していたのだと思う。本当に力を持つ者は、他者に依存しない。
オヤジが一人の女に賭けたほどの心境は、理解できないような気がしたし、理解したくもなかった。そこまで弱い男に成り果てたくもなかった。だがその一方では確かに、オヤジが羨ましくもあった。
心のどこかではお互いを、最後の砦だと思っていた。踏み越えないことが、あの男への忠誠の限界だと思っていた。
いつか罪に手にかけることはわかっていたし、それで自分たちに救われる日が訪れるのだと信じていた。いや、そう信じたかった。
だがこんなことは禁忌でも何でもない。俺たちがこそこそと一室で寝たところで、ローマも俺たちの日常も、何も変わらない。そんなことでは、この惨めな運命からは逃れることが出来ない。
幻想にすらすがることが出来なくなる、現実の日々が待っている。未来永劫の渇望と飢えを罰として与えられた、タンタロスの如く。
――本当の絶望は、これからなのだ。
「言っておくが」
「わかってる。これきり」
俺を追い出す時に、ユリアはきっぱりと言った。「ひどい。一度やってしまったら、私なんて用済みなのね?」と言いたくなるような、サバサバとした顔をしている。
「私にも立場があるし、あなたにも家庭や将来があることだし?」
自分一人のことではない。第三者に知られたら、お互いの身や家族がただでは済まされない関係に踏み出したのだ。今ならまだ間に合う。なかったことにするのが唯一の、そして一番賢明な方法だった。
「――これで、いいのよ」
ユリアは笑顔だった。
「これで私、物欲しそうな顔はしなくなるから。安心して」
共犯になろうなどという気もなかった。始まるどころか既にきっちり清算が完了している。
「さよなら」
戸が閉められた。
わかっている。これが最も穏便で正しい選択だ。
俺も、ユリアも、俺らの仲も変わらない。何もなかったかのように生きていくだけだ。
またあの男に隷属する日常が、繰り返されるのだ。
だが扉が閉ざされる瞬間に、確信していた。
いつか俺はオヤジのように、もう一度この女のもとに戻るだろう。
外にはユリアの解放奴隷の女が立っていて、相手が俺だと気づくと信じられない、といった顔をした。女主人が嘗ての浮気相手の一人でも連れ込んだと思い、人が近寄らないようにしていたのだろう。
「……お気をつけて」
「俺はお払い箱らしいよ」
俺は来年には総督として、アシアへ行くことになる。ローマを離れ、ユリアと顔を合わせることもなくなるわけだ。
何も変わらない。これまでのように生きていくだけだ。
ふり返ってはいけない。
そのための覚悟は、まだついていない。
もう一度この場所に立つ時、俺は引き返すことはできなくなっているだろう。
その時が来なければいい。ガキの頃からずっとそう思ってきた。
あの人を裏切りたくない。あの人を失望させたくない。
だが。生まれて初めて、俺は誰かの死を考えた。待ちさえすればいずれは死ぬだけの、特定の者の、死を望んだ。腹の底からこみ上げてくる嫌悪感。これが本物の憎悪というものなのだろう。この歳にして、初めて知った思いだった。
オヤジが殺されても、兄が処刑されても、そういうものなのだと思った。これが力だ。勝者となった者の得る報酬なのだ。敗者に生まれついた者は、さだめに従う他はないのだと思った。
諦めること、他者の痛みに鈍くなること。知らぬふりをしてやり過ごすことが、生き延びる条件だった。
オクタウィア様でも、最後にはあてにはできない。弟のためにならば、自分の娘を犠牲にした人だ。
誰も信じるな。無駄なプライドは捨てろ。
だがこの人生が幸福なのか。これがローマの平和か。世界中がその平安を謳歌していたとしても、それがなんだというのだ。
この俺が不幸ならば、世界に意味などないじゃないか。
俺たちの心に刃を握らせるのは、ローマの権力の高みに鎮座する、あの男自身だった。
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