聖域     2

 その貴族の家名は、仮にAとしておく。過去には何人も執政官を出した名門と言っていい家柄だが、続いた内乱で嫡子は亡くなっていたり、政略結婚を解除したりしていて、輝かしい家門にも多少翳りが伺えるのは否めない。
 Aの屋敷(ドムス)はクィリヌス丘にあった。建物自体は古く、調度品の質も家柄の良さが出ている。飾られてる絵画も彫刻も立派なもので、案内に出てきた奴隷もきちんと教育をされている。友達の妹はいいとこに嫁に行ったもんだ。今度会ったら伝えてやろう。
「ユバ王子。お待ちしておりました」
 案内された広間にいた女主人は、夫を亡くして見るからに気力をなくしている。長男にすがるようにして立っていたが、挨拶もそこそこのうちに無礼を詫びながら座ってしまった。
 俺の友達の妹の夫である、現在の家長は二十半ばの若者で、カボチャみたいな顔に、変わった癖毛の男だった。体格はいいし人相も悪いけど、気は弱そうだ。
 そして俺に気づくと顔を引きつらせた。ほらごらん、とユバが責めるように俺を見た。一般人が俺を見たら動揺するに決まってると言いたいのだ。
 ユバはまずお悔やみを言い、故人の亡くなった時の様子を尋ねた。故人は六十の少し手前。三月前のある日、体調が優れないと言って休み、以来寝込んでいたそうだ。医者は悪い風邪をこじらせたのだろうという。
「ご主人が何故、私に遺言されたのか、ご存知ありませんか」
 もてなす気満々で使用人たちが待機している。彼らはユバを食堂に連れて行こうとしていたのだが、酔っ払うと理性に自信がなくなるユバは、勧められたぶどう酒を断った。これから大切な書物を扱うのだから、なおさら素面でいなければならない。
「それが一応、父には『いくつか意味はない贈与をするが、気にしないでくれ』とは言われておりましたが、何も教えられていないのです」
 困ったように息子は言った。死んだおっさんも無茶をぬかすもんだ。「気にするな」と言われても。
 ユバも長男も、それから未亡人もお互いに探り合う様子が見ててイライラする。
「……ユバ王子が書庫を見れば、何か思い出すということはないですか?」
 いや、本当に酒の席で少し話したことがあるだけなんですよ、とユバは言った。酔っていようが記憶力には自信があるから、理性がぶっとんでやらかしたことまで、鮮明に覚えている(不幸なやつだ)。だから何を話したかまできちんと覚えていて、「何もなかった」と言い張れるのだ。
「何を話したのですか?」
 招待された館の主人に紹介されて、「憶えてますよ」と言われたこと。「ユリウス・カエサルの凱旋式の時に、お姿を見ましたよ」
 凱旋将軍の偉業を知らしめるための演出で、ユバがゾウと一緒にローマ市民の前を歩かされた時のことだ。四歳やそこらで本人はわかってなかったに違いないが。
 それからこれから出来る図書館の話をしたこと。そして
「この間、長男が結婚しました。いい嫁です。あんたもさっさと結婚しなさい」と言われたこと。
 長男はユバと年はそんなに変わらない。ユバは「あーはいはい」と返事したそうだ。半年ほど前。実際長男が結婚したのは二年も前なのだが、いつまでも自慢していたらしい。
「それだけ?」
「ええ。あとは結婚はいいものだと説教されたくらいです」
 迷惑なんですよね、と口には出しては言わないが、ユバはうんざりした様子で言った。
 つーことはおっさんは、自分の結婚には満足してたんだろな。青ざめている奥方は気づいてないみたいだけど。でも六十近いおっさんの妻にしては若い。四十いったかいかないかだろう。後で確認するとおっさんは再婚したそうだ。初婚では子供はなく離婚し、今の奥方との間に生まれたのが、この少々頼りなさげな息子ということだ。
 しきりに長男が俺を気にする。俺はまだ子供のトガを着てお守りをしてるような、無位無官のガキだってのに、見る人から見ればアウグストゥスのお気に入りだし、手先にも見えるんだろう。

 俺が来ていると聞いた長男の嫁が、侍女たちを引き連れて出てきて、嬉しそうに言った。
「こんにちはユルスさま!」
「……見違えた。もう立派なご婦人だなあ」
 ちぇっ。臨月でやんの。
「ああ確かに孫が生まれると仰ってましたね」
 おせーよ。俺が傷つく前に言え。
 友達の妹が幸せそうに腹をさすっている。清楚だった少女がこれでもかと化粧をし、年齢にそぐわない宝石を身につけている。ああ。俺たちが花の女神フロラと呼んでた、青春の結末なんてこんなもんかい。学校帰りに皆で見に行った、あんなに可憐だった娘が、もう子供を産むのかよ。しかもこんな図体がでかいだけで、頭が悪そうな奴の子供とは。世の中間違ってる。うちの妹たちと、そんなに年も変わんないのだ。信じられない。
 ……ああでも。これはいいことなんだとも思う。この家族は今、悲しんでるけど、これから嬉しいことが待っているのだから。
「では一応、書斎を見せていただけますか」
 ユバは首を振りながら言った。もういいや、書棚から欲しい書物をもらって、それ以外はアウグストゥスへ贈ることにしよう、と思ったのだ。

 中庭を通って案内された書斎は、巻き物が格子状の棚に入れてあった。古いパピルスの匂い。個人の所有として多すぎることはないが、保存の仕方がよろしくない。ざっと見てユバは「中身が不明なものが、いくつかあるみたいですね」と言った。
 一応、蔵書録があったのでユバは目を通したが、本当に一致してるのかもわからないから無意味だった。
「これは私が整理する中で選んだ方がいいのかも知れないですね」と言った。
「ユバ王子がですか?」
「もちろんギリシア人の奴隷たちを使います。中身を確かめて、題名をつけたものをアウグストゥスへ渡しますが――」
 ユバはウァロについていて書誌学やら文献学やらの徒でもあり、書物を崇拝している輩だ。「書物は正しい保存管理、そして的確な分類があってこそ、価値があるのです」とぶつぶつ言った。不機嫌だ。自分が貰う側であるくせに、書庫が乱れているのが気に入らないのだ。
「後日、人をよこします。アポロ神殿に収めてから、そうですね。さほど希少本もないようですから、どこかの公共施設に寄付するかも知れませんね」
 ひでえ言いようだ。お前やアウグストゥスの図書館の蔵書に比べたら、一般人の蔵書なんてありきたりに決まってるだろ。
 長男と未亡人は、不安そうな顔をしている。結局なんにも解決しないからだ。
「よろしければ、遺言書を見せていただけますか?」
 遺言の開封は証人立会いのもとで行われる。それなりの名家なので、高位政務官が開封を行い、公開した後のものだった。故人の家族は巻物を渡し、やがて心細そうに書斎を出て行った。何かを俺たちに見つけて欲しいのか――あるいは、見つけて欲しくないのか。

「何でユバを指名したか、だよな」
「単純に、アウグストゥスのアポロ神殿付属図書館に通ってたから、私を連想したのじゃないかな」
 ユバは書見台に広げ、遺言状を調べながら言った。別におかしな内容はなく、書籍以外は通常の法廷相続に準じているし、きちんと嫡男が相続人に指定されている。
「本の整理をよろしくってことで、一巻はお駄賃なのかも」
「なんだかなあ」
「何かわかりそう?」
 フロラが小声で言った。
「お義母さまたちがピリピリしてるのよ」
「私たちが来る前に、彼らが相当中身を調べたのだろう。ひどいもんだ」
 視線は遺言状のまま、ユバが尋ねた。
「だって心配でしょ。お義父さまが、どういう意味でアウグストゥスに書物を贈られるのか。何か貴重な本があるのかも知れないし」
「ないと思う」
 ユバよ。お前にはしょせん、素人さんの蔵書だが、少しは遠慮しろよ。
「もしくは、何か書き込んであるとか、はさんであるとか」
「どうせ全部開いて見たのなら、題名をつけるとか、蔵書録とつき合わせておいてくれれば良かったのに」
 まだ不機嫌だ。書庫が乱雑なためと、蔵書録にたいしたものがなかったせいだ。
「彼らは何かを知りたいのか、知られて困ることがあるのか。どっちだと思う?」
 フロラはきょとんとした。家族の不安を具体的に理解してない。
「ユバみたいなアウグストゥスの友人が来るだけでもビビるのに、俺なんかがやって来たから、なおさらこっちに何か意図があると思って焦ってるんじゃないかってこと」
「ホントに、珍しいくらい人のいい舅なのよ。何か国家にあだなすような、細かいことをやれるとは思えないの」
 あごのあたりが太ったフロラは、呑気に言った。ああ、あの儚げな横顔が好きだったのに。
「実は息子が悪事に手を染めていて、それをオヤジが告発するために、遺言してユバにガサ入れさせたとか」
「ないない。うちの人小心者だもの」
 幸せそーじゃねーかよ。
「実は誰かに殺される予感があって、国家に介入して欲しかったとかさー」
「そんな物騒なことないわよー」
 フロラがあっさり否定した。「主治医の先生教えましょうか? 不審な点はないって断言してくれるはずよ」
 ちぇっ。つまんねーの。

「私以外にも、書物を譲られてる人がいるね」
 遺言の巻き物を覗きこむと、確かにその旨が書いてある。
「ええ。でも書名は指定してあるんです。ユバ王子に言わせたら珍しくもない、詩集とか古典とかで、知人に形見分けって感じですよね。それから世話になった医者とか弁護人とか、解放奴隷とか、剣闘士の組合とか神殿とか。それからやっぱり国家に対してってことで、アウグストゥスへ」
「家族は納得してるわけ? 高い金出して買い取ってくれる奴もいるだろうに」
 ユバ的には、既読のありふれた書物だらけだとしてもだ。
「お義父さまのすることですから。お義母さまもわかっていらして」
 うへー。何だか信じらんねーくらい幸せ家族。一皮剥いたら実はドロドロってことを期待してしまうんだが。
「ただねえ。最後にお義父さまの意図がわからないのが、お義母さまは残念なんですよ」
 ユバは遺言状を裏返して透かして見たり、何か暗号でもないかと探っていたが、諦めて首を振った。「これをお借りしてもいいかな? ウァロ先生に見ていただこうかと思うのだけど」
 よっこらしょ、と立ち上がったフロラは、意外にすたすたと移動して、家族がじりじりとしている居間へ行き、戻ってきた。
「あのー、ユバ王子」
「はい」
「何か、私たちに不都合なことがわかったら、どうしますか?」
 そう聞け、と言われたのだろう。フロラは何気に俺のことも監視している。この家の娘のような顔をして、俺たちを見た。
「場合によります」
 ユバは答えた。「ご家庭のことでしたら内密にしますよ」
「悪いようにはしないと、約束していただけますか?」
「何を疑ってるの? 私にも見当はつかないし、君の舅や旦那さんが何か悪いことしてたらそれを黙っていろというのなら、これ以上は調べないよ」
「いえ、調べて欲しいんです」
 わけわかんねーよ。善良な市民であるA家は、「後ろ暗いことはないから、調べられるもんなら調べてくれ」と開き直ったようだが、それでも小市民なので何か出てきたら嫌だなーという所存であるらしい。
「お義母さまが、気にしていらして……」
 ユバは天井を見上げた。
「……えーと。どんな内容でも、知りたいと思う? つまんないことでも、私の想像に過ぎないかも知れないとしても」
「ええ、ユバ王子が出した答えなら、たぶん正しいと思います」
「誰かが傷ついても?」
 フロラはそこで考え込んだ。「悲しむ人がいるなら、知りたくないです」
 それは多分に、義母のことをさしているのだと感じた。女のカンとやらで、何か思うことがあってのことだろう。
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