聖域     3

「ちょっと気になることがあるので、また伺ってよろしいでしょうか」
 ユバが確認すると、二人は微妙に安堵したような表情になった。嫁が元気に手を振って送り出してくれた。
 屋敷を出ると、ユバが全く納得していない様子で言った。
「こうなったら徹底的に調べてやる。気になって仕方ない」
「あ、俺も俺も。最近刺激がなくてつまんないんだもん」
 だってさ。成人式過ぎたら、俺はもうこんな風に遊び歩いたりは――……するか。するよなー今以上に。
「目立って仕方ないんだよ、君が来ると――」
 ちょっと待て。目立つ度合いで言えば、絶対にお前の方が上だろ。ギリシア語の死語からラテン語のオヤジギャグまで言えるヌミディア人なんて、ローマにお前一人だからな。……つーかどっち喋るにしろオヤジか。
「君がアウグストゥスの甥っ子だから、彼らは落ち着かなかったのかも知れない。彼らは私たちが、アウグストゥスの命令で何かを調べに来たと思ったんだ。だけどそれは、彼らの手には入っていないし、それが何なのかもわかってない」
 そんな大げさに言うまでもなく、俺にはただの善良な市民にしか見えなかった。そして俺はそんな人たちにも警戒されてしまうのか。
「……俺がアウグストゥスの甥だから、何だってんだろ」
 俺がアウグストゥスの「実の」甥、マルケルスと同じだとでも? まさか。
 俺はまだ半人前の子供だし、世間様は俺をアウグストゥスのお気に入りだと思ってるみたいだけど、実際の立場なんて嘘くさい。何かあったらすぐに疑われる覚悟はしてなきゃいけないのだ。
「ローマ市民は美化しやがる。アウグストゥスはなんて偉大なのだろうと褒める一方で、俺のことを哀れむんだろ。親のかたきに養われてるなんて不憫だ。あそこまで落ちたくはないもんだって」
 俺がそう言うとユバは言った。

「私はねえ、ユルス」
 心底、俺を心配そうに言うのだ。
「確かにアウグストゥスは、君を信用しているふりをしている。いつか裏切られるかも知れないと、覚悟していると思う。でもねえ、あんなに無邪気に私たちを信頼しているふりをしているのは、私たちの心の中だけは縛るつもりはないってことじゃないかって、思うのだよ」
 そうなのだ。たぶん俺は疑われてる。俺はマルクス・アントニウスの息子だからだ。だけど周囲に嫌な顔されても、アウグストゥスは一貫して俺を信頼しているという態度をとってきた。オクタウィア様の嘆願でもあると思うし、政治的にそれが有益だからだろう。
「私たち? 俺とお前じゃ違うよ」
「私だって、親に自殺された子供だよ。全くローマに対して、恨みがないわけでもない」
 何を今さら。すっかりローマに順応して父王のことなんか覚えてもいないし、肯定的な感情を持っているわけでもない。ローマ式の考え方を叩き込まれているし、歴史家としても評価はしていないのだ。
「ローマでの生活が、楽しくて仕方ないくせに」
 ヌミディア王家はもともと未開の遊牧民だ。現在、文明的で学問に浸りきった生活を送ってるユバにしてみたら、内心ではその血筋が忌まわしいに違いない。だいたいヌミディア人と言えば黒人奴隷を連想するし、ユバの先祖だって代々へんてこな髪型やヒゲをしていたのだ。
「私には後ろ盾はあるが、家族はないんだよ」
 ユバは淡々と言った。
「私が今死んだら、一人だ。知人も恩人もいるが、親族はいない」
「それで?」
「アウグストゥスは、そういう気持ちを知っていて、それに気づかないふりをしてくださっているのだと思う」
 だから何だ。当たり前じゃないか。俺たちが親の恨みをきれいさっぱり忘れてると思うほど、アウグストゥスも脳天気ではないに決まってる。だけど仕方ない。俺には腹違いの妹たちもいるし、その他にもまだ生きてる親族だっている。俺が嫌な顔も出来ないし、不審な行動をするわけにはいかない。
「ユルスがアウグストゥスの立場だったら、私を信じる?」
「うん。お前はいい子だから」
 反逆するための地盤も、そもそも覇気もねーしな。
「ではユルス、君は自分自身みたいな子供を信用する?」
「しない」
 絶対。殺した方が楽だ。今でも完全にオヤジの人脈とは絶ってはいないし、父祖の代からアントニウス家に仕える庇護人もいる。成人して官職をもらって、いずれ元老院議員になれば面倒な存在にならないという保証はない。
「私もそう思う。たぶん生かしても、いい感情は持てないと思うよ」
 やだなあ、おい。ユバみたいな奴って変な嫌がらせしそうだ。俺を隠喩で馬鹿にした詩を作って人前で朗読するとか、便所の隅にマニアックな書物から引用したギリシア語の悪口を書くとか、俺にも周囲にもわかんないっていう類の嫌がらせだろうけど。
「だからアウグストゥスは立派だと思うんだ。君の無理をしている姿を知っている。恨まれてるのをわかってるし、それを隠している努力も知っている。相手の憎悪を知らないふりをするのって、結構辛いと思わない?」
 ……辛い。
 つーか、かったるいだろう。でも彼は、俺自身が「笑っているけど何考えてるんだよ」と言いたくなるような俺を、あんなにも無防備に近寄らせるのだ。
 俺だってどうせアウグストゥスには信用されてないんだろと思う反面で、信じて欲しいと思ってる。アントニウスの息子なんだから、見るだけでムカついて当然だし、殺さないだけありがたく思えと言われても文句も言えない。
 だけどアウグストゥスはローマ市民の前で、政治的な意味も含めながらも、俺を優遇する。なんて偉大なのだ、慈悲深いのだと言われるためだと思うけど、本当のこと言うと殺すまでしなくても、追放した方が面倒がなくていい。俺がいつか裏切った時に「ほらごらん」と笑われるリスクに比べたら。

 疑いは絶対にゼロにはならない。
 だけど。アウグストゥスが俺を気に入ってくれてるのは、もしかしたら嘘じゃないんじゃないかと思う時がある。
 時々、俺は大声でアウグストゥスに感謝していると言いたいことがある。それをやってしまったらとんでもなく嘘っぽいし、言った瞬間に嘘になってしまうかも知れないけど。
「君は素直にお世辞を言わないとこがよろしい」
「お世辞って、下心があるからお世辞であって、素直に言うもんじゃねーだろ」
 お前、ホントに頭いいのか?
「大げさなゴマすりが出来ないし、本当に思った時に、感謝したり讃えたりするだけだから、アウグストゥスはそういうところを信用するんだと思う」
「……」
 少し違う。お追従ばっか言うほど、自分を貶めたくないからだ。俺はアントニウスの嫡男だし、世が世ならと思わないでもない。
 だけど卑屈にならず、言うべき時に言うべきことは言う。それが俺の誇りだ。
 俺が家族と、地に落ちたとはいえ家門の尊厳までも失わないですんだことは、やっぱり感謝している。今の身分である限り、腹の中では強がれる。いつか見てろと思える。だけど、内心ではそんな日が来なければいいと思ってる。
 今の俺は支離滅裂だけど、案外アウグストゥスだってそうなんじゃないかと思う。理屈の上では憎いけど、顔を合わせていれば情もわく。家族同然に接していれば信じてもいいと思う。
「ホントに、ご立派だよなあ」
 ……俺なんて、見透かされてる。俺がたまに失言して、周囲の顔がひきつってようが、アウグストゥスは笑顔で俺の頭を撫でられる。俺の方が背が高いのにさ。今、俺があんたのその細い首を肘で絞めたら終わりだよと思いながら、俺は笑ってるわけだ。あんたうわてだわ。やっぱ俺のオヤジが負けるだけあるわ。かなわねーや。
「……で?」
「あんまり、君にはヤケになって欲しくない。友人として」
「はいはい。ま、俺には家族がいることですし? おとなしくしますよ」
「ユルス」
 何でそんな、うっとーしい顔するかねえ。そんな疑われるんなら、そのうち期待に応えたくなるじゃないか。
 アウグストゥスは四歳で父親を亡くしている。ティベリウスは九歳で父親の葬儀の追悼演説をしている。「世が世」であったところで、愛もへったくれもない結婚をして子供をなし、自分の姉妹や娘を、腹の中では絞め殺したいと思っている男に嫁がせる覚悟はあるのか。できない限りは、政治家として至れる程度は知れている。
 ――そういうことだ。過去の遺恨にこだわり続けたのなら、俺はアウグストゥスに警戒すらされないだろう。世の中を渡れないその程度の男では、ローマでは使いものにはならないからだ。

「どうすんの? これから」
「一度ウァロ先生の所に報告に行く」
「それ済んだらうちに飯食いに来ないか」
 オクタウィア様も博識の誉れ高いユバがお気に入りだし、異母妹たちもユバを話好きでやさしい親戚くらいに思ってる。
 ユバは一瞬考え込んだ。以前だったら無条件に承諾したはずだが。
「……いいよ、また今度」
「何で」
「ちょっと調べ物があるので」
 ふーんそうですか。お前最近つきあい悪いよな。理由はあんまり聞いて欲しくないみたいだけど。
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何でユバが招待に応じないのか、という理由は、「真昼の月」をご覧下さい。
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