黄昏れゆく日々     1

 子供の頃はいつも誰かが傍にいて幸せだったけれど、私の居場所はどこにもなかったように思う。いつも大人を見上げていて、どこかへ行かされるために押しやられていた。 私を守ってくれるはずの母もいつの間にかいなくなっていた。当時は何も分からなかったけれど、父の立場が変わるたびに、私の環境は変わっていったのだと思う。
「ウィプサニアは笑ってるところがいいのよ」
 とユリア様は仰る。ユリア様は私の義理のお母様だ。
「あなたは不美人だけど、そうやって笑えばすごく可愛いわ」
 本当に可愛くなるのかは、よくわからない。でも私はユリア様が笑ってくださる方が嬉しい。
 たまに私が静かにしていると、「ほらほら。何暗い顔しているのよ」と言われる。その代わり私が笑うと、褒めてくれるのだ。
「なんてことを仰るのですか!」
 私の長年仕えている乳母が、ユリア様と言い合いになった。
「この子の外見がぱっとしないのは事実でしょう。軍人と金貸しの娘の子だけあるわね。なんて地味な顔してるのかしら」
「なんてことを」
 乳母はユリア様から引き離すようにして私を抱きしめた。
「信じられない。それが母親の言うことですか?」
 んー。でも、確かにそうかも。私がもう少し大きくなって、ユリア様と同じお化粧をしても、似合うとは思えない。
「褒めてるのよ。美人がツンケンしてるより、笑っているウィプサニアの方がずっと可愛いわ」
 乳母は信じがたい言葉を聞いたように驚いている。
「いい加減になさいませ。ウィプサニア様の前で、そんな下品な話はしないでくださいまし」
「はいはい」
 ユリア様は面倒そうに返事をした。乳母はユリア様をにらむと、私を居間から連れ出した。いつも私はこのように、何かから遠ざけられたりしてどこかへ移動させられる側なのだ。
「あんな人の言うことを聞いてはいけません!」
 忙しいお父様が遠征などで不在の時には、私はユリア様と過ごすことが多くなるので、悪い影響を受けるのではないかと心配されているのだ。
「ユリア様はやさしい方よ」
 確かに乳母や親戚の人たちは、頼むからユリア様を見習ってくれるな、と言っている。去年父と離婚した大マルケラ様のような貞淑な女性を手本と出来なくなったことを残念がった。
 でもユリア様の言うことには真実が含まれている。私の容姿はぱっとしないのだから、せめて笑顔でいなければいけない。口に出しては言わないけど、皆、お嫁の貰い手「が」困らないように、私がもう少し可愛ければいいのにと思っているのだ。
「ただ、寂しがり屋なだけ」
 お父様がマルケラ様と結婚していた時の方が、家の中は静かだったような気がする。少なくとも妻が義理の子供たちと一緒なって笑い転げる家庭ではなかった。どちらが良かったのかはわからない。お父様の留守中に、家の中に知らない男の人が出入りすることもなかったし、知らぬ間にお義母さんが外出しているなんてこともなかったのだから。
「だからって浮気していいものではないのですよ」
 今どき、どこの奥様も夫以外の人と恋愛している。詳しいことは知らないけれど、私の実の母もそれがきっかけで離婚したという噂を聞いたことがある。本当のことかどうかは大人たちがはっきり言ってくれないのでわからない。
 私は結婚相手がお父様のように無愛想でちょっと不器用な人だったとしても、大丈夫だろうなと思う。寂しく思ったりしないだろう。お父様は不器用なだけで、心の中はあたたかい人なのだとわかっているし、そういうとこが好きでもあるから、責めたり怒ったりしないと思う。
 そしてユリア様には何度も言われているように、私は不美人なのだから、多少は我慢はしなきゃいけないことだろう。
「でも大丈夫。ウィプサニアはいつも笑顔で可愛いのですから。きっと旦那様になる人も可愛がって下さいます」
 私の思っていることと正反対のことを乳母は言った。でもそれは、笑顔でいなさいと言って褒めてくれる、ユリア様のおかげなのだけれど。
 ユリア様の花嫁姿や親戚のお姉さんを見て自分が結婚する時のことを思い浮かべたけれど、私は自分があんなに綺麗なお嫁さんになれるとはどうしても思えなかった。やっぱり男の人は綺麗なお嫁さんの方が嬉しいだろうし、大切にしたいと思うことだろう。私が結婚相手になる人は、ユリア様と結婚する人よりは幸せではないもしれない。それを考えると申し訳ない気持ちになる。

「ウェヌス女神さま。私の娘ウィプサニア・アグリッピナとマルケラが、優美な娘になりますように」
 一緒にお出かけをした時にウェヌス神殿のあたりに差し掛かると、ユリア様は声に出して呟く。娘を持つローマの母親のお祈りなのだけれど、不思議な感じがする。私たちは義理の親娘ではあるけれど、歳は三つしか変わらない。周囲から見ても姉妹(か、お嬢様とお付きの娘かも)に見えることだろう。
「なーんてね。ウィプサニアのことお願いしてる場合じゃないわ、自分の分もお願いしなくちゃね!」
 ユリア様は微笑んで、私の手を取って歩いた。ユリア様は実母のスクリボニア様や義理の母のリウィア様と手をつないで歩いたことはほとんどなかったのだそうだけれど、私とはふざけて母娘の真似事をしているだけだ。
 ユリア様は大人に甘えることが苦手な方なのだと思う。お父さまが帰ってきても、先に実娘の私に挨拶をさせようとする(でもお父さまはユリア様に先に声をかける)。お父さまの方はにこやかにされているおつもりなのに、会話は他人行儀な印象。ユリア様は私と一緒にいる時ははしゃぐこともあるのに、お父様といる時は子供扱いされまいと必死でいらして、でもそこが可愛らしいと思っていた。
 残念ながら、ユリア様の私の為の女神様へのお祈りは、あまり届かなかったように思う。

 ユリア様がティベリウス様が控え室にいるのを見つけて話しかけた。ティベリウス様はローマの名門クラウディウス家の末裔で、若くしてとても偉い地位にある方だ。
「あらティベリウス。何の御用?」
 ユリア様の親戚が来ると、いつも頭の中に家系図を広げて考えてしまう。この方は、ユリア様の父の、再婚相手の連れ子になるから、義理の兄になる、ティベリウス・クラウディウス・ネロ様だ。そして……。
「アグリッパ将軍に用があって来た」
「あら珍しいこと」
 ティベリウス様は、ユリア様とは三つ違いだから、二十二歳くらい。とても背が高く、見あげていると首が疲れた。背丈の差もあるし私を見ないから、どんな表情をしているかはわからなかったけれど、機嫌は良くなさそうだった。お夕食はとうに済んでいる。我が家がご招待したわけでもないし、ご本人にとっても急に決まったことのようで、イライラしている。
「なんでわざわざ? 書面や人をやったりしては済ませられない用事なの?」
 返事はない。ティベリウス様はお父様の部屋に呼ばれると入って行き、そんなにたたないうちに出てきた。
 お父様がそれを見送るために出てきて、ついでのように私に手招きしながら、帰ろうとするティベリウス様に向かって言った。
「ではあなたは、納得したと受けとって良いのだろうか」
「私の意見は必要でしょうか。両親には、もう準備は済んでいると聞きました。閣下とも打ち合わせ済みで、私の帰還を待っていただけだと」
 ティベリウス様はふと私を見て、顔をしかめた。全く笑わない怖そうなお顔。
「命令でした。形式としてすぐに閣下に許可を請うて来いと。私にどうしろと?」
「……わかった。それではそういうことに」
 もしかして。――だから不機嫌なお顔なのかしら。
「ウィプサニア・アグリッピナ。ご挨拶なさい。結婚が決まった。来月だ」
 ティベリウス様は、じろりと私を見た。何か仰ってくださるかと思ったけれど、何も言わなかった。怖くて泣きたくなった。けれどかろうじて笑った。
「……」
 ティベリウス様は無言で目をそらした。私の方も声が出なかった。二十二歳のティベリウス様には、十六の私など子供でしかなかったのだ。
「……とうとうなのね」
 ユリア様が呟いた。絶望的な響きがあった。
「来月って……もう今月は半月も過ぎてしまっているのに……」
 ティベリウス様は私の婚約者、と幼い頃から聞いていた。でもこれまでお会いすることがあってもおしゃべりが好きではないのかもしれなくて、どうしても結婚する方、という印象を持つことができないままだった。

2012.1.2 UP
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新年早々なんですが、あんまり明るい話ではないです。
これのたたき台はかなり昔、サイトを始める前に書いたもので、ご存じの通り史実のウィプサニアの境遇はあまり救いがないので辛くなってしまったのでUPは断念して、ウィプサニアの性格設定も大幅に変更しました。。
でもまあサイト始めた頃ならともかく、今ならネガティブな話も書きまくり、UPしまくりです。
最初考えてたウィプサニアは、物静かで陰ながらティベリウスを支えて、父親の死後は運命に流されてしまう幸薄い女性でした。一般的なイメージかもしれません。
他のシリーズに合うように少し天然系に書き直していますが、話が話なので全体的に暗いと思います。
「名残の薔薇」とかのウィプサニアの性格とは変わると思いますのでご了承ください。
題名は黄昏の娘たち、ヘスペリデスの単数形 ヘスペリアから。
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