翼ある言葉     2

「っとにうちの女どもは。少しは男をたてろっつーの」
 広間に行き、改めて主であるユルス・アントニウスに帰還の挨拶をする。アントニアの異母兄でもある。
「小アントニアは未来のローマの将軍に鉄拳だし、セレネは自分の亭主『ばか』呼ばわりだし、大マルケラなんざ、ローマいち、亭主に愛されてるくせにわかっとらん」
「セレネの『ユバ様のばか』は、ユバ王はすごく嬉しそうになさってましたけどね」
 マルケラ。ユルスが言及して欲しい箇所は、そこではないと思う。
「もういいや。夜中に二人きりにしてやるから、とっとと押し倒せ」
 それは肉親の言う言葉か!
 マルケラが無言でユルスの後頭部をはたいてる。しょっちゅう頭の中に系図を広げるのだが、マルケラも小アントニアには半分血の繋がった異父姉だ。
「お主はあいつに男として見られてないんだぞ」
「そういうことで僕を男だとわからせても……」
 ……わかってもらえるのかなあ? 下手して失敗したら立ち直れなさそうだよ。
 ユルスはサビニ女の例を持ち出して正当化しようとするが、サビニ女の父兄の立場なのに、どうして略奪者の思考でものを言うのかわからない。日ごろの習慣だろう。
「それに僕、浮気がどうこう言われる筋合い、ないんだけどな」
 一瞬、何のことだかわからなかった。一般論かと思ったけれど、あの流れでは自分を浮気者だと思い込んでいるような言い方に聞こえる。
「本当に?」
 何故大マルケラまで疑わしそうな顔をするのだろう。確かに自分も21だ。悪所に通っていて当然な年齢ではあるけれど。
「はい」
「俺らには取り繕わんでよろしい」
 でも義理の兄姉になる人に、自分の素行をあけすけに言う男もいないと思う。
「僕はティベリウスの弟ですよ」
 ユルスは「だから何だ」とは言わなかった。
「……あ、あり得るかも知れん」

 兄ティベリウスが女性嫌いなのは、幼い時に兄を置いて母が家を出たせいだからだと思う。自分はその時母のお腹にいて、生まれた時に実父の元へ送られた。だからローマの風習で、実父が抱き上げて自分の子供と認める手続きは、生まれてすぐというわけではなかった。
 記憶は曖昧だけれど、母には時々会えていたはずだし、父が亡くなるとすぐにアウグストゥスの屋敷に引き取られたから、自分は寂しかったという記憶はない。
 だが父が母を譲り渡した当時、兄は4歳だった。アウグストゥスに見初められた母を簡単に手放して、二人の結婚式の介添えまでした実父を、兄は心底軽蔑していた。それ以上に、自分を捨てた母親をいつまでも許そうとはしなかった。
 兄を見ていると、家族ってなんなのだろうと思う。血がつながっていても、信頼があるわけでもない。あんなふがいのない実父とは別れて今は幸せな結婚生活をおくっている母親を、良かったとは思ってやれないのだろうか。――これも、よく考えたら偽善だけれど。
 泣き虫だった幼い兄は、母恋しさに泣き続けた。けれどどんなに泣いても母は帰ってこない。実父はそんな兄を持て余して突き放す。そして兄は、泣かない代わりに、笑いもしない男になった。
 兄は母を発端にして、女性を嫌悪していた。状況が異常であったためか、何故かアウグストゥスを恨むのではなく、それを許した父、そして母の方を恨むようになっていたようだ。
 自分自身もまた、決めた女性以外には全く興味はないし、浮気や離婚に抵抗があるのは、母がというよりも、感情が欠如してしまった兄が理由なのかなと思ったりもする。今どき離婚再婚は日常的なことなのだから、兄もいい年して繊細すぎると思うし、自分のこだわりなんて幻想じみているという自覚はある。

「じゃあ今度、いい所に連れてってやろうか。やさしくて安心なおねーさんのいるとこ」
「……ははは……」
 未来の義姉が、こっち睨んでるんですけど。行きませんから。
「俺はさあ、お主にだったらくれてやってもいいと思ってるわけだよ」
 大マルケラは「あんなに小さかった子供たちが」と感慨深げだったが、どうやらユルスとは同意見であるらしかった。つまりこの夫婦には、歓迎されている。
「多少荒っぽいことしても、お主だったらアウグストゥス丸め込むなり、うちの義母さんなだめるなり、できるだろうし」
 失礼だなあ。確かに優等生だと思われているし、大人たちには信頼されてるとは思うけど。
「とにかく、小アントニアをとっとと片付けたいんだよ俺は! 生意気な口ばかりきいて、ちっとも嫁に行こうとせんし」
 この場合、自分に味方してくれている者がいることは、心強い。でも肉親にそんな言われ方をしているアントニアが可哀そうになった。ユルスってこんなタイプだったかな。とにかくユルスは妹思いで、妹たちもそれを痛いほど理解していたから、仲に割り込めないなと思ったほどだったのに。
「やっぱりこういうことは、アウグストゥスから話を通してもらった方が早いかも知れないですね」
 アントニアの気持ちを確かめてから、と思っていたけれど。幼なじみなんて、もう全然恋愛の対象ではなくて、ベタベタするのも面倒だったりするんだろうか。だったらもう、事務的なことを通してもらって、話をすすめてもらっても……。
 ……変だなあ。
 こんな風になるなんて、考えたことなかった。
 女の子が大人になるのは早い。アントニアは19歳で、ユルスの言うように「行き遅れるだろうが!」と焦る年頃になってきた。だけど自分はまだ21歳で、正直、そこまでに結婚願望は強くないし、兄ティベリウスも何年か義父に抵抗しつつ22で結婚はしたが、男としては早い部類だった。
「面倒だからお主でいいよ」
 とアントニアの異母兄ユルスは、かなり以前からそう言ってくれていた。何があっても自分を推してくれるということだ。彼女の母オクタウィアも、今では屋敷の中で唯一の男性である娘婿のユルスの意志を尊重する。
 だから、焦らないできたのだが。最近、ユルスが苛立ってきた。異母妹が生意気になり、どうも彼の計画通りにはいかないので、自分に恐ろしいことをけしかけてくるようになったのだ。
「何でもいいから、既成事実つくれよ。アントニアがごねても、アウグストゥスに『責任取らせろ』って無理やり話つけるから」
 ……何が怖いって。
 自分が拒否したり躊躇したら、ユルスが同じことを他の男にも言ったりするかも知れない、ということだ。
「少し落ち着いてください」
 冗談じゃない。そんなとんでもない命令聞けるか、と思う一方で、そういう明確な意思表示をしない限り、自分の気持ちは伝えられないのかも、とも思ったりもするのだ。
 子供の頃の何気ない約束。聞いていた両親も伯母たちも、微笑ましく見守ってくれていた。今でもなんとなく周囲は認めてくれている。たぶん黙っていれば、しびれをきらしたアウグストゥスやユルスが、「仕方ないねえ」と手はずを整えてくれて、気づくとパラティウムの屋敷に、花嫁姿の小アントニアが運び込まれてくるのだろう。
 そんなんじゃ嫌だ。あんまりだ。
 だから。だからこうやって時間を作ってアントニアに会いに来て、ガラではないけども、あ、愛を育んで……。
 ダメだ。立ちくらみそうだ。
 考えたら自分は、そういうことに向いてない。たぶんアントニアも、自分をそういう対象とは見ていない。
 なんだかなあ。もういいかな。家のことなのだから、もう任せてしまうってのも手なのかも知れない。
「どうしてそんなに、僕に味方してくれるんですか?」
「兄貴は超気に食わんが、お主はいい男だからな。出世しそうだし、バカもやらかしそうにないし、俺にも逆らわないし、リウィア様の息子だからアウグストゥスには殺されないだろうから。もったいなくて、よその女にくれてやれるか」
 喜んでいいのかは微妙だ。
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自分で書いててなんだけど。ユルスの言葉が痛いなあ。
アウグストゥスの作った「負け犬女規制法」(こら!)の対象になりそうな女としては、当時は生きにくかっただろうなあ。
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