翼ある言葉     3

 この屋敷の主人であるアウグストゥスが、遅れて食堂に入ってきた。既に家族の晩餐は始まっている。きっと仕事か何かで手が離せなかったのだろう。珍しいことではない。
「何の話を?」
 席につく前に、義父が母リウィアに尋ねた。
「今日、ドルススがカリナエに行ってきたそうなので、その様子を」
 アウグストゥスも母も、自分がどういう用件で伯母オクタウィアの家に行ったのかは察していても、面と向かっては尋ねてこない。ありがたいことに。
「あの……聞いてもいいですか。何故、兄さんはアグリッパ将軍の娘と婚約したのか、いきさつを」
 隣の台に横たわっている兄のティベリウスが、あからさまに不機嫌そうな顔をした。結婚して3年になる。意外なことに円満だったが、家族にも打ち解けない兄が、兄嫁ウィプサニアをどう思っているかは判断が難しいところだった。
 岳父アグリッパ将軍に会っていても、その部分は綺麗に記憶から抜けているのだろうなと思う。娘婿と何とか話をする糸口をたぐろうとする将軍を無視して、兄は用件を済ますとさっさと踵を返す。兄は兄なりに、アグリッパ将軍を尊敬していると思う。素直に教えを請い、指示に従って完璧に任務をやり遂げ、相応の礼儀を払う。アグリッパ将軍の輝かしい功績はもちろん自分たちの目標でもあるし、兄の気に障るほど会話をしないためか、嫌悪の対象ではない。
 しかし兄には義理の父と、個人的に親しくなる気は一切ない。無礼なのではなく、そういう人間なのだとわかって欲しいと思う。饒舌でもない将軍が、せめて人並みに世間話でも、と兄を気遣う姿を見ているとハラハラする。
 ただ書斎型だとばかり思っていた兄は、意外なことにローマ軍を指揮することに楽しみを覚えている。アグリッパ将軍を含めた周囲にも才能があると言われていて、アウグストゥスを喜ばせている。
「アグリッパの義理の父が、大変に人徳のある人物だったのだ。アグリッパも、ぜひその娘を欲しいと望み、私もティベリウスを通じてそのアッティクスという人物に縁が持てればと思い、生まれて間もない孫娘と、すぐに婚約をさせたのだよ」
「だったらご自分が、その娘と結婚なされば良かったのでは」
 耳鳴りがするような沈黙。
 思わず臥台にうつ伏せてしまう。
 ……兄さん。あなた、自分が何を言ってるのか、自覚あるんですか?
 こういう時、ユリアがいてくれたらと思う。今はアグリッパ将軍の妻になっている、ユリウス家の一人娘のユリアは、気転をきかせて場を和ませてくれていた。自分もこういう時はなだめ役だったから、食事の後、二人して「ドキドキしたね」と笑っていたものだ。
 ちらと兄の横の席で黙っている兄嫁のウィプサニアに目をやる。本人は微笑んでいて気にした様子もなかった。
 ああ、会話が続かない。
「……でも、結婚はいいものでしょう?」
「疲れる」
 兄はどうでもよさげだ。白皙の肌、クラウディウス家独自のものとされる、うなじを覆うほど伸ばした髪型。顔立ちは整った方だと思うが、神経質で人を寄せ付けない。実の弟である自分ですら、時々息がつまる。
「でもウィプサニアは――」
「私たちのことは話題にするな」
 そっけなく兄が答えた。確かに失礼な質問だった。
「……ごめんなさい」
 その兄の前では、こういう話はしにくい。
「あの、後でお話が」
 こういう時、実兄は全く頼りにならない。いくらこっちが真剣に相談しても、女如きに浮かれていると軽蔑されて終わるのはわかっている。
 だけどどうにかしないと、ユルスがどんどん話を進めるかも知れないのだ。

「ごめんね、ウィプサニア」
 もともと身分違いという引け目もあるが、やはり兄のような堅物に嫁いだせいで苦労しているに違いないのに、兄嫁はニコニコと笑っている。全く気にした様子もなくこっそり言った。
「ティベリウス様、ちょっと照れてらっしゃるみたいです」
「え、なんで、どこが」
「ドルスス様から見て、私との結婚が悪くなかったと思われているようなので」
 えええー。なんだよそれ。自分には怒ってるようにしか見えないよ!
 最近、兄のことを理解できているか自信がなくなりつつある。

 しかしまあちょっと間違えば、アグリッパ将軍の長女と婚約していたのは自分だったかも知れないし、小アントニアだって大アントニアみたいに、よその男に嫁いでいる可能性だってあった。今だって状況が変わってしまっても、おかしくはない。
 それにこんなくだらないことで悩んでいられることは、本来すごく贅沢なことなのだ。時代が違えば、自分の好みも好意も関係なしに、結婚を権力闘争の手段として行使していたかも知れない。
 大切な姉や妹を、自分の親を失脚させた男に嫁がせたり、可愛い娘を祖父のような男と結婚させたり、自分も年上で何人もの子連れの女を嫁にしなければならない、なんて時代が、つい最近まであったのだ。
 今ではアウグストゥスの治世のもと、マエケナス殿の保護を受けた詩人たちが、愛について語り、恋人について嘆いている。そんな風潮を嘆くむきもあるようだけれど。良いと思う。憎しみや怒りを詠い続けるよりも、よほど心が潤う。
 何が何でも、この平和を謳歌してやる。
 兄にバカにされても、ユルスやマルケラに生温かい眼差しで見守られても、正直、突然絶叫したくなるほど恥ずかしくて、こんななら蛮族の軍に突っ込んで行くほうが、よっぽど迷いがなくて気が楽だ〜っ! と思っているけども。
 幼い昔に決めたのだ。自分は初恋の人と結婚して、アウグストゥスと母リウィアのような、平和な家庭を築くのだと。他の女性では嫌だ。絶対に小アントニアじゃないと駄目なのだ。
 何のために軍にいて、何のために戦うか。たぶん、いろいろ理由はある。
 自分は由緒あるドルススの名を持つクラウディウスで、ローマの「第一人者」アウグストゥスの義理の息子でもあり、軍務に就くことはローマの男として当たり前の行為でもある。
 だけど今は、女の子一人も振り向かせられないと、つまんないことに悩んだりできる、こんな平和に自分は価値観を見出している。正規軍の兵士たちが聞いたらあきれ返るだろうけど、それが実家に戻っている時の、21歳の自分の本音なのだ。


 父母の部屋を訪ねた。よほど他の貴族や解放奴隷の方が、「王」のような生活をしていると思う。一般の家庭でも見られるような、ありふれた寝台や箪笥、椅子等の必要な家具が置かれているだけで、今や世界を支配せんとする、ローマの「第一人者」の住まいとしては質素なものだ。
 アウグストゥスの慎ましさを、謙虚さを装っているととらえている人もいるようだが、本人がこうした落ち着いた生活を好んでいるのだと思う。エジプトの王宮も見ているし、罪人の財産を差し押さえることもあるのに、自分の屋敷を豪華な調度品で埋める気は全くない。
 二人に向き合う形で椅子に座り、促されて話をきりだす。
「義父上は、どうやって母に結婚を決意させたのですか?」
 母の腹の中にいた頃のことだ。いろいろ噂は聞いている。アウグストゥスは人妻だった母を夫の眼の前から連れ出して、他の部屋で口説いていたとか。
 聞いた時は数日間、二人の顔をまともに見られなくなったりしたけれど、身近でそういうことがあり、隠されたり、人の陰口として入ってきたり、という少年期だった兄に比べたら、まだショックは少ないかも知れない。
 それを非難したいのではない。ただ、どういう心境の変化で……。
 あれ。
 何故か二人とも、固まってしまった。
「あ、あの。わかってるつもりなんで。どういう言葉があったのかな……と」
 今、自分が尋ねているのは小アントニアに対する接し方の参考にしたいと思うからで、別に親を困らせるつもりはない。こうやって相談をしにきている意図も、わかってるはずなのに。
「い、いろいろと」
 アウグストゥスがなんとか答えた。40代の半ばにさしかかろうとする年齢で、常に威厳と気品がある。普段ならこちらが乞えば、真面目に助言を与えてくれる人なのだが……。なんだか二人とも、もじもじしているので、逆に慌ててしまう。
「……ですから、具体的に」
 別に生々しいことを聞きたいわけじゃない。こっちも困る。
「まあ……いろいろたくさん、話したのだよ」
 使えな〜い!
「母上は、何で決心したんですか」
 親のことはずっと前から大人だったと思ってしまうけれど、21年前の母は、今の自分よりも若い19か20くらいだった。不思議な気がする。
「……」
 覚えててあげてよ。当時のアウグストゥスだって、必死で母上に話しかけていたはずなんだから。
「ドルスス」
 母リウィアはやっぱり困った顔で言った。
「用意したひと言で手に入るものは、何気ないひと言で失ってしまうかも知れないのですよ」
 ……アウグストゥス。何故そこで嘆息されるのですか?
「そう言ってもらえると、無駄ではなかったと思えるよ」
 相当苦労したんだろうな、義父は。
 母のような女は、巧言令色には落ちやしないのだ。手始めに、それまでの経験上有効だった、女性が喜びそうな言葉をかたっぱしから試していって、全部玉砕してそうだ。この際そっちでもいいから教えて欲しいものだけど。

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 ティベリウスです。第三者から見たキャラクターとして動かすと、こうなります。でも私が思いいれてるのは、史実のティベリウスです。当然私の妄想とは違います。(強調)

 顔立ちが整っている方、というのはスエトニウスからの印象と、「LATERAN MUSEUM 」の「YOUNG TIBERIUS」像を見てのことです。中年? くらいの像って恐そうですけど、わりとやさしい顔立ちしてます。

 ただティベリウスは「クラウディウス家の髪型」って、本当にやってたのかな? 皇帝クラウディウスの一番有名な像の髪型なんだろうな、と思っているのですが。


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