豪華な装飾のついた武具に身を固めた男たちが、戦いの前に、アウグストゥスの席の前にずらりと並び立ち、定型の挨拶を送る。
「カエサル(アウグストゥス)万歳……!」
雄々しい男の声が闘技場に響き渡る。
「これから死にゆかんとするものどもが、カエサルにご挨拶をいたします!」
これを聞くと、やりきれなくなる。彼らへの憐れみではない。自分の傲慢さに気づくからだ。
自分の中にも確かに、これらを楽しむ感覚がある。身体を美しく鍛えあげ、命のやり取りをする者を讃えたくなったり、まるで自分が神々の如く闘技場を見下ろしているかのように錯覚してしまう。
もっとやりきれないのが、自分はこの違和感さえそのうちに、感じなくなるだろうということだ。
歓声が、再びわき起こった。
それらをよそに、目の前では二人の女性が対峙している。マルケラの様子がどうもおかしい。ユリアを目にしたことで、動揺している。
「マルケラ……?」
懇願するように話しかけるユリアに向かって、マルケラはヒステリックな声をあげた。
「……母親が生んだ子供のことを、忘れるわけがないでしょう……!」
アントニアが背中にぎゅっと抱きついてくる。ユルスが、怒鳴りつけられるユリアをいたましげに見つめた。
「あなたなんて……」
試合が始まる前の緊張で、観衆の声が大きくなる。少しでもそちらに注意が向いてくれるのはありがたい。だが、中にはこちらを振り返ってるのもいる。何を言っているかまではわからないにしても、マルケラが逆上しているのは明白だった。さきほどまでは、あんなに楽しそうだったのに。
どうする? ユリアは立ち尽くしている。マルケラは混乱していて、会話が成り立っていない。
突如、兄ティベリウスが立ち上がった。
「帰る」
……何を言い出すんだ、この人は。
頭を抱えたくなってしまう。同情するようにアントニアが手を握ってきた。お互い、どこかおかしな兄を持っているので、苦労している。
「近頃の見世物は、低俗極まりない。見るに値せぬ」
元々、兄はこうした見世物が大嫌いなのだ。早朝から仕度をするのも面倒そうだし、いつにも増して機嫌が悪かった。
そして兄は、空席をまたいでユリアのところへ行き、有無を言わさずに彼女の腕をつかんだ。
「お前も。こんな汚らわしいものを、わざわざ妊婦が見るものでもなかろう。帰れ」
何か言いかけたユリアは、そのまま引っ張られて、兄に連行されようとしている。
「すまんな。俺も気づかなかった。今度からうちに呼ぶなりするから」
ユルスが声をかけた。マルケラの心情を思い知らされて、複雑であるはずなのだが。気づくとウィプサニアも兄に従うべく、既に移動しまっていた。
兄に無理やり連れ出されようとしているユリアは、振り返りながら言った。
「違うの。こんなつもりではなかったの……」
ユリアは自分に向けられたマルケラの憎悪に戸惑い、傷ついた表情を浮かべている。従姉に会うことがこうした結果になるとは、思ってもいなかったのだろう。
ユルスはユリアを見つめたまま言った。
「わかってる」
幸せに見えたもの。
たったあれだけのことで、それがもろいものだと知れてしまった。
マルケラ本人も自覚していなかったかも知れない傷。それが大きく広がり、血が再び流れ出してしまったような気がした。
それまで少し距離を置いていたアウグストゥスと久しぶりに会い、マルケラはうちとけた様子で話をしたし、母に尋ねられて、今のユルスとの生活に満足している、と答えたそうだ。多少の罪悪感もあり、姪の幸福を案じていたアウグストゥスも安堵しただろうし、それをアウグストゥスの前で告げられたユルスだって、有頂天だったに違いない。
それなのに、前ぶれもなく現れたユリアの姿がマルケラの心を乱してしまった。
ユルスに肩に手を置かれ、我に返ったマルケラはふいに泣き始めた。
「ごめんなさい、あなた……」
泣き崩れるマルケラが、子供のように見えた。さきほどまであんなに大人びて見えていた彼女が。
何を謝っているのだろう。
元首の娘に無礼をはたらいたことに関して? まさか。事情は理解されるはずだし、これが理由でユルスの立場が揺らぐということもないだろう。
――あれがマルケラの正直な気持ちであったとしても、ユルスを裏切って生活していたわけではないのに。母が前夫との子を思うことで、現在の夫に罪悪感を感じる必要はないと思う。
ユルスが「いいから」と呟き、なだめていた。完璧とは思っていなかったにせよ、お互いに愛情を持って築いていた夫婦関係が、これで壊れたことになるのだろうか。
ユリアについて、マルケラが過剰に反応していることが不憫だった。不貞でも何でもない。それは明白なのに、マルケラは何に対して詫びているのだろう。
どれくらい時間がたっていたのか。気づくと剣闘士の試合もいくつか進んでいた。アレーナでは男たちが、生き延びるために武器を持ち、距離を測りあっている。一方が劣勢に立たされているのがわかる。長くはもたないだろう。
「アントニア」
俯いて泣き続けるマルケラの肩を抱き、無言で試合を眺めていたユルスが妹を呼んで「落ち着いたらマルケラを連れて帰れ」と言いつけた。アウグストゥス主催の見世物を、ユルスは退席するわけにはいかない。義父は何とも思わなくても、周囲が非難するだろう。少なくともユルスは兄のように周囲を気にせずふるまえる立場にはないし、常識もある。
本日の一番の目玉は、やはり最後に行われる花形の剣闘士の試合だったが、何時間もかかる。大マルケラがこのありさまでは、とどこかで切り上げるべきだと思っていたところだ。
「はい」
アントニアは素直に答えた。
なんだろう。この違和感。以前も時々感じたけれど。自分たちの家族を守ろうとする時、この異母兄妹は不思議と通じ合っている気がする。彼らは今でも、マルクス・アントニウスの子であることを強く意識しているのだ。
「アウグストゥスには?」
「気分が優れないので帰宅したとでも言っておく」
ユリアが来ていたことには、触れないつもりなのだ。黙っていたとしても、アウグストゥスに知られないわけはないのだが、義父は彼らを追求しないだろう。お互いに気まずくなる。義父は自分には尋ねるかも知れないが、ユルスとの間には、そういう暗黙の約束があるような気がする。
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