アレーナ     3

 勝負が決まった。観衆は敗者の死を要求する。兄が下劣だとして嫌がるのは、殺戮が行われることではなく、人々が敗者を「殺せ」と命じるこの瞬間なのだ。
「……」
 アントニアが自分を見た。
「ごめんね」
「ううん」
 もしかして今日、この円形闘技場で一番場違いなのは、自分だろうか。
 こうして男たちが生死をかけているその傍らで、ユリアとマルケラのことも含め、全く別のことを考えていたのだ。
 今日は、アウグストゥスに話に行こうと約束していた。パラティウムに呼んで、二人のことを認めてもらうつもりだった。
 話を終えたら、キスくらいはできるようになるのかな、と思っていた。
 だけどそれどころではない。もちろんわかってる。ただ、覚悟を決めたつもりだったのに、ちょっと拍子抜けしてしまった。
 ……ええい。
「えーと。時間かかったでしょ、その髪」
「え? ええ」
「か、可愛いよ……すごく」
 うわー、似合わない。何やってんだ自分。丸きり棒読みで、口を開いた瞬間に既に失敗したと思ったが、無理やり言い切った。笑われる。絶対呆れられる……。
「……ありがとう。あのね」
 アントニアがやっと笑顔になった。
「朝から時間かけたんだけど。その間ってずっと、ドルススのこと考えてたの」
 あまりの自分のみっともなさに、死ぬかと思った。でもその言葉を聞けたのだから、無理して言って良かったと思った。


「いつも通りにするしかないが」
 帰り際、ユルスは言った。アウグストゥスが退場し、続いて自分たちも移動するので立ち上がったところだ。
 あまり試合の内容について記憶にないのは、こうした趣向に慣れて特に新鮮味もなくなったせいなのか。血の匂いにもいつしか慣れ、いたましいとまでは感じなくなっている。
 見世物はやはり見世物だ。儀礼的で美しくさえある。
 結局、試合に負けさえしなければ、どんなに傷ついても生き延びさえすれば良い。どんなに観客が死を求めても、命乞いをする剣闘士たちを、アウグストゥスは殺すことはない。
 ――それを「つまらない」とまでは言わないが、真剣味に欠ける、と思っている自分がいる。
 むごたらしく見えても、人々に崇高であるように見え、讃えられるならばそれは作りごとだ。本物の戦いは、もっと無様で不条理で醜い。
「気にするようなことでもないから、別に何とも思わんし。何について許してやればいいのかがわからん」
 だろうなと思う。だいたい不義についてなら、ユルスの方が「実行犯」なのだ。実子を思っているだけのマルケラを責める理由はない。
「確かに、子供たちについては俺も気が回らなかったかもな」
 マルケラを公式の場で見ることは、しばらくはないだろう。マルケラは、というよりも妻を着飾らせ、手を握っているユルスは、幸福そうに見えた。
 年齢には不相応の地位、ローマの最高権力者の血縁との婚姻、理不尽な離婚と再婚を命じたアウグストゥスに向かって、自分への愛情を告白してくれた、美しい妻。男としてどんなに誇らしい気持ちだったことか。アウグストゥスに苦笑交じりに冷やかされ、堂々とのろけるユルスの姿が想像できる。
「そりゃ女にアグリッパ将軍と比較されたら、このローマではどんな男も勝ち目はないわけだ。ま、なんとか若さとか男前度とかでは勝てるかも知れんけど。社会的な地位ではな……」
「ユルス」
「……わかってる」
 ユルスも薄々気づいているようだが、マルケラの心を乱したものは、アウグストゥスへの遺恨でも我が子の愛情でも先夫への未練でもなかった。自分が離婚させられた理由、「ユリア」への憎悪なのだ。マルケラが震えていたのは、自分があそこまで誰かを恨んでいることを、自覚してしまったからだ。
「俺には理解できんよ」
 自分はわかるような気がする。
 今の生活に慣れ、アグリッパ将軍もアウグストゥスも憎めないマルケラは、ユリアを憎むことでしか、罪悪感に折り合いをつけられないのだ。

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