欺瞞の繭     2

 食堂(トリクリニウム)に、ようやく仕事の区切りをつけたアウグストゥスがゆっくり入ってきた。リウィア様が横たわっている寝椅子の上座についた。既に私たちは食事を進めていて、アウグストゥスが遅れるのは日常のことだった。
 夕食に招かれた夫が私を伴ってパラティウムに参上し、そろってアントニアの話をしようという魂胆だった。今日こそはアントニアに再婚話を受け入れさせる、との明確な意思表示だ。小アントニアもまた例の話、とうんざりした表情は隠せなかった。他に食堂にはユリアもいて、話し合いという名の説得が始まった。
 
「嫌です」
 アントニアは、寝椅子から身体を軽く起こして、きっぱりと言い切った。結婚していた時には夫の好みに合わせて、若い婦人らしい身なりをしていたが、その夫に先立たれるとしっかりとした女主人、そして母親らしい貫禄が加わってきた。子供たちを抱えて生きていかねばならない、という決意の表れなのだろう。
「ドルススだって、その方が安心する」
 アントニアと同じ寝椅子にいる夫が何度か繰り返しているであろう言葉を言った。
 そうだろうか。私も、そして私の隣の席にいるユリアも納得しかねる顔をしていた。ドルススがアントニアの再婚を望んでいるとは思わない。
 あれほど誠実に妻だけを愛した男を私は知らない。若くして栄誉を手にし、誘惑も多く自負にも溢れていたであろうに、アントニア以外の女の元には帰らなかった男だ。アウグストゥスでさえ他の女と寝ている。私の夫も好き放題だ。こんな卑怯な男どもに一緒にされては、異性に関して潔癖だったドルススも納得行かなかろうに。
「いいえ。ドルススはもし自分が死んでも、私には再婚をしないで欲しいと言ったわ!」
「いつ言った? あいつが死ぬ前と今とでは、状況だって変わるのは当たり前だろう」
「この間のあなたたちのお説教の後よ! あの人が私の夢の中に現れて、絶対にアウグストゥスの言いなりになるなと言ったわ!」
 夫は「そんなわけわからん理屈があるか!」言い返そうとしつつ、とっさに言葉につまった。「あいつなら言いかねん」と思ったのだ。そう、ドルススは許さないだろう。
 彼はアウグストゥスが強引にアントニアを再婚させるだろう程度のことは想像していた。ユリアがマルケルス兄様やアグリッパ様に先立たれた時を見ていたのだから。
 どれだけ自分がローマに貢献し、アウグストゥスの御意に叶っていたとしても、何らかの理由で利用価値のなくなった者など、簡単に記憶から捨て去る。彼にとっての功労者も親友も、生存中にしか価値は存在しない。残された家族の絆など平気で断ち切り、かき回し、その妻も娘も天秤にかけて切り売りするのだ。邪魔な女も家を追い出され、適当に選んだ配下の男の妻として押し付ける。子供たちは不安な目をして家の中に閉じこもる。
 小アントニアは尊厳者の姪だった。ドルススよりも確実に彼の血を引いている。彼が何より執着する子種を持つ。当然、アントニアには新たな男との結婚を命じた。
 これがアウグストゥスのやり方だった。
 ユリアの時や私の時にその悲劇を見てきたドルススは、義父を信じてはいなかっただろう。その点では安らかに眠ることはできなかっただろうことが痛ましい。
「いつまでお主はドルススの死を嘆いてるつもりなんだ!」
「泣いていれば寂しいからだ再婚しろ、泣き止めば元気になったんだから再婚しろじゃないの! 他に言うべきことを考えることが出来ないの?」
 子供の頃の喧嘩と変わらない。もともとアントニアは末っ子にありがちな、口は達者な娘だったし、以前にドルススとの結婚が決まるまでも何年も衝突していた兄妹だ。
「これ以上言うならこっちにだって考えがあるわ!」
「お主の程度の女如きが、何を思いついたんだか」
 苛々してきた夫が、聞き分けのない妹に負け惜しみのように吐き捨てた。
 アントニアはそこで、アウグストゥスとリウィア様を見た。
「これ以上私に再婚を命じるなら、私たちの子供を殺します」


  今のアントニアには二人の息子と一人の娘がいる。うちの一人はドルススの遺功から「ゲルマニクス」と称されローマ市民からも愛されている子だ。まだ成人までには何年かあるが、既にローマを支える人材候補として期待されている。
「……どういうつもりですか」
 リウィア様がけげんそうな顔で尋ねた。私もユリアも、一瞬アントニアの言葉の意図を理解出来ずにアントニアを眺めた。
「我が子を殺す、なんて母親の身でそんなおそろしいことを……」
「私が他の男と再婚させられるくらいなら死にます、と言ったところで、あなた方は別に、私の生死は問わないからです」
 アントニアがキっとリウィア様と、その隣にいる無言のアウグストゥスを睨んだ。
「あなた方は、あなた方の血を引いている子供たちが生き残れば良いのですから」
 そんなことは……。と思い、口を挟むことは出来たかもしれない。けれどアントニアを再婚させる理由は、あまりに明白だった。アントニアは今後も残せる限り、アウグストゥスの血筋を持つ子孫を作らねばならないと言うことなのだ。
「あなたを私たちの実の娘のように可愛がっていたことも、あなたはお忘れなのですか」
 リウィア様の声音が尖っている。一番可愛い次男の嫁として扱ってきたことを、まるで忘れたかのようなアントニアの言い様に、気分を害している。
 アントニアは自分の意図に的確な言葉を選び、きっぱりと答えた。
「あなた方の娘なんて思われてもこんな風に迷惑していますし、別にそんなことを誇りにも思いません」
 なんてひどい。
 リウィア様やアウグストゥスに対してではない。同席しているユリアに対して私はそう思った。
 アウグストゥスの実の娘のユリアが誰よりもそう思っているのに。
 少なくとも夫の没する前までは幸福すぎるほどに幸福な家庭を築いていられたアントニアに、言われたくはないだろう。ローマにユリアほど、実父と義理の母を呪った女はいまい。
「私はもうあなた方の代わりに子供を産むのはたくさんです」
 あまりのことにアウグストゥスもその妻も声を出せないでいる。あのアントニアが。あの可愛いアントニア・ミノルが。少女の頃から家族として遇し、「私たちのアントニア」と呼び可愛がってきた嫁の口から、おぞましい言葉が出てくるなんて。
「あんたがそんなこと言う権利はないわ!」
 ユリアが寝椅子から身体を起こして立ち上がり、アントニアの側まで怒りの勢いで寄っていく。
「あんたなんか、私の辛さの半分も知らないくせに! あんたなんか私に比べたらどれだけマシだと思うの? 私なんて! どれだけひどい扱いをされてきたか、わかってる? あんたなんか、恵まれすぎなのよ!」
 思うような罵声の言葉が出ず、舌がもつれそうになる。それも腹立たしそうに、ユリアは顔を紅潮させていた。
「じゃああなたは、私があなたのように不幸になればいいと思っているの?」
 アントニアは冷たく言い放った。生前の彼女の夫が愛らしい妻のこの一面を知ったら、卒倒するだろう。常に周囲に愛され祝福され、自分の身を守る必要がなかったために見たことのなかった、アントニアの意固地な姿だった。
「自分以外の人間が自分より幸せになるのが、許せないのね」
 その言葉には、私自身が胸中をあばかれたような思いがしてたじろいだ。私も小アントニアに怒りを感じていたのだ。
 あのアントニウスの娘に生まれたくせに。なに不自由なく、周囲に大切にされて当たり前だったくせに。私たち四姉妹の中でも、アウグストゥスの一番のお気に入りの末娘。私のような苦い経験もない。ドルススのように誠実で妻だけを愛する男の妻でいられたことだけでも、感謝すべきだ(だが誰に? 善良なドルススその人ではなく、まさかアウグストゥスに感謝しろとでも? まさか!)。
「醜いわね」
 アントニアの軽蔑するかのような言葉に、食堂の一同が沈黙した。
 私は年甲斐がなくも、妹の言葉に我慢が出来なかった。私は本日、異父妹をかばいつつ、穏やかに説得するためにこの家族会議に呼ばれていたのに。
「自分だけが綺麗だと思っているの? 私たちが納得して結婚を受け入れたと思うの? あなたはたまたま幸せだったのよ?」
 仕方がなかった。母も叔父も夫も、私を不要だと言った。家族として暮らした歳月を無理やり剥ぎ取られて、別の男の子供を産めと言われた。そんな屈辱でも、受け入れるしかなかったのだ。私がユリウス家に関わる女だったから。
 私に何処に居場所があったのだろう。納得するしかなかった。
「だから次は私の番? 私が不幸になれば、みんなおあいこってこと? みんなが辛いから平等ってわけ? 私は絶対にお断り! これ以上結婚なんてしないわ! ドルススとの約束よりなにより、私自身がもう結婚なんてごめんなの。もうたくさんなのよ!」
 アントニアはドルススとの間に何人も子供を生んでいたが、早死の子ばかりで生き残っているのがゲルマニクス、リウィラ、クラウディウスの三人だけだった。
「じゃあ、私たちは何だというのよ!」
 ユリアが涙を浮かべながら叫んだ。
「どうして私たちは我慢しなきゃいけなかったの? 拒否してもわかってもらえなかった! 嫌でも何でも従うしかなかったのよ? あんただけずるいわ! 私のことをずっと見下して哀れんでたんでしょう?」
「私はあなたとは違うもの。神様の前での誓いは一生ものよ。守れないことは神様にだって約束できない」
 アントニアは意味ありげに、ユリアと何故か続けてユルスの方を見た。
「私は、あなたたちとは違う」
 夫は黙っていた。
 アウグストゥスにも言葉がなかった。
 アウグストゥスが青ざめてアントニアを睨んでいる。手先が震えている。その腕をリウィア様が支えている。どうかこらえるように、と。今口を開いてしまったら、アントニアにどんな処罰を与えてしまうかわからない。それをリウィア様が諌めているのだ。
 聡い正室リウィア。こんな時にでも実に冷静な女。内心は動揺しているのに、どうすべきかを計算しているに違いない。


 私は彼女の動揺を抑えているさまを眺めながら、内心ではいい気味だと考えていた。その刺激は快楽に似ていたかも知れない。
 私が離婚を言い渡された時の気持ちは、こんなものではない。
 ティベリウスがウィプサニアを離縁しなければならなかった時の気持ちも。ユリアが夫と死別しても次々に夫をあてがわれ、子供たちを奪われ養子にとられ、それでもまだ子供を生めと強要された時の辛さも。今の彼らの感じている悲哀とは、まったくほど遠い。
 何故不服そうな、納得いかないといった顔をしているのだろう。
 自分たちのしでかしたことから発しているのに。理由を考えれば理解することはできるはずだ。けして、納得することはないだろうけれど。
 視線を感じた。さきほどまで激高していたはずのユリアと目が合う。戸惑った表情をしていた。私の態度に違和感を感じたのだろう。こんな時に私が彼女の両親を冷淡に眺めていたからだ。普段の私なら、落ち着かなく困惑しているところなのに。
 私は親族の内乱を傍観していた。

 彼らは表面的には威厳を取り繕っていた。先ほどの私やユリアの怒り、失望の訴えは、なかったもののように無視されていた。当時同様彼らの興味をひかなかったのだ。
 心を押し殺して彼らの命令に従った私たちには一瞥もくれず、毅然として彼らに立ち向かう、アントニアに視線を定めたままだった。
「今後私に結婚を勧めるのなら、そのたびにこんな思いをすると思って下さって結構です。あなた方が皆、不幸な結婚をしているから、私にもその不幸を担わせたいってだけのことでしょう? 迷惑だからやめてください」
「アントニア」
 具合が悪くなってきたのだろう。不満に歪んだ、青白い顔でアウグストゥスが名を呼んだ。可愛い姪。可愛い、自分の血縁を何人も産んでくれた可愛い嫁。自分の野望を叶えてくれ、聞き分けの良い、ローマ市民の誇りとも言える善良で模範的な義理の娘。可愛がり、優遇し、名誉を与えてきたはずの娘だった。だが、やはりあの男の娘でしかない。あの愚かな男の血が流れている、愚かな娘なのだ。
「そこまで嫌なのかね。ドルスス以外の男に嫁ぐことが」
 アントニアは一瞬、決意するかのような表情をし、そしてぴしゃりと言い切った。
「ドルススは立派な夫でした。私以外の女に触れたこともなく、私もドルスス以外の男に触れたことはありません。でも、それとこれとは違います。私はあなたの手駒を増やすためにローマ市民を産む気はないのです」
 譲歩、妥協という形で差し伸べられた解決策を、アントニアは叩き払った。
 夫のドルススを愛していたから、という理由でなら。アウグストゥスの怒りを回避することは出来たかもしれないのに。私は妹の頑なさに嘆息した。
 正直な娘。羨ましいほどに、率直すぎる娘。
 これまでユリアや私はうつむいて自分の心を閉ざしてきた。本心を飲み込み、堪えてきた。ローマでは誰にも敬意を払われる地位にあったけれど、彼らにだけは立ち向かうことができなかった。
 アントニアは私たちの犠牲者でもある。私たちは家父長の命令を最終的には受け入れた。抵抗することを諦めた。投げやりな気持ちで妥協した。自分自身を見捨てたのだ。そしてその結論を自分達以外の者にも強要しようとしていた。
 私達がアントニアのために前例を作り、良き手本を示してやれなかったために、この異父妹は自分で戦わねばならなかったのだ。
 アントニアは私達とは違い、叔父の言う再婚命令には従わない、という道を選ぼうとした。長年私たちを見て秘めてきた決意だった。当然のように再婚を要求する周囲の雑音から自分の身を守るためには、壁を築くしかなかった。アントニアはその繭の中で別のものへと成長を遂げ、羽化しようとしていた。
 このままではいけないと思った様子のユリアも、実父に対して口を出すことが出来ない。私も黙っていた。危険な方向に話が進んでいるとわかっていた。アントニアは弁論を覚えたての子供のように、いい気になりすぎている。止めるにも私もユリアも、感情的にはアントニアをかばうことは出来なかった。

 なんてこと。これを、この子が言うなんて。
 その役目は私か、ユリアだと思っていた。もしアウグストゥスとその妻に、こんなことを言う者がいたとしたら。
 だとしても、聞き流されただろう。さきほどアウグストゥスとその妻が、興味もなさそうにしていたのと同様に。私やユリアが本気で呪いの言葉を吐いたとしても、平気な顔をしていただろう。
 知りたくなかった。
 運命を受け入れてきた私たちに、「その他」という選択肢があったのかもしれないという恐怖は、私達の背すじを冷たく撫でた。
 お前のためだ。
 お前の幸せを考えてやっているのだ。
 彼らはそう言うのだろう。そうなのかも知れない。私は今、家庭を持っている。結婚し、子供を儲けよという、ローマ市民としての役割を担って生活している。そう思うことで現状に満足できることもある。そう思うしかない。他にどんな方法があるだろう。アントニアの言うような生き方が、許されるなど思ったこともない。
 ――そんなこと。
 そんなことが、許されるなんて。そんなことが、許されたかもしれないだなんて!
 認めたくない。許されて欲しくない。いまさら、そんな現実を見せつけられるなんて!

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  アントニアは我が子クラウディウスを馬鹿よばわりしたくらいなので、結構 毒舌家だったんじゃないかと思います。
  私自身、アントニアだけが再婚しなかったなんてずるい、と思っていたのですが。それってアウグストゥスの理論に同意しかけてるみたいだな、と自分で思いました。
 アントニアが再婚しろという命令をどうやって拒み続けたのかを考えてみた時、相当孤独な戦いだったのかも知れないと思いました。 
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