欺瞞の繭     3

 黙っていた夫が動いた。彼は同じ食事用の寝椅子にいたが、勢いよく大きな音をたて、アントニアの頬を叩いた。
 ユルスと私は夫婦となる以前から、同じ屋敷で育ち暮らしてきた家族でもあった。小アントニアが私達の妹として生まれた時から、彼がどれだけ大切にしてきたかを知っている。
 初めてのことだった。彼が本気で家族を殴ることも、アントニアが誰かに殴られるということも。これまで一度として誰かから暴力など受けたことのなかったアントニアは、物理的な痛さに呆然とし、それから頬を押さえて声をあげて泣き出した。
 アントニアがどんなにいきがってみても、男の暴力には脆かった。だが他人を納得させることも出来ずにそんな方法しか取れない男は、なんと愚かに見えることだろう。
 夫は寝椅子から降り、屋敷の主人に挨拶もなく食堂を出て行った。ここで口を開くならアントニウス家の家長としての、アントニアに関する謝罪になったであろうに。ユルス・アントニウスは無作法にも立ち去ってしまった。
 これが結末になってしまった。後味の悪い、嫌な雰囲気が充満していた。夫に置き去りにされて呆然としたが、それを機として私はアントニアを支えて立たせた。ユリアもつきそってきた。
 やはり声をかけることもなく、私とユリアはそっとアウグストゥスを振り返った。その光景に愕然とした。横たわっている叔父の姿には拭いようのない老いがあった。リウィア様が心配そうに手を握り、話しかけている。当たり前のことだが、私の身にすら歳月を感じるのだ。叔父はもっと年を重ねている。弱々しげな様子に、思わず目を背けた。私は許さねばならないのかもしれないなどと、一瞬でも思ったことが悔しかった。この男が老いたという理由で、忘れなければならない日が来るなどと、思いたくはなかった。
 前へと向き直った。哀れだなどと思う気持ちはなかった。

 部屋に戻ってもアントニアは泣き続けていた。どれだけ虚勢を張ったところで、第一人者に慣れない啖呵をきったのだ。さぞや緊張していたに違いない。
 アントニアは、ただではすまされないかもしれない。
 それだけのことをしたのだ。そう思っていたが、私もユリアも口には出さなかった。部屋の隅に座り込んで泣き続ける異父妹を、私はどう慰めたらいいのかわからなかった。愚かな娘だ。羨ましいほどに愚かな娘だ。
 代わりにカリナエの屋敷にいた頃からアントニアに長年仕えていて、私も見知っている老いた解放奴隷の女が、抱きかかえるようにしてアントニアの言葉にうなずいてやっていた。
「アントニア様はご立派でした」
 アントニアは泣きながら、かぶりを振った。
「でも私は嘘をついてしまったわ。ドルススのことを軽んじるような言い方をして、偽ってしまった」
「ドルスス様もきっとご理解くださいます」
 実の姉の私よりも、女奴隷はアントニアから肉親のような信頼を受けていた。でも、でも、と同じことを繰り返すだけのアントニアをやさしく諭す。
 アントニアはどうにか泣きやみ、私達にお願いだからそっとしておいて欲しい、と震える声で何とか告げた。それでもこの後、一人になってまだ泣くつもりなのだろう。
 私達を見送る際に、その女がいかにも女主人の気持ちを代弁するかのように言った。
「ご理解くださいませ。ドルスス様を愛していたから再婚したくないという理由では、アントニア様は自分の身を守れないと思われたのでしょう」
 アントニアがこれまで何度「ドルスス以外の人物と結婚することは出来ない」と言っても、アウグストゥスは命令を押し付けてきた。それ以上のことを言ってわからせるしか手段がなくなったのだ。少しの妥協も譲歩も、アントニア以降の女たちのためにはならない。絶対的な拒絶を示さねば、何度でも繰り返される。
 アウグストゥスや私やユリアを敵に回しても、憎まれても、アントニアは自分の決意を貫いた。自分の言葉でドルススを否定することになっても。
 「小アントニアのためなら、僕はローマを敵に回す」
 生前のドルススの言葉を、大げさだと思っていた。アントニアは夫がそうしたであろうことを、自分でしたのだ。


 カリナエの屋敷に戻った頃には、先に帰宅していた夫は既に酔いつぶれていた。強めのブドウ酒を飲み、今にも寝てしまわんばかりに見えた。
 心身ともに疲れていたところにきて、この夫のだらしのない姿には更に疲労を覚えた。家内奴隷を呼び、食堂から寝室に運ぶように言いつける。
 それでも私は夫が気分の晴れない状態でも、この家に戻って飲むことを選んだのだという部分では、ほっとしていた。私の知らない不気味な仲間たちの元へ行って、うさをはらすようなことがないだけ安心した。
 奴隷たちを鬱陶しげに追い払い、夫は私に向かって「水」と言った。侍女に言いつけて台所から持ってこさせてから、私が杯を手渡すことにする。アウグストゥスに媚びへつらったその足で、家の中に一歩でも入り酒を一滴でも舐めれば、強気な酔っ払いになる。
 ……何年、私はユルスのこんな姿を見てきたことだろう。アウグストゥスと話した後は、はっきりとした理由もなくふさぎこむのだ。子供の時から、ずっと。

「ユルスがアントニアを叩いたのは、あれで場を収めるため――」
 アントニアの部屋から廊下に出た時に、ユリアが呟いた。以前はローマ市民の間でも、私たち従姉妹の間柄はアウグストゥス家の悲劇として面白がられていた。ユリアがティベリウスと再々婚をしてからは、そうした向きは少なくなったが。
 私たちは表面的な挨拶、あたりさわりのない会話、大げさでもないお世辞などで、敵意はない親族としてのつきあいをこなしていた。彼女にあまり関わりたくはないけれど、若い頃よりは気にはならない。
 美しいユリア。小さい時から父親や義理の母の顔色を伺い、窮屈そうな表情を浮かべていた従妹は、温かな血の通った、艶やかな女性に成長した。ふとした時の私への視線にも、以前のように肩身が狭そうに目を逸らすことはない。
「では、なさそうね」
 私はうなずいた。夫が計算をして、アウグストゥスの雷から、異母妹の窮地を救ったのだ、という捉え方も出来ただろう。けれど私もユリアもそれはないだろうと思った。結果としてはそうとも言えたけれど、彼は全く完璧ではなく、未熟な面が多々あった。達観したような口も叩くけれども、堪え性がなくて頻繁に本性を出すところは、父親譲りなのではないかと思う。
 あれは夫の突発的な行動なのだ。
 妹の発言が、夫を衝動に駆り立てたのだ。
 私もユリアも、アントニアには瞬間的には激怒した。同じ辛苦を強いられようという犠牲者ではない。私たちを侮辱する敵だった。
「アントニアには、幸せになって欲しい」
 夫はそう言っていたし、そのために生きてきたはずだった。家族、それだけが夫にはこのローマで屈辱に耐える理由だと、言い聞かせている面も確かにあったが。
 それでもあの瞬間には、アントニアに怒りの感情を覚えたのだろう。
 ――彼にとって、家族は第一のことではないのだ。自身に暗示をかけてきたようだが、それも限界があった。もうローマには、彼が未練を抱くものは何もなかった。
 アウグストゥスが私に課した役割を、私は果たすことは出来ない。
 私とユルス・アントニウスを結婚させ、私を通してアウグストゥスを家族として認め、彼を正気にとどめよというつもりであったのなら、それは無理だ。
 私は、彼の狂気を望んでいるのかもしれない。


「アントニアが、あの娘が、あんな風に考えていたなんて」
 泣くアントニアを更に叱ったり宥めたりする気力はなかったし、話し合う段階にもなかった。あれが私の知っている妹だとは信じられなかったからだ。
 ユリアとはまもなく別れたため、まだこの件について誰とも語ってはいなかった。
「なんであいつなんだ?」
 夫はむせそうな勢いで水の杯を干してから言った。嫉妬のような、憎しみのような複雑な感情があった。
 ユリアも私もあれを言うのは、自分だと思っていた。夫でさえそう思ったのだ。何故自分ではなくて、「幸せなアントニア」だったのだろう。
 夫にも義理の両親にも、ローマ中の人々からも愛されていたアントニアには、何が不満だったのだろう。叔父の思惑通りの理想的な家庭を築き、夫との間に子供にも恵まれ、ティベリウスとの夫婦仲のことで評判の落ちつつあるユリアなどよりも、ずっと輝いて見えていた。
 そう思いかけて、やはり私は嫉妬していたのだと思った。小アントニアが、自分だけ楽で幸福な人生を選ぼうとしていることが許せなかったのだ。
 夫が未練がましく酒杯の方に手を伸ばそうとするのを止めた。酒癖の悪さも、彼の父親譲りなのだろう。根気よく言い聞かせてもほとんど改善は見られない。
「嫌なものを見たもんだ」
「何がです?」
 お酒の酔いが回っているせいか、夫の体温が高い。
「あれが尊厳者か。そこらの女の言うことにムカつく程度の男に、俺たちは振り回されているのか」
 見たくはなかった。あんなに弱りきった者を見てしまえば、一方的に憎むことが出来なくなる。許さなければいけなくなる。相手が老いゆく者だという理由で、過去を美化せねばならなくなる。
 ――そうして感情が褪せていくことでしか、私たちは自分を納得させることはできないのだろうか。
「結局、アウグストゥスを絶望させられるものは、ないのかもしれんな」
 そうかもしれない。彼は他人の憎悪など受け飽きているのだろう。実の娘が泣き喚いても、視界にすらとどめなかった。自分が不幸にした人間の恨み言などで、いまさら改心することはないだろう。人は年を重ねても、必ずしも賢く成長するものではない。醜く何かに執着したり、けして他人の価値観を認めることが出来ないこともあるのだ。
 アウグストゥスは自分の目的のためなら、誰を犠牲にしても許されると思い込んでいる。アントニアの行為を無礼な裏切りとしか受け止めていない。
 失望した。私やユリアの言葉は、彼にとっては耳を傾ける価値もない雑音なのだ。
「アントニアでもあれでは、俺なんざが同じことをしたとしても、まともに聞きもしないだろう」
「何を言ってるの。そんなことでアントニアと張り合って、あなたは機嫌を悪くしてたんですか?」
 これが、夫の本音だったらしい。 
 アントニアに自分がやりたかったことで先を越されたから! 
 いつかアウグストゥスに、今までのことをぶちまける時が来るだろうと思っていた夫は、あっけなく異母妹が、しかも明らかに自分よりもアウグストゥスに衝撃を与えるという事実に、嫉妬していたのだ。
「何て子供みたいなことを」
  
 私は呆れながら呟いて、思わず抱きしめていた。可哀想な人。子供のまま、大きくなってしまった人。いつか、いつかと思い続けて、ここまできてしまったのだ。私と同様に。
 でも、いつ私たちは大人になったというのだろう。結婚も出産も親になったという事実さえも、私たちを理性あるものに成長させてはくれない。冷酷な家父長に振りまわされ、家族という檻に閉じ込められたままだ。
 私の胸にじっと耳を押し付けるようにして、夫は尋ねた。
「お主は、俺が死んだらまた再婚するのか」
「わかりません」
 したくない、ともしない、とも断言できない。離婚や再婚の時のように、私の意志で決められるわけではないのだから、そんなことを聞かれても意味はないと思った。
 ユルスが自分の死にふれるような理由は特にはない。順番で行けばアウグストゥスが先に死ぬ。その後はティベリウスが、そしてユリアの子供たちが継ぐことになる。その時に彼が私と離婚したいと言うのならば理解できた。
「して欲しくないと言って下さるのですか? ドルススのように」

 アントニアに対する愛情から生じたドルススの思いは理解できる。最愛の妻に、私やユリアのような思いはさせまいとしたのだ。母親の再婚に理解を示しながらも傷ついていたドルススは、自分の子供たちに同じ辛さを味あわせたくはないと考えていたのだ。
 けれど夫が死んだら他の男には嫁ぐなという言い分も勝手な気がする。特にドルススのように誠実な男ならともかく、私の夫のような勝手な男に死後も忠誠を誓えと言われるのは不公平だ。
「俺はどっちでも構わんよ……」
 私から身体を離そうとするのを、私は押さえつけた。適当に話題を変えたかった夫は、恨めしそうな顔をする。
 私が促すような表情をすると、渋々言った。
「結婚が、それほど悪くなかったと思うなら、構わんよ俺は。心底懲りたのなら、二度としたいとも思わんだろうから」
 ぎこちない沈黙に付け足して説明する。「オクタウィア様がオヤジの死後に再々婚とかしなかったのは、別にオヤジを愛してたとか、貞節を誓ったわけじゃない。もう結婚はしたくなかっただけだろ」
 この人は私の母が独身を貫いたことにさえ、実父のことで罪悪感を抱いていたのだ。
 アウグストゥスが言うから私と結婚した。オクタウィアが望んだから野心も捨てた。この人のこれまでの半生は、どんなに本人が適当な態度で否定してみせたとしても、実父の罪の償いでもあったのだ。
 母の結婚は、実弟の期待を裏切る結果に終わった。
 私達の母が、アントニウス将軍にさえ愛されていれば。家庭を保つことが出来てさえいれば。ローマの歴史は変わったことだろう。
 でもどうやって? こんなにとらえどころのない男を、どうやって繋ぎとめておくことが出来るというのだろう。

「それなら。もしあなたが私より先に死ぬのなら、その時には私の元にいて下さい。そうしたら、この結婚も悪くはなかったと思えるかもしれません」
 私がそう言うと、夫は「考えておく」と言った。冗談のように流すつもりに違いない。
 今、夫が私の側にいても私は不安だった。愛されていると感じたとしても、潮のように遠ざかってゆく幻なのかもしれない。婚姻も、夫婦にとってかけがえのない絆であるはずの子供も、男の心を保証してはくれない。

 最後には私の元にいて欲しい。心までは望まない。だから身体は私のところに残して欲しい。母のようにはなりたくない。母のように見捨てられた女にはなりたくない。
 私を母のようにしないで。
 他の女の元に行ってしまわないで。
「ユリアとのこと、知ってるのよ」
 夫は瞬きをし、やはりという顔をした。実際にははっきりとした声で「そうか」と呟いた。彼らの不義のことは、あの様子ではアントニアも知っていたのだろう。
 不思議なことに、怒りはなかった。何故二人が惹かれあうようになったのかにも興味はない。互いの境遇に同情があったとしても、アウグストゥスに対する反発なのだという子供のような理屈であっても、さして興味はなかった。私はその噂を意外なほど穏やかに受けとめていた。
 この一族は歪んでいる。一人の男の狂気に操作されている。複雑な婚姻を重ねることで、不気味な系図が作り上げられようとしている。その脇枝である私たちが狂気に身を委ねたとしても、それは自然なことに思える。正気のままこの世界を生き延びることは難しい。
 視線を逸らした夫を、私は見つめた。
 言い訳も開き直りも聞きたくなかった。とってつけた説明など無意味。私とユリアのどちらを選ぶつもりなのか、などと迫る気も微塵もなかった。
 彼の気持ちなど、私はいらない。彼の言葉など、何も証明しない。本当は私の方を愛しているなどと、こんな男の口から言わせたところで何の価値があるだろう。何も感じない。役者の暗記する芝居の台詞のように、嘘寒く吹き抜けていく。
 けれど私は夫を離したくはない。愛ではない。情でもない。子供達のためだとかいう、言い訳すら必要としなかった。私は母のようになるのはまっぴらだ。ただそれだけの理由だった。
 夫の不義を憎むことが出来たなら。もしくは自分の面子だけが大切だったなら。彼らを許すことは出来なかっただろうに。
 私は何も感じることが出来なかった。
 相手がユリアだからだ。あの従妹を憎むことに、私は既に疲れきっていた。今の彼女の境遇は彼女が望んだものではない。わかっていながら、私は長年目をそむけてきた。わかっていた。私が憎んでいるのはユリアではない。
 皮肉なことだ。執政官が命じたとしても、国家の法が制したとしても、人の心までは縛れない。ユリアが選んだものがユルスであったのなら。アウグストゥスは間違った運命を自ら導いたのだ。
 ――可笑しかった。何故よりにもよってユリアなのだろうと思うと、他人ごとのように笑えた。私は悲劇の女には程遠い。別に悲しくもないのだから。
 母は、泣いたのだろうか。
 何も感じなかったのではないだろうか。裏切りを知っても、泣いて引きとどめるほどの男ではない。
 夫は目を閉じて、私の言葉を待っている。
 彼らをどうしようとも思わない。たとえ本当に彼らに生じたものが愛だったとしても、次の瞬間には変質するような、人生の中でのいっときの通過点であるのかもしれないのだから。
 私は胸に夫の頭を抱きしめた。
 あなたの言葉はいらない。あなたが帰ってきてくれればいい。最後に私の腕に戻ってきてくれるなら。
 その時には、これは幸せな結婚だったと思えるのかもしれない。

2008.1.13〜3.22 UP
TOP      LIST     
 私にしては直前まで推敲しまくった話です。また改めるかもしれません。そしてユリアの話(「冷めた愛欲」)と並べるとユルスって結局、どっちからも愛されてないなあっつー話です。ユリアもマルケラもユルスの気持ちなんて信じてないし、自分だけ愛して欲しいわけでもないし、他の女に嫉妬するのも面倒がってる。「今だけ、身体だけの関係でいいわ(ユリア)」「正妻として扱ってくれれば、途中経過には目をつぶってもいい(マルケラ)」。ヒサンだなあ。まあ私は浮気男には同情しないけどな。
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送