死者の名

 ようやくここで、王子は本題に戻った。男の偏った目で「品がない」と見なしていた女が、さりげなく場をさばいてくれたのに、少々バツが悪そうだった。
「『アステリオン』を知っているか?」
 クラウディアは素直に返事をする。
「実物は存じませんが、噂だけなら。『アステリオン』を持つ者は、アレクサンドロスの偉業を継ぐものなのだとか」
「それがカエサリオンだと言われているようだが、カエサリオンに会ったことは?」
 彼女にとって、カエサリオンは義理の父(アントニウス)の、再婚相手の連れ子である。もはや他人であるので庇う義理もなければ情報もなく、完全に伝聞の形である。
「いいえ。ございません。大王の墓がアレクサンドレイアにございますわね。それから生じた噂でしょうか……。そうですわね。あの方たちが『アステリオン』を持つ者、と呼んでいたのは、そのカエサリオンのことを言っていたのかも知れませんわね……」
 ユリアが不思議そうに言った。
「ヘンな噂。お父様に反感を持つ輩なんていくらでもいるけど、もう少しマシな噂流せばいいのに。その人、死んだんでしょ」
 誰もが肯定を期待していたが、王子の顔からは血の気がひいていた。
「プトレマイオス・カエサリオンは、殺されたことになっているが、実際ローマ側に彼の顔を知っている者が少なく、年格好と遺留品で確認したというのが真相なのだよ。アンテュルスも、彼の奴隷がそう断言した。ローマの人間は誰も、それが本人かどうかはわからなかった……」
 王子は三年前、アウグストゥスのエジプト行きに従っている。
 室内に、沈黙の幕が降りた。
 ユルスが突然、立ち上がって短剣を取り出した。部屋を飛び出してゆく。慌ててユルスの後に続くと、彼の前には、男の姿があった。
「貴様!」
 薄暗い廊下の先に、灯火がかけられている。ユルスは慎重に男に詰め寄っていった。見ると祖神ウェヌス神殿にいた男である。
「クレオパトラをどこへ連れ去った!」
 男は落ち着きはらっている。
「クレオパトラを返せ!」
 何か言いかけた王子は、ユルスの表情を見て戸惑った。
「ユルス」
 男が言った。低い声だった。まるで冥界からのうめき声のような。
「私を忘れたか、ユルス」
 男はユルスより二、三年上かという若さで、ローマ人であることはわかる。逃亡や攻撃の意志はなく、静かにユルスを見つめて立っていた。
「ユルス?」
 王子が話しかける。ユルスはきっとなった。
「知らん!」
 ユリアがクラウディアにすがりつき、震えながら二人を見比べ、もしかして、という呟きをもらした。
「似ていない?」
 とユリアは言った。「あたし、ユルスのお兄さんと結婚するはずだったの。顔なんかは覚えていないんだけど昔、婚約式をしたことがあるの……」
 確かに二人はどこか似ていて、それは兄弟であるという仮定によって納得できる。誰の脳裏にも一人の男の名が点滅していた。
「ええ。あれがアンテュルスです」
 クラウディアが言った。少なくとも彼女にそう名乗った男は、ユルスを見た。
「私は戻ってきた。このローマに。オクタウィアヌスの追跡を逃れるためにアレクサンドレイアを離れ、各地を流転した後、ようやく戻ってきたのだ。ユルス。四年ぶりか……。久しいものだな」
 王子も二人を見守る。
「何のことを言っているのか分からぬ。貴様が誰だろうと、俺の知ったことか! クレオパトラを返せ!」
 ユルスは否定したが、王子は男が彼の兄、アンテュルスであることを知った。
「エフェソスのアポロニオスを殺したのはお前か」
 ユバ王子はアンテュルスに言った。
「お前の正体を知っている、嘗ての師に会ってしまったために、殺す必要が生じたのであろう?」
「……違う。奴は裏切った」
「裏切った?」
 アンテュルスはそれに答えず、マントの中から短刀を抜いた。
「ユルス。ローマを離れろ。エジプトには父上の同志もいる。王家や父上の財産もある。兵を集めることもできる」
「貴様に俺が命令されるいわれはない!」
 ユルスは叫んだ。
「お前を呼びに来た。クレオパトラがいれば、王家を再興できる。お前とて、父親を殺した仇に、卑屈な態度をとらざるを得ない屈辱は、耐えがたいはずだろう!」
 アンテュルスは弟に向かって呼びかけたが、ユルスはかたくなに言い返した。
「何を言っているのかわからん。俺の親父は勝手に自殺した。孤児になった俺を育ててくれたのがアウグストゥスやオクタウィア様だ。アンテュルスは死んだ。俺はお前なんざ知らぬ。クレオパトラを返せ」
「……それが答えか」
 交渉が決裂したと知ると、ユルスに剣を向けた。
 男はじりじりと廊下を後ずさってゆく。先には窓のない部屋があるのみである。ユルスが短剣を構え、突きかかってゆく。それがかわされ、ユルスとアンテュルスの位置が入れ代わった。
「ユバ。そいつを逃がすなよ!」
 だが王子はためらいを見せた。
「いけない、ユルス……君の兄ではないか」
「そうよユルス!」
 クラウディアが、信じがたい表情で異父弟を見つめていた。
「……あなたの兄なのよ!」
 ちっと舌打ちすると、ユルスは自分に言い聞かせるように呟いた。
「アントニアたちも、クレオパトラもやっとこれからって時なんだ……」
 王子は背後のユリアやクラウディアに逃げるように指示を出し、ゆっくりと男に近寄ってゆく。
「お前なんか、いてはいけないんだ……」
「ユルス。落ちつきなさい」

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まあ実際問題、「生き別れの兄だ」と言われてもムカツク相手を信じたりしないなあ。
「その話し方を直してから出て来んかい」とか思うよなあ。私だったら。
もし父親(マルクス・アントニウス)が出てきても、ユルスの立場だったら扱い困るわホント。
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