「クレオパトラ!」
私達は駆けだしたユルスの後を、特に急ぐこともなくついていった。通常、神殿には正面に階段がついているものだが、ここは神君カエサルの私的な意味合いのある神殿であったので、多少人を拒むかのように、目立たぬようにして両側面についている。
列柱を抜け、薄暗い神殿の奥にゆくと、女神らしき黄金の彫像の前に王女の姿があった。王女はひざまずき、祈っているように見えた。
「心配したぞ」
ユルスが側に近寄ってゆき、王女の隣に腰を下ろす。王女が顔を上げた。
「もうこんな時間だぞ。危ないじゃないか」
私達には、二人の会話が静かな神殿に反響して聞こえてきた。私は神殿の外にあった松明を持って中に入り、二人の姿が見えるように掲げた。
「ユルス……」
「せめて誰か供でもつけろ。若い娘が街を一人歩きしていいものではないぞ」
ふらりと王女がユルスに倒れこんだ。慌てて抱き抱えたユルスが、ふとそれに気づいて声をあげた。
「おいユバ!
人が倒れてる!
死んでるみたいだぞ!」
スブラでは殺傷沙汰などさほど珍しくはないのか、王子は平然と近寄ってゆく。私には初めてのことでもあり、妙な胸騒ぎがした。
ギリシア人はヒマティオンを纏っていることからすぐにわかる。男は胸を短剣で刺されており、胸部とそこに面した床が血で染まっていた。
ユバ王子は予想はしていたのか、屈み込んで死人の顔に松明を近づけた 私に向かって尋ねた。
「エフェソスのアポロニオス殿か?」
私は無言でうなずいた。
不思議な気がした。
確かにそれは、見覚えのあるギリシア人男性だった。だがそれが我が師であると気づくのに時間がかかり、さらに納得するのに時間を要した。
「胸を短剣でひと突きにされている」
私が必死で、この死体は我が師であるという結論に結び付けようとしている目の前で、王子は淡々と言った。
「体温や身体の硬直ぐあいから見て、死んでからそうたってはいないな」
王子が生前の彼に敬意を抱いていたのは確かだが、死んだ今では死体としての興味が優先するようだ。
「金銭の類は取られていないようだ。金銭めあてでないとしたら、アポロニオス殿と知って殺したのか。あまり抵抗の後がないということは、知り合いで、話でもしていたところを、ふいをつかれたのだろうか」
冷静なのか冷淡なのか、王子は観察結果を述べ、死者の目を閉じさせた。ローマ人は死者に目を閉じさせ、焼く時には開かせる。
「どうしたんだ。なんでこんなことに……」
ユルスが異母妹に尋ねた。
「……アポロニオスに手紙で会いたいと呼ばれていて。外の……フォルムで会うことになっていたの。時間になっても来ないものだから、中に入ってみたらアポロニオスが……近寄って行ったら、こんな姿で……どうしていいのかわからなくて……」
途切れがちに王女は呟いた。
と、ユルスが何かに気づいてそちらに顔を向けた。女神像の影に、何者かがいる。「お前は……」とユルスが言いかけた。
王女もそちらを向き、それを見た。
「……何故、あなたが」
その男に王女は尋ねた。まだ若い少年で、どこにでもいるトゥニカを着たローマ人に見えた。
ユルスは王女を置いて立ち上がった。
トガの中に隠し持っていた短剣に手をのばす。
閃光に金属音が続いた。男を狙って振り下ろされた短剣はかわされ、黄金の女神像に叩きつけられた。
「待て……っ!!」
男は身を翻して逃げた。
時間が止まったように見えた。私にはいくらでも動く機会があったように思えるほど長い時間だったのだが、それぞれが術にかけられたかのように動かなかった。
「追います!」
私は走り出した。生まれつき脚力には自信があった。大抵の人間には追いつけるはずだった。
神殿を出て、広場に飛び出た。フォルムの空は既に薄い赤紫になっていて、陰りゆく広場の先に、何かが去ってゆくのが見てとれた。射程距離であることを確信し、私は更に駆けた。
誰か通りかかる人があれば、声を出して助けを求める気でいた。だが通りすぎる者もなく、いくつか入り組んだ角を曲がるうちに、気づいた時には見失ってしまっていた。
私が成果なく神殿まで戻ると、薄暗い中、王子はまだつっ立ったままだったし、ユルスは膝を床について俯いていた。王女はその二人をぼんやりと眺めている。
あの男が私の師を殺したのだろうか。そう考えるのが妥当だろう。そしてまた、嘗てのエジプトの女王の娘、クレオパトラ・セレネ王女を、害する目的で現れたのかも知れない。
事態は緊急を要している。呆然としている贅沢は許されないはずだった。 だが、三人ともが放心状態で、身動き一つしない。
「ユバ王子?
ユルス様!?」
私は王子たちが少しも慌てていないのに、憤慨していた。こんな時に、何を考え込んでいるのだ。
「ステファノス。今回のことに心当たりは? アポロニオス殿が、恨まれているようなことはなかったか?」
「ありません。我が師が人に恨まれる覚えなど……」
やはりこの人は、どこかおかしいのだ。私は誰に向けて良いかわからぬ怒りを、王子に向けていた。
「私に『良く生きること』を教えて下さった方です。殺されるほど憎まれるなんてありえません!!」
私は実父に続いて、養父をも失った。一人は病死で、もう一人はこんな形で。同情してくれとは言わないが、こんな無神経な王子と結婚などしなければならない王女が、今さらながらに哀れになった。
頼るべき、目標とすべき、師が亡くなられた。目指していた将来までもが消滅したような気がした。世界を背負うアトラスのように身体が重く、立っているだけで吐き気がした。
「お主、大丈夫か」
さすがに見かねたユルスが言い、青ざめた王女が私を無言で見ていた。
「ステファノス。すまない。その……」
興味が先行していた王子は我に返ると見る間にうろたえた。その冷淡さは私同様に事実の認識を拒んだ、現実逃避だった。
後に王子は自分が、人の死を本当に悲しむことはできない人間だと思っていたと言った。肉親を失う辛さを知らなかったし、誰かを心から大切に思い、愛したこともなかった。だからずっと、自分が悲しむのは、偽善のような気がしていたと言った。だがユバ王子はこの先、何人もの死を嘆くことになるのだ。
「……あの男を知っているのか」
王子が王女に尋ねると、ユルスが王女を見つめた。困惑したような、傷ついたような表情をしていた。王女はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「知りません」
「ユルス。君もだ」
王子は問いかけたが、ユルスも沈黙した。王女は確かにあの男を見知っているし、ユルスも、男の正体を知っているような反応をした。
「君たちはあの男を知っていて、隠そうとするのか」
ユルスは眼をそむけ、弱々しく言った。
「……頼む。今は何も聞かないでくれ」
「何言ってるんです!? あの男が師を殺したんじゃないですか!? 黙っていていいものじゃないでしょう!?」
私は二人を怒鳴りつけていた。
「人殺しをする男をかばうということは、死んだ私の師より人殺しの方が大事なんですか!?」
私は声をあげたが、王子に腕をつかまれた。逆上していた私は、その時とめられていなければ何を口走ったかわからなかった。二人を傷つけるようなことを言っただろう。
「彼らには事情もある。ステファノス。君もまず落ちつきなさい」
冷静に王子が言うのが、人ごとを処理するかのように聞こえて腹が立った。
「犯人を探してください」
私は王子に言った。納得できなかった。犯人はあの男だとわかっているのに、それを追求できないというのは間違っている。
だがこんな時に言う言葉だろうか?
考えてみると私も王子も妙な会話を交わしていた。事件が現実とは思えず、私が義父の死を認めて泣けたのは、何日も後のことだった。
王子はふと我が師の握った右手を開かせた。
「デナリウス銀貨だ」
奇妙だった。我が師がそんな大金を石ころのように手に持って歩くとは思えない。
「少し預からせてもらう。いいかな」
金銭目当ての殺人ならともかく、犯人が握らせたものだとしたら、いったいどういう意味があるのだろう。
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