ローマ

 ローマの一日は、空の白むころには始まる。まず鶏が鳴き、パン屋が起きる。道に香ばしい香りが流れて日も昇るころ、人々は活動を始める。朝は食事をとらないのが普通である。
 ローマの人々には、いわゆる親分子分の関係が存在する。この親分は訴訟や厄介事の時には一肌脱いでやるから、選挙の時にはよろしく頼むという間柄である。毎朝、顔を洗って身なりを整えると、成人男性は自分の保護者のもとに伺候する。
 執政官アウグストゥスともなればその来訪者はひきもきらず、ユバ王子はよく言えば遠慮がちに、正直に述べると都合のいい朝にご機嫌伺いに参上し、簡単な挨拶できりあげた。アウグストゥスに対する嘆願もなく、触れられたくない話題になるのも困るからである。
 アウグストゥスとの謁見を終えると、王子はフォルム・ロマヌムに下りてゆく。フォルムには元老院や神殿、市場や学校があり、議員や神官や商人、奴隷や買い物客、地方から出てきた者や外国人などが行き交う、活気に満ちた場所である。
 石灰岩のブロックを敷きつめた広場には、代々の執政官たちの築いてきた、公共の建物や神殿によるローマの歴史そのものがある。王政時代の公邸や、ウェスタ神殿、商業会館であるバシリカ・アエミリア、カストル神殿、サトゥルヌス神殿、元老院であるクリア・ユリア、建設途中だったバシリカ・ユリアもあった。
 私が王子と共に過ごした日々は、どこに行っても建設中という時期にあたった。ローマのそこここでは、アウグストゥスやアグリッパ将軍の出資による建築物が造られていて、新しい時代の到来を感じたものだ。
 走ってゆく子供たちや厳めしいギリシア人の教師、元老院議員やその取り巻きたち、何かに急いでいる若い奴隷や、暇を持て余す老人、何かを語らう恋人たち。それらの間を行き交う物売りや辻音楽師たち。
 当時のローマには百万もの人が住んでいた。その中心のフォルムには、ローマ人はもちろん、ヘレネス(ギリシア人)、アイギュプティオス(エジプト人)、シリア人、ヘブライ人、ガリアやゲルマニア、ブリタニア、アフリカ、アシアなどのさまざまな種族の民、インド人やスキタイ人などがやって来る。威厳のある富める者も、得体の知れぬ貧しき者も、この地に住まう者も、いずこからかやって来た者も、あてのある者もない者も、行き交い、立ち止まり、このローマという、まちの一風景となる。
 師に私を連れて行けない用事がある時には、私は王子に連れられてローマを見て回った。「ないものは雪ばかり」といわれる大都市アレクサンドレイアから来た私には、少しばかり鄙びた眺めだったが、ある時などはフォルムで人を待ちながら、見かけた人間の顔だちや身なり、話す言葉から、それがどこの国の者かをあてっこをした。
 「私はね。故郷の言葉も喋れないし、文字も書けないんだよ」
 馬具のほとんどない馬を巧みに乗りこなす、ヌミディアの軽業師を見ながら、ユバ王子は呟いた。あごひげを伸ばして固め、長く伸ばした髪を編んで蛇のように太い房を片方の肩に垂らしている姿は、ギリシア人やローマ人には異様なものにうつった。
「私の父はユバで、祖父はヒエムプサル。曽祖父がガウダ、高祖父がマスタナバルで、その父親のマシニッサというのが、王を名乗ったのがヌミディア王家の最初らしい。その父親がガラで、その父親はジラルサンというんだそうだ」
 もともとはヌミディアのマシュリー族は、遊牧民であったが、初代国王マシニッサが親ローマ政策を取り、農作物栽培を始め、文明化されるに至った。
「自分の家系がそこまでわかっているなんてすごいですね」
「でも私の祖先や親戚だと教師に教わったって、実感はないんだよ」
「まあそうでしょうね」
「たまに、冗談じゃないかなと思うことがある。ローマの人々は、私を騙してるんじゃないだろうか。神君カエサルはその辺で泣いてた子供を拾って、『お前は王の息子なんだよ』って言って育てたんじゃないのかな……」
 十九年前(紀元前19年)、神君カエサルは、ローマに帰還すると四度の凱旋式を挙行した。ガリア、エジプト、ポントス、アフリカそれぞれの勝利に対するものである。
 アフリカのそれの時、当時四歳のユバ王子がローマ市民の前に引き出された。凱旋記念の式典はローマの軍人としての最高の栄誉である。当時ローマに滞在していたクレオパトラ七世は、王子の姿を見ていよう。まさかその幼児が後に生まれる娘の婚約者になるとは想像しえなかったであろうが。
  軍神マルスの原からフォルム・ロマヌムを通り、カピトルの丘に向かう道のりを、幼いユバ王子は見せしめとして行進させられた。王子はヌミディアの装束をまとってゾウに乗り、市民の前を引き回されながら、恐怖に怯えると同時に、これまで見たこともない世界に驚嘆していた。 「フォルムへの道のりに限定すれば、凱旋将軍も捕虜も同じじゃないか。おまけに高さがあったからね。素晴らしかったよ」 晴れた風の心地よい日、フォルムを歩きながら、王子は言った。

 王子はフォルムで知人に会って立ち話をしたり、演説を聞いたり、床屋で髭を剃ったり、書店に寄ったりして午前中の時間をつぶす。それからいったん帰宅をし、朝食と昼食兼用の食事となる。
 ローマに来た頃、王子は神君カエサルのもとに引き取られていた。他にも似たような境遇の王族や族長の子弟のいる大所帯だった。それからアウグストゥスのもとに預けられたが、成人した時にパラティウムを出て、屋敷を構えさせてもらった。王子が選んだのは、よりにもよってスブラ地区だった。
 スブラは庶民的な地区で、解放奴隷や職人や商人もいれば、カエサルの屋敷もあったし、貴族の屋敷も存在する雑然とした地区である。いかがわしい売春宿もあればヤクザまがいの者たちも住んでいる。すぐ近くの狭い路地には高層の住宅が密集し、火事でも起ころうものなら大変なことになる。
 フォルムにも近いことから、王子はこのスブラに広さはまあまあの貴族の屋敷を買い取って、朝に夕に起こる喧騒に囲まれる環境の中、研究や執筆を行った。
「こことパラティウムを往復するだけで、いろんなものを見られるから」
 と王子は言った。酔狂な王子様である。
 ユバ王子はラテン語を話し、ギリシア語で記述を行った。地誌、歴史、文法、文学、博物学などに精通していたが、その傾倒のしかたはときおり常軌を逸したものとなった。
 後のことになるが、私もあらゆる種類の毒に効くという植物を求めた王子の供で山に登り、死にそうな思いをしたことがある。
「危険です、毒蛇が出ますよ!!」と私が諌めると、王子は答えた。
「だから、そのための解毒剤を作る薬草を取りに来ているのだよ」
「解毒剤を見つける前に噛まれたら、どうするんですか」
 王子は自信ありげに断言した。
「蛇に会ったら『二匹』と言うと、噛まれないのだ」
 幸いな事にその迷信を立証させられることは免れたが、王子はその植物に讃歌までつくった。凡人には理解に苦しむ感性を持つお人である。
 昔はアウグストゥスやアグリッパ将軍の話を聞くのを好んだが、アウグストゥスの側近となってその遠征に従うようになると、自分で現地に行って珍しい民族の風習や言い伝えを採集することの楽しさを知った。
 ユバ王子は多方面に興味を持ち、それを調べては皮紙の束に書きつけて巻物にした。後にアウグストゥスの養子のガイウス・カエサルがアラビアのことを知りたがった時などは、一冊書物を書き上げて献呈した。また、美術品や工芸品を好み、偽物と知りながらピタゴラスの手稿を買い受けるような一面もあった。
 政治活動をする身分でもあれば違ったが、王子にはいくらでも暇があったから、日常の大半を学問に費やすという日々を送っていた。スコラ派のスコラは「暇」の意味で、暇を有意義に活用することから来ているから正しいことではある。

 ユバ王子は午睡の後、再び屋外に散策に出る。気分によって運動をすることもあれば、庭園を散歩することもある。歩きたい日には、ティベリス河を渡ってカエサル庭園と呼ばれている、彼の死後、遺言によってローマ市民に開放された公園に行った。体操する者や、詩を朗読したり演説する者もいる。物売りもいれば音楽を演奏している者もいる。
「あの建物は何ですか」
 遠目に、立派だが人の住んでいる様子がないさびれた屋敷が見えた。
「故人の――神君カエサルの持ち物だよ」
 王子はその建物をちらと見た。
「アウグストゥスに譲渡されたが、使用しないので、閉鎖されているのだよ」
 王子もアウグストゥスに「使うかね」と言われて断った。別荘として使われていただけあって、中心部からは離れている。用のあるたびに河を渡るのが面倒だったのだ。
 今では無料で開放されているが、当時の浴場は個人経営の小さなもので、少し後にアグリッパ将軍がしっかりした水道設備と広い公共浴場を造るまでは、有料だった。試しに連れて行ってもらったが、あまり水道の状態はよくなかった。随分高く感じる入場料を取られるが、それでも熱い湯と冷水の風呂、熱室(サウナ)やマッサージ室がある。
 屋敷に小さな内風呂があるのでさほど必要性は感じないようだが、その後ローマに立派な公共浴場が出来ると、王子の気に入りの場所の一つになった。

TOP      LIST      NEXT
この小説のコンセプトは「人が古代ローマと聞いて思い浮かべるものを入れよう」でした。
なので無意味にお風呂のことにもふれています。
ユバ王子が出た凱旋式は、クレオパトラものの映画で出る時のものです。まあゾウの背中に乗ったかは知りませんが。
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送