アンティゴネ

 しばらくしてユバ王子が立ち上がった。何かを尋ねられた家内奴隷が、慌てた様子で王子の後を追う。
「これで失礼するので、彼女に挨拶をしようかと……」
 妙なところで義理がたい。私も王子に続いた。そろそろ私たちも辞する時間だった。王女の部屋は二階にある。
「『ご覧ください、テーバイの王家の方々、王族の最後の、たった一人残った者が、どんな目に、しかも、どんな人間からあわされるのか』……」
 ソポクレスの悲劇『アンティゴネ』だ。
 奥まった女部屋に置かれた椅子に座った我が師は、ふと顔をあげた。膝には幼い王女が突っ伏して泣き崩れている。
「大嫌い!! ローマなんか大嫌い!! アウグストゥスもオクタウィア様もリウィア様も、誰も彼も大嫌いアレクサンドレイアに帰りたい!! 帰りたい!! ……帰りたい……!!」
 涙声のコイネー(共通ギリシア語)だった。
「ヌミディア王の御子」
 師の声に、王女の身体がぴくりと動いた。王子は部屋の前に無言で立ったままだった。気まずさに、王女の侍女は声のかけように迷っている。王子は我が師に対しては会釈をするにとどめた。
「セレネ。あなたはもう子供ではない。いずれは人の妻となり、家庭を築き、親となるのだから……」
 王女は涙を払うと、立ち上がった。
「先生は、罪人の娘が生かされて、結婚までさせて貰えるのだから感謝をしろとおっしゃるけれど、殺されていた方がマシでした!! 哀れまれ、温情で生かされる人生なんて!! 父も母も耐えられずに死を選んだほどの人生に、何の価値があるのです!?」
 泣きはらした眼で、王女はユバ王子を見上げ、睨みつけた。
「こんなに辛い思いをするほどなら死にたかった……。あの時、アレクサンドレイアで、一緒に殺して欲しかった……」
 王子は無言だった。それは王子にも身に覚えのある叫びだった。
「ユバ王子」
 我が師は座ったまま二人を見上げる形で言った。
「私はあなたがセレネと婚約したと聞いた時、なるほどと思いました」
「他にエジプトの王女と結婚させるのに適当な者がいないからです」
 ユバ王子は答えた。
 アウグストゥスは王女の扱いを誰にも批難させる訳にはいかなかった。アルメニア、パルティア、メディア、ゲルマニア等、滅ぼした国や友好国の王や王子、諸部族の長や血縁者の中から、年齢や気性を考慮した上でユバ王子が選ばれた。王子自身も納得せずにはいかない、最良の選択だった。
「そうです」
 我が師も認めた。
「それでも、素晴らしいことだと思いました」
「アウグストゥスに言いなりの男だからでしょう!!」
 王女がいきりたつ。
「言いなりで誰とでも結婚するだけの男だからじゃないの!! 野心を抱くこともなければ、逆らうこともない!!」
 ユバ王子は黙っていた。いっそ叱りつければ、彼女は満足したかも知れない。アウグストゥスの意図を承知で婚約した王子には、今さら言われて怒ることではなかったのだ。
 さすがに我が師がたしなめようとすると、ユバ王子は制して言った。
「確かに王家の血筋など絶えた方が、愚かな歴史を繰り返さずにすむかも知れぬな。しかしそなたの婿になったところで、エジプトを手に入れたり、ローマに叛旗を揚げようなどと思う男などおらぬ。そなたは私がどういう野心を抱けば満足するのかね」
「……ばか!!」
 再び泣きはじめ、見られまいとして慌てて顔を覆う。侍女が駆け寄ってゆき、おろおろとなだめた。
「なによ研究おたく!! 植物の研究をしてて毒にあたって死んだアッタロス・フィロメトルみたいに死んじゃえばいいのよ!!」
 十も年下の娘を泣かせた王子は、再びうんざりしたように黙った。
 我が師が王子に退室しようと提案した。階下に降りると、男たちは同時にため息をついた。
「それでも、祝福させていただきますよ。この結婚は考えられるかぎりで、最上の選択です」
「だから納得できるし、腹も立たないのです。ローマにとって無害で御しやすい。我ながらなるほどと思います。それと彼女に対する評価は別ですが」
 ユバ王子は自分に言い聞かせるように、淡々と言った。
「私はアウグストゥスのエジプト遠征に従った時に初めて彼女を見ました。それからローマでの凱旋式も。熱狂的な市民の前に引き出される恐怖と、頼る者のない心細さは、わかるつもりです。私の時は幼かったから、死は考えなかったかも知れませんが……」
 二年前(紀元前29年)、アウグストゥスは凱旋式を行った。東方を支配したアントニウスと西方を支配したアウグストゥスの対立は、アクティウムの戦いという局面に至り、アントニウスと女王の自殺という結末を迎えた。凱旋式は、エジプトに対する戦勝記念であるが、同時に内乱を平定し、ローマに平和をもたらしたことを誇示するものでもあった。
 クレオパトラ・セレネ王女は双子の兄と四つ下の弟、そして自殺した母親の像と共に、列に加わった。それまでエジプトの王女として育ってきた十一歳の少女は、突如として孤児となり、捕虜となった。しかし多くの市民の眼にさらされながら、きぜんとして姿勢を保っていた。
「立場は同じです。私もあの娘も、親に捨てられたのですから」
 己の野心のみを求め、いざ敗北が免れ得なくなると、己が名誉のための死を選ぶ。子供らを案ずることもなく。そうした王たちの遺児が、ローマに集まっていたのだ。
「不憫だとは思います。ああした性格に育つのもやむを得ない。しかし彼女は感謝することを学ばなければなりません」
 ユバ王子は自分の居場所、生き方を選ぶのに慎重にならざるを得なかった。最初の後ろ楯、カエサルは亡くなった。アウグストゥスは保護を継続したが、命が惜しくば野心ととられる態度を慎み、ローマにとって無害であることを証明してゆく必要があった。
 我が師は無言でうなずいた。
「王子はローマに来られて、何年になります?」
「十九年になります。ザマにいた頃のことはもう覚えておりません」
 ヌミディア王の王宮はローマに破壊された。以来、この息子は故郷を懐かしむこともなかった。家庭教師が教える未知の世界に夢中でそれどころではなかったのだ。
「不思議でしょうな。私は嘗てクレオパトラ・フィロパトルに仕えている。セレネに対しても、あわせる顔もないはずであるのにと」
 王子は首を振った。我が師が王国の終焉後も、大図書館の司書として任用されているのはその有能さゆえであるし、王女も嘗ての師を恨むでなく慕っているのだから。
「ユバ王子には到底及ばぬとしても……」
 と我が師は言葉を選びながら言った。
「あれでセレネは、女王のもっとも優れた素質を受け継いでいると思いますが」
 我が師も自分の教え子を褒めるのに、いささか抵抗はあったが、王女を認めて欲しかったのだ。
「同年代の娘や、もしかしたら男にも劣らぬほど利発かも知れません。感情的で多少……勘違いも見られますがね」
 我が師が言わんとすることを王子は察し、素直に認めた。
「ええ。賢い娘だとは思います」
 それだけ賢い女性であるのだから王子にふさわしいのだ、と我が師は言いたかったのだが、王子は女性に語学力や教養を求めていなかった。いくら博学でも夫婦で謎かけめいた恋愛詩を詠みあったり、こ難しい言葉を用いた厭味合戦などしたいとは思わぬだろう。美貌や血筋を誇るような女も厭わしい。気立てが良くて自分の趣味に理解がある程度の女性で充分だったのだ。
「あなたに追いつこうと、無理をしているのでしょうね……」
 言外に我が師に褒められるのがむずがゆくなったユバ王子は、話題を変えた。
「私の屋敷にいらっしゃいませんか」
 そしてこちらさえ良ければ、いくらでも宿を提供しても良いとまで申し出てくれた。
「行き届かない点は多々あるとは思いますが、使用人もおりますから」
 それまで私たちはアウグストゥスの知人の家に滞在していたが、王子の屋敷の方が居心地が良さそうに思われた。独身の王子には、気を遣ったり遣われたりする家族はない。何よりユバ王子本人に私たちは好意を抱いた。だがその日のところは身を寄せているお宅まで送ってもらうことになった。
 既に夜ふけで、王子の連れの奴隷はアントニウス邸で灯を借りてきた。
「……違う。アッタロス王は、薬草園で作業中、日射病で倒れたんだ……」
 帰途、王子は耐えかねたように、小声で呟いた。我が師も些細なことを敢えて訂正しなかったのだからと、即座に王女に切り返さなかったのが、忍耐力の限界だったのだ。
「しかもばかとはなんだ、ばかとは」
 この世にまだユバ王子をばかよばわりする人間が存在したことに、釈然としていない。子ども染みたお方だなと思っていると、私に気づいて気まずそうな表情をした。
「私はあの娘と話すといつも不愉快になるのだよ。彼女ではなく、自分に対して情けなくなる。なぜもっと寛大になれないのかと」
 ユバ王子は私に言った。言い訳を我が師に聞かせるのに、ちょうどいい相手だったのだ。
 王子は押しつけられた婚約者を、扱いかねていた。王子には十の頃を見知っている幼女に過ぎないが、王女は血筋を誇り、尊大な態度をとる。年長者として寛容になろうと努力もしたようだが、王子の自制心にも限度がある。一応反省することで、満足するということで落ちついてしまっていた。

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引用は薩摩書房の文庫の『ギリシア悲劇の』の中のソポクレスです。
他シリーズとの一番の違いは、セレネの性格がどん底に悪いことだ! そいで、ユバとも超険悪なことだ
おそらくこっちのクレオパトラは、ドン引きされることでしょうなあ。
その次に性格が変わってるのが、ティベリウスだと思います。
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