BC.27 6

 ぼんやりと輝く月にかかっていた雲が、ゆっくりと流れていた。音楽や話し声が聞こえてくる部屋に背を向け、水場へ行くついでに空を眺めていた。
 オクタウィアの娘たちにもそれぞれに侍女がいる。セレネのエジプト時代の世話係は引き離されていたが、代わりのお付きもアレクサンドリアの孤児だという。優秀なギリシア人の学者の娘で、いくつかセレネより年上の侍女は「王女様」とギリシア語で話しかけ、昔を懐かしむ会話をしているのだという。ユバはその娘を廊下で捕まえて、よく世間話をしていた。学者の娘、ギリシア語も当然堪能である。興味深いのだろう。女主人同様、あまり愛想の良い娘ではなかったが、王族の生き残りの先達として充分に成功しているユバに、ローマでの生活を相談していたようだ。
 その娘と入れ違いになる形で水場へ行くと、水の杯を持ったセレネが壁にもたれていた。
「……」
 ティベリウスは自分に、相手に、胸中で言い訳をした。水を飲んで戻るだけだ。関わる気はない。引き返してきたセレネの侍女が驚いたようにティベリウスとの間に入った。
「王女様」
 侍女が声をかけてセレネを連れ出そうか迷っている。このパラティウムの住人はティベリウスであり、セレネは客で勝手に出入りしていることになる。
「いや」
 それには及ばない、すぐに自分が出て行けば良いだけだ。そのままでと合図をして、床に置いてある瓶から水を杯に採った。会話をする仲でもないので黙っていた。水の一杯くらい侍女に所望すればいいところを自分で足を運んでいるということは、ティベリウス同様にいったん兄妹たちのいる場所から離れたかったのだろう。
 注目され、気を遣われ、何を考えているのかと推し量られる。周囲は完全に好意や善意のつもりだとしても、何をしていても隙を見せられない生活は参ってしまうのだろう。深く息を吸い、疲れたかのように目元に指を添えている。
「……お酒を飲む人は嫌い」
 セレネがティベリウスに喧嘩を売るかのように呟いた。普段ティベリウスも夕食時に水で割ったぶどう酒は多少口にしていた。たいした量でもなかったし、ティベリウスも酔うような体質でもない。水を欲したのも単純に喉が渇いたためと、部屋の外の空気を吸いたかったからだ。
「皆まともじゃなくなるのに、何故あんなに飲むのかしら。飲めることのどこが偉いのかしら」
 セレネの父親は大酒飲みで有名だった(読む気もないが、酒についての著作があるそうだ。何も他に著すべき事物もあろうに)し、アレクサンドリアでは母親も一緒になって、市井で馬鹿騒ぎを繰り広げたという噂もある。死ぬ直前までも、マルクス・アントニウスと女王クレオパトラは王宮の中で日々酒に浸って、現実逃避をしていたという。そんな両親を見て、そんな両親に捨てられた少女には、ギリシア発祥の文化とは言えローマ人の酒宴も嫌悪の対象なのだろう。
 だがセレネの生い立ちがどうであれ、こちらには関係がない。
 そうか、としか思わないし、どうした返事を期待されているのかもわからない。それでも会話をふってくるということは、無視ではない、敵意ではないという意思表示なのかもしれない。だが他人の無理やりな「気遣い」につきあわされるのは嬉しくもないが。
「弱い者が酒を必要とするのだろう」
 自分の限度を超えた酒で身を滅ぼすのは、愚か者のすることだ。飲めぬ相手に強要することも同様で、そんなものに依存したり、言い訳にしたりする者は弱い。
 だが酔える者はいい。酒を理由に出来る者はいい。ティベリウスは飲んでも酔ったことはない。酒を言い訳に出来るほど飲んでも、けして理性は手放せない。だが常に高ぶっている感覚は確実に麻痺して、睡魔が訪れる。身体を休める為に、酒を口にすることがあるくらいだ。
 今度はセレネが黙った。
 ティベリウスは人や、女の外見をどうこう評価しようと思ったことはない。が、その辺の道端にいてもおかしくもない少女だ。どこかから流れ着いた子供たちの中にいても違和感がない。これが元王女だという。世が世ならばエジプトの民を跪かせ、ローマに対抗し得た勢力を担ったかもしれない。そんな少女がローマの一家庭の水場に立って、ティベリウスと水を飲んでいる。
「案外普通の子だよね」
 ドルススが言うが、ローマ人がエジプトの王女に期待して見る節はある。血筋の半分はローマ人でなおかつあの野蛮人なのだから、拍子抜けしても仕方なかろう。
 セレネは無愛想な印象はあるものの、それでも家族の前では笑うこともある。けして下品にはならない。だがセレネが心から笑ってはいないと誰もが直感で知っていた。
 しかしそれをするかしないか、が「お前とセレネの差だ」とユルスあたりは言うのだ。気が乗らなくても、相手に合わせて笑うのが礼儀だと。目を細めて、口元をあげて、笑っているように見せるのが処世術なのだと。そうして生きてきたのはユルス自身なのだろう。

 セレネがふっと笑った。
 人を小ばかにしたような顔だ。兄妹たちの間にいる時には見たこともないような表情をしていた。違和感にぞっとするような、大人びた顔をしている。
「……つまらない返事だこと」
 だったらどう返せば満足するのだ。
「……それでも『お前たちは子供だからわからないのだ』と言われるよりは、ましな答」
 また無表情な顔に戻って、顔を背けた。セレネが嘗て誰にその質問をし、誰にそう言われたのかは推測するまでもなかった。
 ティベリウス自身、何度言われたことだろう。ティベリウスの中の正論を述べれば、周囲には面倒そうに眉をしかめられる。ユリアも以前、ぼやいていたことがある。
「結婚している人は、他の人と恋愛してはいけないんでしょう?」
 ティベリウスも興味深かったので眺めていたが、自分の両親の再婚に混乱している幼い娘に父親ははっきりと返事をしなかった。
 「子供だから」と。大人はこのまま成長していけばティベリウスとて彼ら「大人」の同類になると決まっているかのように言うが、まるで現在も、未来までも否定された気分になる。
「そうね。馬鹿なのだわ、あの人たちは」
 エジプトからの客人のいる方に顔を向け、セレネは呟いた。
「それでも、私の親なの。愚かで、憎いけれど。私の……」
 セレネが侍女に杯を手渡して出て行った。振り返りもしなかったが、夜風に吹かれた髪が、なびいてセレネの白い頬をなであげていた。
 親なのだ。彼らはあんなにも愚かで、憎いとさえ思う。
 それでも断ち切ることは出来ないのだ。絶望的なことに。彼らが死んだとしても、セレネのその日常は続いているのだ。
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ティベリウス15歳の設定なので、たまにお酒は口にする、という程度で。
すごい酒豪が確定して、例の名前をもじったあだ名がつく前です。
飲んで酔って人に迷惑かけるのって馬鹿だよね。と自虐と自戒をこめて思います……。
私はタバコを吸わないのですが、酒やタバコに依存する大人って、偉いのか馬鹿なのかよくわからないですね。
なんか過去の悪行を思い出して、すごく自虐的な気分だ……。
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