女神の気持ち     2

 ユルスは男一人の立場の弱さを言うのに、ふざけて「うちは三女神がお住まいですから」とか、「俺には女神様たちには逆らえないです」と言うことがある。三美神、ローマ式で言うならユピテルの妻ユノ、美と愛の女神ウェヌス、知恵と闘いの女神ミネルヴァだ。なるほど気の弱い男なら、気後れしてしまうような美人ぞろいだ。
「で、ユルスなら誰に金のりんごを渡すんですか?」
「決まってるじゃん」
 ウェヌスを選んだパリスのことをさして、自分の奥さんという意味なのか、報酬としてもらえる「世界一の美女」が目当てなのか、つっこむのはやめよう……。
 彼女たちは母方をたどるとユリウス家の血筋で、更にさかのぼると、女神ウェヌスにたどり着く。ユリアも含めてその一族の娘で、かなり大げさに話を盛っていると思うが、時々その伝承を信じてしまいそうになる。
 ごくうちわで、伯母オクタウィアがキタラを爪弾き、マルケラやアントニアが歌や踊りに興じる機会に居合わせると、ただの人間の男の身が紛れ込んでいてもいいのか、と申し訳ない気持ちになってしまうほどだ。
 そして一番扱いの難しそうな、アントニウス家のつれなきミネルヴァ――晴れて婚約者になった小アントニアだが――何だか、似合わない気もするけれど。彼女は別に、自分への接し方が変わったということはなかった。まあ突然変わられるのも、怖いけれど。

 アントニアの部屋の、陶器のランプに火が灯されている。そろそろ晩餐に呼ばれる頃だろう。野菜を煮込んだ料理の匂いが、屋敷中にたちこめている。
「……とか言うんだよ。二人して僕をバカにして」
 あーもう、あんな人たちには何を言ったって無駄だ。もう知らない。
「でもユルスは、僕らの結婚の時にはもちろんマルケラは出るし、ユリアに会っても大丈夫だからって言ってたよ。マルケラとも、ユリアにたまにはうちに来てもらおうって言ってるって……」
 うやむやにしてしまうのかな、と思っていたけれど。マルケラもユルスも現実と向き合おうと、きちんと話し合って決めたのだ。ユルスがマルケラとの外出を非常に喜んでいたことも、彼女に今までのことを後悔させたのだろう。
 黙って聞いていたアントニアは、考え込むような表情をしていた。
「……ユルス兄様のことなんだけど」
「何?」
「セレネが結婚した時に、ユバ様の方から『何かあった時には、自分を頼って欲しい、力になる』って仰ってらしたの」
「それってパトロネスとクリエンテスの契約?」
 ちょっと意外な気がした。ローマ式の主従関係のことだ。かつてユバ王の父や祖父にあたるヌミディア王家が親交があったのはポンペイウス家で、本来なら何代にもわたって継承できる関係だが、現在のマウレタニア王ユバが直接ローマ人とパトロネスとクリエンテスの関係を結ぶとしたら、アウグストゥスとユリウス家であると思っていた。少なくともローマに滞在する時は、独身時代、ローマで過ごしていた頃のように朝の伺候には来るし、アウグストゥスをたてていると思う。
「それって、アントニウス家と、ってこと?」
 ローマの属国であるマウレタニアは、事実上アウグストゥスに服従している。要請があれば軍隊でも兵糧でも協力するだろう。元老院とアウグストゥスが対立したとしても、ユバ王がつくのはユリウス家のはずだった。
「どういうこと?」
「兄様がもし、アウグストゥスと反目することがあれば、マウレタニア王家は兄様につくってこと」
「……なんでユバは、そういうことをしたわけ? そんなの、かえってユルスに手段を与えるだけじゃないか」
 手段って。何のだ?
「そうすれば、ユルス兄様が無茶をしないだろうって思ったんでしょうね。兄様がローマを敵に回すことがあったら、マウレタニアは無条件にユルス兄様の、アントニウス家側について兵を挙げることになる。それはユバ様と、もちろんセレネを道連れにして不幸にすることになるから」
 ユバ王と敵対することには、ユルスはためらわないかも知れない。けれど彼と異母妹を味方にして、巻き込む形になることに対しては躊躇するだろう。
 ユバ王はそんなに昔から、ユルスのことを案じていたのだ。別にアントニウス家が王妃の実家であること考えれば、関係を厚くしようとすることは自然なことなのかも知れないが……。


 アントニアは泣きそうな顔をし、自分の身体を抱きしめるようにして壁に背を押し付けた。
「怖いの。私がこの家を出たら、兄様は義務を果たし終えたことになるの。私たち異母妹を片付けて、やっと解放されるの。私たちに対する責任から」
「アントニア」
 ……だからだ。
 彼女が自分との結婚話に、何故か触れたがらなかったのは。ようやく決心してくれたけれど、どこか不安げにしていたのは。
 自分と結婚すれば、アントニアは自分が守ることになる。ユルスはずっとそれを望んできた。アウグストゥスの義理の息子の嫁にさえなってしまえば、連座は免れるだろうと。
 アントニアはその日が訪れることを恐れてきたのだ。
 ……でも。
「僕は、ユルスは大丈夫だと思う」
 落ち着いて、考えてみる。
 ユルスがそのくらいの計算をするのは、当たり前だと思う。彼に何かあったらアントニアには確実な後ろ盾がなくなるのだから、できるだけ有力者に近いところにやりたい、早くに嫁に出して、子供が出来れば安泰だろうという答えを出すのは自然なことだ。
 アントニアがうまくやっていける保証もない適当な男ではなく、幼馴染でもあり彼が将来を見込んでいる、自分に任せようとしている。実父よりも、よほど冷静で見る目はある。マルクス・アントニウスは無謀にも、結婚が可能な年齢ではない、妻フルウィアの連れ子をアウグストゥスと結婚させたが、事実がなかったから無効に出来たことがあるのだ。
「でも」
「……ユルスの焦りは、当然だと思う」
 自分たちはローマ人だからだ。
 義父は事実上のローマの「王」だ。
 ローマ人は、それを認めるわけにはいかない。独裁者を倒して共和政を敷いた人々の子孫であり、後継者であるローマ人が、それを受け入れるわけにはいかない。
 ユルスは叛くのではなく受け入れるために、彼の政治を客観的に評価しようとしている。自分たちは百年の内乱が繰り返されるほどならば、偽りの平和の方がいいと思い知らされて育った、当時は無力だった世代なのだ。
 神君カエサルを殺めた者たちだって、彼を憎んだのではない。王政を憎んだのだ。もしもこの先、義父が法的な権限を無視し、手続きを飛ばしたり、立場を超えた発言をしたら。
 ――彼に手を下すのはもしかしたら、彼の大叔父の時のように、彼を取り巻いていた人物たちなのかも知れない。「もしも」のその場に、自分がその中にいないと断言できるかと言われたら。
 後ろめたさも感じつつ、「できない」と答える。
 自分が義父に背くことはない。絶対にないだろうとわかっていても。彼が自分の義父だから、愛しているから、逆らわないのではない。
 彼の手腕を評価しているから、彼が慎重に政治を行っているから、彼の治世を認めるのだ――。
 ローマ人の誇りが、そんな子供じみた理屈を必要とする。そう思わないことには、自分を騙せない。ユルスの苦悩は自分の思いでもある。
 アントニアにとって、義父は血の繋がった叔父にあたる。自分は彼の息子だが、血縁はない。彼女は叔父と異母兄の板ばさみの立場にいるのだ。
「大丈夫だよ」
 言い聞かせるようにして言うと、アントニアは寂しげに、かろうじて笑った。
 彼女の顔をそんな風に曇らせる、ユルスに対して怒りを感じる。こうして婚約者として会えるようになったのに、こんな会話に終始してしまうのは、考えたらいつもユルスのせいだ。
 ふと、会話が途切れて黙りこむ。アントニアがため息をつく。

「アントニア」
 なあに、と甘い声で返事をされる。
 壁際にいたアントニアの前に立ち、両肩に手を置いた。アントニアは一瞬身をすくませたが、手を払いのけたりはしなかった。婚約したのだから、これくらいは許されるはずだ。
 というか、そろそろ二人でいるのだから、多少の身の危険を覚悟してもらうくらいじゃないと、本当に異性として見られているのか自信がなくなってくる。せめて遠征先でもらう書簡にもう少し、情を感じられるくらいにはなりたい。
 顔を覗きこむと、アントニアは大きな瞳を閉じた。……本当に可愛い。今日は薄化粧もしていて、内心では触れるのも怖いくらいに美しい。
 アントニアの瞳が再び開いて目が合う。その赤い唇が呟いた。
「……ひとつ聞いていい?」
「何?」
「ドルススって、私のこと好き?」
「何言ってるの? 当たり前だろそんなこと」
 大事にする、絶対浮気なんかしない。ずっとそう言ってるのに。
「……考えてみたら私、ドルススに言われてない」
「……え?」
「言わなきゃ、許さないから」
 肩に手を置いたまま、思わず半歩退いてしまった。
 さっきまでは倒れるかと思うくらいに心拍数があがり、体温も上昇していたのに、急激に心臓が重くなり、手足に感覚がなくなった。
「……い、言えるよそれくらい……」
 じっとアントニアに見つめられる。でも小さい頃は、言ってなかったっけ? 大好き、アントニア。僕のお嫁さんになって……。
「……」
 い、言えない……。恥ずかしいというよりも、こんな脅迫じみた状況で、いきなりそんなこと言わされるなんて。やだよそんなの!  だいたいプロポーズらしき言葉はあったはずじゃないか。ああいう婉曲的な奥ゆかしさを、理解してくれてもいいのに。――でも、そういうことじゃないのか。女の子には。言わないと。簡単なことじゃないか、そんなの。毎日だって言える。たぶん。結婚したら。別に言えないわけではないんだし。こんなんじゃなくて。たとえば今、黙ってキスをさせてくれた後になら、自然と口にしたかも知れないのに。……って、それが嫌なのかアントニアは。

「……ううう」
 深呼吸をする。ここで失敗してしまったら、アントニアに失望される。そうだ、こんな時にはユルスの真似でもしよう。アントニアを既に自分の奥さんだと思って、毎日こんな風に言うのだ。愛してる、アントニア――。

 言えるかあ!
「ローマの男子たるもの、そんなダルいセリフは、口が裂けたって言うものか! 愛を語らせたければ、詩人に恋をすればいいんだ! 僕は軍人なんだぞ!」
 と、言えればどんなに楽か……。好意を口にできないわけではない。むしろ思いっきり叫びたくなる時だってあるのだ。でも。
 頭の中で一気にそれらの思いが駆け巡っている。アントニアには、自分が躊躇しているように見えるだろう。躊躇している以外の何ものでもないけど。
 アントニアが、肩に置いている自分の手にそっと指を重ねた。目がすわっている。自分の返事次第では、つねる気だ。
「言、え、な、い、の?」
「好きです」

 ……くうううう。
 身体も精神も、敗北感にうちしひがれる。屈辱的だ。
 なんで。なんでこんなことを。わかってるくせに。どうして言葉にして言わせないと気がすまないんだ。そういうことを男に言わせたかったのなら、もっと隙を見せろよ。


「まあ」
 その声は。
 振り返りたくなかった。
「なんて素敵なんでしょう」
 アントニアの母、オクタウィアが、にこにこと自分たちを見守っていた。
「良かったわねえ、アントニア」
 い、言わされたんです。僕は本来、そんなに口が軽くもないし、女性を口説くことなんて苦手で……。
「あの、あの……」
 そんな生温かい眼差しで見守るのはやめて欲しい。僕は伯母上が思ってるような純朴な男じゃない。たった今、あなたの娘にちょっと悪さをしようかと思ってたんだし……。ああ、伯母のキラキラした視線が痛い……。
「お夕飯?」
 おい。
 最愛の男が決死の思いで言った言葉よりも、夕飯なのかよ。
「ええ。今日はドルススの大好きなものをたくさん用意したのよ」
 母娘ののどかな会話の話題はどんどんそれてゆく。
「ブドウ酒は何がいいかしら。ドルススはセティア産はお好きかしら? それとも――」
 まあいいか。伯母上の印象は悪くないみたいだし。これが見られたのが伯母上でなくて、ユルスだったりしたら……。

 アントニアの部屋を出ようとして、硬直した。
「ドルススは強いから、燻したブドウ酒もいいかしらねえ、ユルス」
 ああ。
 ユルスが腕を組んで、不機嫌な顔で自分を眺めていた。呑気な伯母とは違い、寄ってきて小声で牽制される。
「まだ婚約段階だからな」
 ちょっと待て。それはないだろ! この間まであんなにけしかけといて!
「釣った魚に餌をやるこたないぞ、アントニア」
 そういう意味では使わないよ、普通。
 アントニアがむくれて、先に食堂へ歩き出してしまった。何でだよ。ユルスが大マルケラにベタベタしてるのを、嫌がってたじゃないか。わかんないよ。
「しかし女心のわからん男の子と、男心のわからん女の子だな」
 ユルスのつぶやきが、ぐさりと胸に突き刺さる。
「ホンっトに、ドルススはいい子ですよねええ、義母さん」
 ユルスが聞こえよがしに言った。伯母はにっこりと微笑んで、「今どき珍しいくらい、しっかりしていて誠実な男性だこと」
 伯母にとって、自分はまだ子供のままなのかも知れない。自分を無垢な少年で、結婚まで一切、彼女の娘に手出ししないと信頼しきっている目だ……。
 そんなわけ……。
 ……。
 ……ちくしょう。
 食堂までの足取りは重く、今日はこの屋敷中のブドウ酒を、全部飲んでしまえる気がした。

2005.8.27〜9.1 UP
 2012.1.1改訂 UP
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ユバのくだりは、「闇から生まれた光」のところとリンクしています。
ドルススがぐだぐだ言って、展開がだらけましたね。
実は作者にもアントニアの乙女心はよくわかりません。
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