真昼の月     3

 女王クレオパトラが自殺した。
 オクタウィアヌスが現場に向かった時には、女王は既に息絶えていた。
 誇り高いエジプト最後の女王は、ローマに連行され、凱旋将軍の前に捕虜としてローマ市民の前にさらされる恥辱を、死をもって拒んだのだ。地位を尊重して女王の近くにまで警備を置かなかったことが仇になった。
 オクタウィアヌスが次にやったことは、子供たちの身柄を確保することだった。
「私の前に子供たちを連れて来い」
 ローマの三頭官の一人、マルクス・アントニウスとエジプト女王クレオパトラの間には、三人の子供がいた。10歳になるアレクサンドロス・ヘリオスと、その双子の妹クレオパトラ・セレネ、その四つ下の6歳になるプトレマイオスである。
 アレクサンドリアの王宮にいた子供たちのもとへ、兵士が遣わされる。ついていた乳母や奴隷たちを引き離し、子供たちを監視下に置こうとした時に、それを諌める者がいた。子供の処遇については、ローマにいる姉、オクタウィアから言い含められていたこともあって、オクタウィアヌスは充分すぎるほど気を配っている。
「女王の命令で、この子供たちの命を絶つように命じられた者がいたり、保身のために子を殺してローマに取り入る者が出てくるかも知れぬ。エジプトの者とは引き離し、兵士に見張らせる」
 この子供たちには異父兄にあたる、神君カエサルと女王の息子と言われるカエサリオンなら生かしておくことはできなかったが。
 だが一人、強固に反対する者がいた。
「まだ10やそこらの子供たちです。馴染みの者たちから離されるのは不憫ではありませんか」
「ユバ」
 口調は穏やかなのだが、ヌミディア王の遺子ユバには、子供らの様子が自分の時と重なる思いがあるのか、むきになった頑固さがあった。
「この子らを生かすために、こちらで保護すると言っているのだよ」
 意外にもユバはひかない。オクタウィアヌスには、ユバの不満が理解できない。というより、何故全く理解しようとしないのかがわからない。これまでならせめて「わかります。ですが」となるはずなのだが。
「ローマについたら、子供らは姉上に渡すのだ。遅かれ早かれ、乳母たちとは離すことになる」
 ローマを発ってからも、アレクサンドリアに着いてからも、姉からの手紙は夫と子供たちのこと。夫の前妻の子はともかく、愛人の子供までも案じている。しかもローマから別の者から使者が来てもオクタウィアからの言づけを携えており、こういう時のために、とオクタウィアから手紙を託されてきた者まで数名いる。
「生かすと言っているではないか。そこまで信用されていないのかね」
 ユバの背後では双子の兄妹と、その下の弟が蒼白になっている。王宮に仕える女たちから引き離すのも一時的なもので、すぐにローマ側で世話係を用意するつもりである。何故そんなにユバが刃向かってくる――いや、聞き入れる気配もないのかが、オクタウィアヌスには理解できない。
「彼らは、母を失ったばかりなのですよ」
「父親もな。だから私が保護下に置くのだ」
 ユバは20歳になる。今後、国王として国を治めるのに、軍隊のあり方を理解する必要もある。実務を味あわせようと連れてきている。これまでも戦争に帯同させたことはあるが、特別何かに介入してきたことはない。だが今回の態度は頑なだった。彼もまた姉の手先の一人であったわけだ。ユバは姉の崇拝者なので、それ自体は不思議ではないが。
「どうか配慮を」
 そしてユバは、オクタウィアヌスの胸をえぐるような一言を口にする。
「我が君(ドミネ)」
 それは多様な使用がある言葉で、奴隷から主人へでも、子供から親へでも、生徒から教師にでも使い得る言葉ではあったのだが。
 ユバがオクタウィアヌスに用いた時、本人には「自分も同じ身であり、ローマの慈悲の結果が今の自分である」という形の直訴であったのかも知れない。だが「あなたは王(レクス)のつもりですか」という皮肉まじりの揶揄にもなった。

 ――俺は、オクタウィアヌス――当時のアウグストゥスに少し同情する。
 多くの幕僚や兵士のいる前で、ローマが制圧した蛮族の王子が、アウグストゥスを非難したことではない。
 アウグストゥスは親しく接していたし家族とも思っていたのに、ユバにとってはそうではなかったことに、アウグストゥスは傷ついたと思う。彼にとってユバは友人であり、弟であり、被後見者だった。ローマ式の保護人と庇護人のような血の通った関係であって、国王と臣下というような主従関係にある接し方をしてきたつもりはなかった。
 友とも弟とも思っていた者にひざまずかれることを、アウグストゥスは嬉しいと思うだろうか。そこまでして訴えるまでもなく、アウグストゥスはユバを信用していたはずだ。
 だけど決定的なのは、実際アウグストゥスは、ユバが裏切った時には「戦争捕虜の分際で」と思うに違いないということだ。そしてユバは疑いもなく、アウグストゥスを「我が君」だと思っている。皮肉なことに。


 俺の肩にもたれているのは、猫ではない。クレオパトラ・セレネだ。
 兄と弟を病で相次いで亡くした後も、しばらくセレネはこんな風に俺にひっついて離れなかった。異母兄妹でアウグストゥスと血縁がなかったのは俺だけだったし、俺自身も何をする気力もなく、ただぼうっとしていたからだ。
 ローマに来た頃、セレネたちは三人でじっと固まっていた。俺もアントニアたちも、仲良くしたいのだが警戒されている。特にセレネはじっと人を観察してばかりいた。誰が信用できるのか。表情や反応をうかがっているのがわかった。
 医者たちが兄と弟の容態を見て、良くなれば安堵をし、悪くなれば難しい顔をしているのを、セレネはじっと見ている。毒を飲ませるのではないか、わざと悪化するようにしむけているのではないか、疑っていたのだと思う。
 アウグストゥスが来て看病する姉を労わり、床についているアレクサンドロスやプトレマイオスに声をかける姿を見つめている。セレネに近寄ろうとすると、セレネは俺の陰に隠れた。
 あの人は信じない。
 アウグストゥスに申し訳ないと思うのは、セレネのそういう基準は、俺を観察した上で決まっているからだ。俺が信用している相手には近寄っていけるけど、俺が警戒している相手には心を開こうとしない。俺は結構、アウグストゥスとは気さくに話せると思ってるんだけど、根本的な部分の緊張感をセレネは察しているのだ。
 兄弟の死後、セレネはさらに周囲を拒絶しようとした。オクタウィア様もアントニアたちも、困りきっている。ただ俺が一人の時にだけ、近寄ってきて手を握ってきたりということはあった。セレネはエジプトの兄弟たちとそうやって頑張ってきたのだ。
 二人の葬儀の後にセレネに声をかけたユバに、セレネが抱きついたことがある。ギリシア語で何か話していたようだったけど、膝をついて視線を落としたユバは、しきりにうなずいて、話をきいてやっていた。
 わかんないけど、セレネはユバを信用できる人間、という認識はしていたと思うのだ。それと、男女としての好意とは次元が違うってことはわかってるし、そんなんで相性がいいだの言うつもりもないんだけど。
 セレネがこうやって俺の肩に、あのネコの如く頭を押し付けてくるのは、寂しいからだと思う。
 ユバがあれ以来、一度も会いに来ないのだ。俺とは外で会うことはあっても、その件に関してはふれようともしない。
 ユバがセレネを嫌っていたということはないけど、そういう対象でもなかったんだろうな、というのはわかる。だけどそれはないだろう、と兄としてムカつく。だいだいお前、エジプトの王女を嫁にできるっていうのに、何なんだよその態度。
 そこまで思うとユバが可哀そうになる。ことあるごとにそう思われるのがわかってて、ユバは素直に受け入れることに抵抗があるのだろう。
 けどさあ。
 お前なら喜んでくれると思ってたんだよ、俺。
 鈍くてとろくて、全然女心なんてわかってなさそうだけど、セレネがいいって言うんなら、やってもいいよなって思ってたんだよ。お前だったら大事にしてくれそうだし。
 なのにこれかよ。
 ああ、もうアルメニアとかバルティアとか、マルコマンニ族にでも嫁にやっちまうぞ。適齢の奴がいたかは知らんけど。

 我が家にユバが来ない間に、ネコが子供を産んだ。
 美しい毛並みのクロネコから、へんてこな斑の子猫が四匹も生まれた。
 どこのネコかは知らんけど、どういう父ネコなんだろう。不細工なんだろな。
 アントニアたちが、可愛い可愛いと日常そっちのけで夢中になり、見に来たユリアやドルススもすっかり虜になっている。
「子猫はどっかにやるんだろ?」
「可哀そうじゃない、親と引き離しちゃ」
 ユリアが非難がましく俺を見る。
「ネコと人間は違うっつーの」
 さっきから母ネコが一匹口にくわえて連れて来ては、物陰の代わりに俺のところに置いてゆく。また次を救出に行くのだが戻ってくるともう連れ去られている。
 しかもこのメスネコの子供たちは、揃いも揃って、鳴きながら俺を頭突きに来る。お前らは母ネコと違って、俺のオヤジを知らんだろうが。みぃ、みぃ、と言いながら、俺に頭を押し付けてくる。そりゃ生まれたての顔の小さなネコは可愛い。けどそのうち、自分が飼い主にとって可愛いとわかってて「にゃあ」と鳴くようになるのだ。おい、どさくさで目ヤニや鼻をふいてるのもいるだろ。ったくよー。
 やがて子猫に夢中になっている異母妹たちを威嚇するのにも疲れた母ネコが、寂しそうに俺に寄ってくる。飼い主のセレネは俺の横で腑抜けになっていて、全然味方になってくれない。

 そういう日々がひと月近く続いたので、気分転換をさせるために外に出ることにした。オクタウィア様に許可を頂き、一緒に来たがるアントニアたちには次の機会に必ず連れて行くから、と約束させられた。
 ティベリス河を渡った、神君カエサルがローマ市民に遺言で残した庭園では、運動をしたり、散策する人々が行き交っている。ローマに来て以来、セレネが外出する機会はほとんどなかった。これから市内に連れ出すのもいいかなと思う。いずれよその国に嫁に行ってしまうのだから。――ちょっと今は、それがどこの国なのかはわかんないけど。
 エジプト生まれのセレネにはローマの冬は辛いものらしい。「ないものは雪ばかり」と言われるアレクサンドリア育ちだからと、ローマでも珍しい雪が降った時に見せたが、ひたすら不機嫌で嬉しそうではなかった。北部の山岳地帯で積もった雪を見たことがあるユバの方が、やけに興奮してうるさかったくらいだ。
 セレネは芸人やそれを見物する人々から背をそむけ、ぼんやりと糸杉の木立が揺れるのを眺めている。
 こういう時くらいほっといてくれればいいのに、わざわざ知人が挨拶をしに寄ってきては、セレネの顔を覗き込もうとする。顔を隠すためにヴェールをかぶらせたものの、俺が連れているためにバレバレなのだ。本人はそつなく挨拶を受けて返すものの、なんとなく上の空だ。
 背後で「あれが女王の……」と声がする。女たちの声だ。「あら、私は綺麗だと思うわ」若い娘だか姪だかが言うのを、年のいった方の女が不愉快そうに「そうかしら」と否定する。おいおい。女王はもちろん、セレネがお前の亭主を寝取ったわけでもねーだろ。何がそんなに面白くないんだ。セレネが気にとめたそぶりはない。こいつも女なんだなと思うのは、男の視線は力技でねじ伏せるくせに、相手にもならない女の僻みはばっさりと切り捨てるのだ。(たぶん眼の前で男が他の女をチヤホヤしたり、それなりに若くて美人の令嬢がメンチきってきたらムカツクんだろうけど)
「何さブス」
 ……ユリア。お前な。
「って、言い返せれば楽しいのにね」
 ユリアが侍女や家内奴隷を連れて、散歩に来ていた。親戚を訪問した帰りなのだそうだ。今の発言、絶対ローマ市民の前ですんなよ。俺はそういう女、嫌いじゃないけど。
「珍しいわね」
「ちょっとな。たまにはいいだろ」
「恋人同士みたいね。お兄ちゃん離れしないと、お嫁に行けないわよ」
 うわー、ちょっとそれ、今はキツいわ。
 セレネは無言で微笑んだ。セレネにしたら、ユバは結婚させられることが、無条件に嬉しい、という相手でもなかったと思う。ユバの責任ではないから言っちゃ悪いが、ローマ人でもギリシア人でもない、黒人奴隷の印象が強い民族の出であり、そういう容姿をしているのだから、違和感があっても仕方ない。
 でもセレネは、ユバ個人を信用していた。結構好意的だったと思う。母の如き「魔女」呼ばわりされるようなことはしなかったけど、控えめに、そういう接し方をしていたと思う――。結婚とか、そういう話になるとまでは思ってなかったにしても、ユバは擬似的な家族として俺たちとつきあってたし、セレネもアントニアたちと同様に扱われてることが嬉しかったと思うのだ。

「そう言えばね」
 ユリアが不思議そうに言った。
「最近、ユバがこっちに来ないの。何でかしら」
 ……それはアウグストゥスに、婚約式の話をされるのが嫌だからだ。
「だってうちの敷地の、アポロ神殿の図書館には来てるのよ? 挨拶してくなり、食事に来るなりしても良くないかしら」
 セレネがうつむいた。
「あ、ユバだわ。ちょっと捕まえて来なさい」
 ユリアがおつきの者に言いつけた。庭園の中を移動していくユバが、ローマ人の中でやっぱり浮いて見えた。
 笑いながら近寄ってきたユバが、セレネを見て顔をひきつらせた。……やっぱり、セレネが理由だったのか。
「お前、うちに飯食いに来い」
 こうなったらもう静観している時ではない。どっちにつくか、俺の立場は決まってる。
「いいか、今日来いよ。夕方。使いを出すから、絶対来いよ」
「……うん」
 セレネが俺の背後に隠れた。なんでローマで一番美しい娘が(俺の主観だ、悪いか!)、こんなに肩身の狭い思いをしなきゃなんないんだ。
「……あの。クレオパトラ」
 ユバが、手を差し出した。
「少しだけ、一緒に歩いてもらえますか」
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アレクサンドロスとプトレマイオスが生きている説もあるのですが、小説では二人とも亡くなっている設定にしています。
ユバ2世の肖像を見ている分には、ギリシア系の血も入っているらしく、意外に顔立ちは良いと思います。眉間に皺が寄ってるけど。
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