冷めた愛欲     2

  気づくと室内の机に伏せて、うたた寝をしていた。子供たちはどこだろう――。
 部屋の中に他に人物がいる。見なくてもわかる。ユルス・アントニウスだ。
 気持ちがずしりと重くなる。うっとおしい。これまでは出入りも自由にさせていた。突然遠ざけたり騒ぎ立てるのも不自然だろうと、侍女たちにも注意をしておくのを怠っていた。これからは徹底させるべきだろう。
 
 私を奪い取る勇気もない男。
 なのに彼の姿を見られて、涙が出そうなほど嬉しいと感じている私もいる。
 私のことを、気にかけている人がいる。こんなにも無駄な時間を費やす人間がいる。身体が目当てであるとわかっていても構わない。既に目的が私自身ですらなく、復讐の手段であってさえ。
 それほどまでに、私は孤独だった。

 私は「アウグストゥスの娘 ユリア」でしかなく、ユリウス家の継嗣を生んだ女としてくくられ、死んでゆくことになる。このまま誰にも何も言えず、無力に一生を終えることを考えると、気が狂いそうになる。

 私が女に生まれて生きてきたことを、誰が喜んでくれるだろう。
「ユリア様が男であれば」
「リウィア様に男児がお生まれになっていれば」
「せめてアウグストゥスに非嫡出子でもいれば違ったかもしれない」
 偉大なるアウグストゥスにふさわしい、後継者たる男児が得られていれば。 

 私では駄目なのだ。人は、私が女であることが不満なのだ。私がアウグストゥスの一人娘であることが、面白くないのだ。
 私はいてもいなくても良かった。
 私がどんな人間であるかよりも大事なこと。それは男であるかそうでないか。
 やりきれなかったのが、この私を憐れみ、同情し、そして批判する者の多くは女だということだ。私と同じ「女」が、女に生まれたことが不幸であるから私を不憫だと言う。
 けれど女たちの「憐憫」も、私の素行が悪いということで敵意に変じた。私のようなふざけた再婚を強要されたことのない女たちが、汚らわしげに私を断罪する。
 悔しかった。
 私に一方的に押し付けられる女たちの同情も反発も煩わしい。暴力に等しかった。
 死別も再婚も、私の意思ではない。
 悪いのは、夫の子供を生まない妻ではないか。
 そのリウィア様は平然としていた。私が前夫との間に何人か子供を生んでも、心からは喜んでくれてはいない気がしていた。私に責務を肩代わりさせておきながら、他人ごとのような雰囲気があった。
 けれど私とティベリウスとの結婚を一番祝福してくださったのは、リウィア様だったと思う。
 ティベリウスとの婚姻で、やっと母娘になれたのだと思った。労わりやお言葉も、本当に私を娘として気遣って下さったものだった。
 でも、それは私がティベリウスに拒絶されるまでのこと。
 
 私という人間を、誰が特別であったと思ってくれるだろう。人々にとって私は「ユリア」という記号だった。遠目から眺めては目も合わさずに通り過ぎ、遠くで振り返ってから勝手なことを言った。
 私に顔を見てはっきりと目を覗き込む人が、今までの人生にどれだけいただろう。どれだけの人が、私の言葉に本気で耳を傾けてくれただろう。
 侍女でも家族でもない男といる時だけ、私は生きているのだと思える。私は誰かに求められているのだと思える。
 こんな泣けてくるほどつまらない理由で、私はこの男の存在という苛立ちを受け入れていた。

「出て行って」
 このわずかな距離。私が半歩進み出せば、彼は私を引き寄せるだろう。
 それは許されない。この人を私のせいで誤らせるわけにはいかない。この人だけは。
「なあに? 他の女には愛想尽かされて、相手にしてもらえなくなっちゃったの?」
 ユルスは一定の距離を隔ててたたずみ、腕を組んでじっと私を観察している。
 私が手を差し出せば。
 彼はそれを待っている。
 
 あれきりだと決めた。後悔はしていない。あれで終われると思っていた。
 私の弱さ、諦めの悪さ。誰かに必要とされたい、大切にされたいという願望は、子供時代の反動だろうか。
 私は一番言って欲しい時に、言って欲しいことを言ってもらえなかった子供だ。
 寂しい時、心細い時、私は家族に傍にいて欲しかったけれど、私の父は多忙だったし、実母は怒りやすい人で、私をさほど可愛いとは思っていなかったようだ。一番私が男であればと思い続けたのは、実母だったかも知れない。
 父方で生活するようになっても、私にとって義母は理解できない人だった。夫がいる身で私の父と浮気をしていた女性なのだと知った時には、気持ちが悪くなった。世にも汚らしいことではないか。恐ろしい罪ではないのか。そう尋ねても答えてくれる人などいない。だから幼い私は混乱した。
 どうしてこの人が私の母なのだろう。どうして私の母は、ここにいないのだろう。浮気は悪いことなのに、どうしてこの人達は、平気な顔をしてるのだろう。何故父は他にも女を作るのだろう。どうして義母はそれを無視できるのだろう。
 そういう風に考えていた時期もあるのだ、私にも。
 
 つまらない男だったのだろう、ティベリウスの父は。ティベリウスと同じくらい、つまらない男だったのだろう。だとしたら今の私にも義母の気持ちは理解できる。妻を貶め、守ろうともしない下劣な男だ。あんな男に、自分の人生を委ねるほど落ちぶれてたまるものか。
 なのに何故あの人は、私の気持ちを理解してくれないのだろう。自分はあれほどつまらない男と離婚して、自由になれたのに。
 何故私だけが、耐えなければいけないのだろう。

 私にはオクタウィア様のお子様たちは、幸せそうに見えた。仲が良くていつも笑いあっていて、羨ましかった。
 年頃になっても私に近寄ろうとする男性は父に叱責された。着飾ることや贅沢に興味を持つことは、悪徳だと思わされていた。私を綺麗だと言うものはたしなめられたし、自分でそう思うこともいけないことのようだった。若い女なら鏡の前で自分の姿に自惚れることもあるだろうに、私は罪悪感を感じていたものだった。
 つまらない少女時代。寂しい思い出しかない。
 誰かに認めてもらいたかった年頃だったのに、誰もが私を遠巻きにした。
 やさしい言葉が欲しかった。
 大切にされたかった。
 必要とされたかった。
 せめて、対等に扱ってもらいたかった。
 誰かに。
 その「誰か」の顔色ばかり伺うのは嫌だった。
 誰か――。
 あの人達の、顔色を、伺うのは、もう、たくさん……。

「いくら待っても何も出ないわよ。帰って自分の奥さんに甘えたら?」
 仲が思わしくないことを知っていながら、男の妻を思い出させる女。本当に男に未練がないのなら、女はそんなことを口にしない。
 勝ち誇った笑みが男の瞳に浮かんだ。そしてそれを冷静に認められるほどに今、私は彼を意識している。
 ロドスに身を隠し、帰っても来ない夫の顔は、ろくに思い出せないというのに。何年まともに顔を合わせていないことだろう。ローマにいた頃も、時折見かけて夫の髪の色が褪めてしまったことや、白かった肌の粗さに驚いたほど疎遠だった。
 夫とやりなおせたら。
 どこまで時間をさかのぼればいいのだろう。夫の最初の妻の代わりには、私にはなれない。では私の初婚の前まで? それでも結果は変わらないように思えた。
 一体、誰に許してもらえば、私は楽になれるのだろう。夫? 父? 義母? それともローマ市民? 
 私の息子たちは父によって取り上げられ、養子とされた。実父アグリッパではなく祖父を父と呼ぶことになり、私の手元を離れてしまったように感じられた。
 それでも私の身は捕らわれたままだ。いつになれば「もういいよ、楽になりなさい」と言ってもらえるのだろう。
 
「別に愛人は、あなた一人じゃないのよ」
 私が女であり続けるための、男ならいる。
 だけど私個人を必要とする人はいない。
 アウグストゥスの娘。ローマを継ぐ子供たちの母親。
 この男だって、私が「ユリア」でなければ、私などに関心もなかっただろう。
 この世の誰も、私を必要としていない。
 
 お願い。いなくなって。
 私はあなたを間違わせるわけにはいかない。
 そう願いながらも、この男の存在にすがっている自分がいる。
 この人を犠牲にして、私がつかの間の幸せを手に入れたとしても、構わないのではないのかと考えている。

 他人のものを奪うことは、罪だ。
 人の夫を奪うことは。
 
 本当に?
 私は幼い時にあの女に、「母」を奪われた。
 何が正しくて、何が悪いのか。混乱した。今でもわからない。
 10年以上も前、風紀を正す意図で「ユリア法」が成立した時に、陰では失笑した者たちがいた。当時の私の罪に加えて、己の矛盾に気づきもしない、彼らの滑稽さを笑ったのだ。
 あの人たちは何様のつもりなのだろう?
 当時結婚していたあの女と、私の父はこんな風にして会っていたのに、同じことが何故、私には許されないのだろう。

 絶対に。
 ああはなりたくないと、思っていた。
 罪の意識がない者が、己の恥も知らぬままでいられるのだ。
 けれど今の私は、彼らを罰することは出来ない。

 この距離を縮めることは出来ない。
 普通に言葉を交わせるだけでいい。官能的な刺激も約束もいらない。
 そう思っているのに。
 男はそれだけでは満足する気はないのだ。
 
 私はこの男を退けられる言葉を知っている。私が尋ねさえすれば、完全に関係を切ることが出来る。
 けれど。聞きたくはなかった。今の私は彼の言葉に、存在にすがっていた。ありもしない、その言葉があると思えるからこそ、気丈にしていられた。
 でもこんな関係は、終わらせなければいけない。
 
「私を愛していると言える?」
 
 ユルスに答えられるはずはなかった。「オクタウィアヌスの娘」である私の前には、「マルクス・アントニウスの息子」はけして膝をつく気はなかったからだ。
 言えるものなら言って御覧なさい。
 父の前では笑顔で卑屈なふりをしながら、陰では唇を噛みしめ、握りこぶしを固めていた男の子。
 彼を知っているのは、私だけだ。
「お前なんか」
 そう思われていたことも知っている。
 あの男の娘でなければ、誰がお前なんかを抱くものか。
 それでも良かった。
 あんな父親を持ったことで、どれだけ苦しんだことだろう。一つくらいは良いことがあってもいいはずだ。
  
 嘘でもついて酔わせてくれたら。
 こんなに惨めな人生でも、私を愛してくれる人がいたのだと、そう思えたなら、この先の単調でつまらない人生にも耐えていけるのに。

「言えないくせに」
 これまでのように、傍から見れば意味もない言い合いをしていられれば、それでいい。それ以上のことは望む気はない。
 この男はマルケラの夫だ。これ以上あの女に関わるのはまっぴらだ。彼女の離婚も再婚も、私の意思ではなかった。けれど彼女の夫と寝たことは、私の意志であり、動かしがたい罪だ。繰り返すわけにはいかない。
 あの時、救われると思ったのに、残されたのは傷と痛みだけだった。

「どうせ男なんてね、何ヶ月後かにはこう言うのよ。『こんなことはやめよう』」
 愛していると言ってくれる男はいる。私のためなら命をかけられる、と言う男も何人も。
 信じてはいない。けれど信じるふりをしてみせるのがルールだ。
 逆なのかもしれない。男は常に、本気ではありえない大げさな演技をしながら、責任から逃れる準備をしているのかも。そうでなければ、あんな馬鹿げたことは口にしないだろう。

 恋を始める時には、男は英雄譚に出てくる勇者のように、私をさらっていこうとする。
「自分はアウグストゥスの怒りなど、恐れない」
 けれど物語を終わらせる時には、まるで真逆のことを言うのだ。
「『君のためだユリア。僕たちは別れなければいけない。こんなことは許されない』」
 いや、物語の英雄たちは、こんな風にあっさりと女を捨てていたような気もする。運命のような出会いをした女にさえも、男は身勝手なもの。
 突如、酔いから醒めたかのように怖気づく。私のためだと言って距離を置こうとする。実際は、自分の罪を理解しただけだ。
 悲しいとも思わない。そう、と言って二度と会わないだけのこと。

 つまらない男達は皆、あきれるほど同じことを言った。 
「君はアウグストゥスの娘だ」
 ユリア、ユリア、ユリア!
 私はこの名だけを愛され、この名のために見放されるのだ。

「あなただって、最後には私を突き放すのよ」
 この男とだけは。ユルスとだけは、そんな関係になるのはごめんだった。
 屈辱でしかない。そんな惨めな思いはしたくない。
 誰がお前なんかを愛するものか、とののしられる方がましだ。
 最初から愛情なんかなかった、お前があの男の娘だから抱いたのだと言われた方がましだ。
「どうせあなただって逃げるんでしょう? 私を捨てるんでしょう? そんなのまっぴらよ!」
  
 私は父親にさえ愛されなかった娘だ。
 女に生まれついた時に、父は私を捨てたのだ。
 妻に子供は期待できないと判断した時に、必要とされたにすぎない。
 私はずっと誰かに愛されたいと思ってきた。一番でありたい。最愛の存在でありたかった。

 でもユルスは嘘でさえ、与えてはくれなかった。そういう男だ。
 卑怯者。
 だけど卑怯という言葉は、相手が自分を対等以上に見なしている場合にのみ有効なのだ。
 相手が自分を認識していない場合、「卑怯」などと罵られたところで意味がわからないのだ。何のつもりなのかと戸惑うだけだ。卑しき奴隷にそう思われたところで、誰が傷つくだろうか。

 いいだろう。言葉なんて無意味。
 今までの男たちから捧げられたたくさんの言葉も、結局は私には残らなかった。

 私が本当に欲しかったものは、何だろう。
 理解して欲しいといいながら、本当の私なんて私自身が知らない。
 私を表現しようとする者の言葉は、皆見当違いだ。
 私はそこまで哀れでもないし、無邪気でも幸福でもない。同情されれば腹が立つし、妬まれれば不愉快になる。
 私の魂のあるじはこの私なのだと思いながら、誰かに理解して欲しいと思うし、愛されたいとも思う。

 「私」の実像など、どこにもない。
 ユリウス家の娘、ユリア以外の私なんてありえない。
 この人が死ぬまでアントニウスの息子でしかありえないように。

 構わない。
 他人に救いを求めるのはやめよう。
 この男も私を捨てるだろう。
 私の生涯で、私を本当に愛してくれる男などいない。そう思えばいい。
 父も夫も愛人たちも、私をどれくらい愛してくれたかなんて、考えても無意味。
 私が誰を本当に愛しているのかさえ、私自身がわからないのだから。
 現に目の前にいる男にだって、人生をかける気は微塵もない。
 
 今欲しいのは「存在」だけ。
 私が生きたことを、女として生きていることを、肯定する男の「存在」だけ。
 どれだけ自分が女に生まれたことに、罪悪感を感じて生きてきたことだろう。どれだけ男に生まれなかったことを、呪っただろう。
 男にさえ生まれていれば、私はこのローマから愛されたのに!
  
 彼は答えない。一言も発さず、私を見るだけだ。
 まるで私の一人芝居。それともこれは私の見ている夢? 部屋の中で一人うたた寝をしている私が見ている、夢の中でのことなのだろうか?
 けれど私が手を差し伸べる前に、男が私を抱きしめた。
 我が身を包み込む圧迫感。不愉快な重み。女や子供とはあきらかに異質の、肉の感触。

 捕らわれた。それとも身体を支えられているのだろうか。全身の力が抜け、おぼつかない足元でも、添えられた手のために、ふらつくこともなかった。
 ユルスの乾いた目が見下ろしている。私の飢えは、見透かされている。
 私の身体を温めるこの体温を、愛だと思えればいいのに。その感覚は偽りでしかない。
 
 私を騙すために、嘘すらつく気もない男。正気のまま私を地獄へ導くつもりなのだ。
 言葉など信じない。「ユリア」の名に酔うだけの男たちの眼差しも、いつかは醒める。
 「愛してる」などとつまらないことを言われ、「君のためだ」と突き放されるくらいなら。
 男など信じない。「この人だけは違う」などと思わない。
 他の男と変わらない。ユルス・アントニウスという男など、どこにでもいる男の一人にすぎない。

 今欲しいのは、この温かさ。
 私が生きていて、一人ではないのだと信じられる他人の体温。
 
 私がこの男を罪に堕とすことになる。
 それでもいい。
 女に「愛してる」と嘘すら吐けない男など、犠牲にしても構わない。
 いつかはこの男も、私を捨てるのだから。 
 
 この人と一緒にいたい。
 今、この温かさがあれば何もいらない。
 それが罪だとは、誰にも言わせない。

2006.10.3〜2006.11.13 UP
TOP      LIST        
ユリアの年齢のような、既婚女性書くのも限界かなあ。子供のままですよね。
大人の感性で書ければユルスとユリアの話は大悲恋にもなるのでしょうが、私だとどうしてもこんな感じになります。
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送