気づくと室内の机に伏せて、うたた寝をしていた。子供たちはどこだろう――。
部屋の中に他に人物がいる。見なくてもわかる。ユルス・アントニウスだ。
気持ちがずしりと重くなる。うっとおしい。これまでは出入りも自由にさせていた。突然遠ざけたり騒ぎ立てるのも不自然だろうと、侍女たちにも注意をしておくのを怠っていた。これからは徹底させるべきだろう。
私を奪い取る勇気もない男。
なのに彼の姿を見られて、涙が出そうなほど嬉しいと感じている私もいる。
私のことを、気にかけている人がいる。こんなにも無駄な時間を費やす人間がいる。身体が目当てであるとわかっていても構わない。既に目的が私自身ですらなく、復讐の手段であってさえ。
それほどまでに、私は孤独だった。
私は「アウグストゥスの娘 ユリア」でしかなく、ユリウス家の継嗣を生んだ女としてくくられ、死んでゆくことになる。このまま誰にも何も言えず、無力に一生を終えることを考えると、気が狂いそうになる。
私が女に生まれて生きてきたことを、誰が喜んでくれるだろう。
「ユリア様が男であれば」
「リウィア様に男児がお生まれになっていれば」
「せめてアウグストゥスに非嫡出子でもいれば違ったかもしれない」
偉大なるアウグストゥスにふさわしい、後継者たる男児が得られていれば。
私では駄目なのだ。人は、私が女であることが不満なのだ。私がアウグストゥスの一人娘であることが、面白くないのだ。
私はいてもいなくても良かった。
私がどんな人間であるかよりも大事なこと。それは男であるかそうでないか。
やりきれなかったのが、この私を憐れみ、同情し、そして批判する者の多くは女だということだ。私と同じ「女」が、女に生まれたことが不幸であるから私を不憫だと言う。
けれど女たちの「憐憫」も、私の素行が悪いということで敵意に変じた。私のようなふざけた再婚を強要されたことのない女たちが、汚らわしげに私を断罪する。
悔しかった。
私に一方的に押し付けられる女たちの同情も反発も煩わしい。暴力に等しかった。
死別も再婚も、私の意思ではない。
悪いのは、夫の子供を生まない妻ではないか。
そのリウィア様は平然としていた。私が前夫との間に何人か子供を生んでも、心からは喜んでくれてはいない気がしていた。私に責務を肩代わりさせておきながら、他人ごとのような雰囲気があった。
けれど私とティベリウスとの結婚を一番祝福してくださったのは、リウィア様だったと思う。
ティベリウスとの婚姻で、やっと母娘になれたのだと思った。労わりやお言葉も、本当に私を娘として気遣って下さったものだった。
でも、それは私がティベリウスに拒絶されるまでのこと。
私という人間を、誰が特別であったと思ってくれるだろう。人々にとって私は「ユリア」という記号だった。遠目から眺めては目も合わさずに通り過ぎ、遠くで振り返ってから勝手なことを言った。
私に顔を見てはっきりと目を覗き込む人が、今までの人生にどれだけいただろう。どれだけの人が、私の言葉に本気で耳を傾けてくれただろう。
侍女でも家族でもない男といる時だけ、私は生きているのだと思える。私は誰かに求められているのだと思える。
こんな泣けてくるほどつまらない理由で、私はこの男の存在という苛立ちを受け入れていた。
「出て行って」
このわずかな距離。私が半歩進み出せば、彼は私を引き寄せるだろう。
それは許されない。この人を私のせいで誤らせるわけにはいかない。この人だけは。
「なあに? 他の女には愛想尽かされて、相手にしてもらえなくなっちゃったの?」
ユルスは一定の距離を隔ててたたずみ、腕を組んでじっと私を観察している。
私が手を差し出せば。
彼はそれを待っている。
あれきりだと決めた。後悔はしていない。あれで終われると思っていた。
私の弱さ、諦めの悪さ。誰かに必要とされたい、大切にされたいという願望は、子供時代の反動だろうか。
私は一番言って欲しい時に、言って欲しいことを言ってもらえなかった子供だ。
寂しい時、心細い時、私は家族に傍にいて欲しかったけれど、私の父は多忙だったし、実母は怒りやすい人で、私をさほど可愛いとは思っていなかったようだ。一番私が男であればと思い続けたのは、実母だったかも知れない。
父方で生活するようになっても、私にとって義母は理解できない人だった。夫がいる身で私の父と浮気をしていた女性なのだと知った時には、気持ちが悪くなった。世にも汚らしいことではないか。恐ろしい罪ではないのか。そう尋ねても答えてくれる人などいない。だから幼い私は混乱した。
どうしてこの人が私の母なのだろう。どうして私の母は、ここにいないのだろう。浮気は悪いことなのに、どうしてこの人達は、平気な顔をしてるのだろう。何故父は他にも女を作るのだろう。どうして義母はそれを無視できるのだろう。
そういう風に考えていた時期もあるのだ、私にも。
つまらない男だったのだろう、ティベリウスの父は。ティベリウスと同じくらい、つまらない男だったのだろう。だとしたら今の私にも義母の気持ちは理解できる。妻を貶め、守ろうともしない下劣な男だ。あんな男に、自分の人生を委ねるほど落ちぶれてたまるものか。
なのに何故あの人は、私の気持ちを理解してくれないのだろう。自分はあれほどつまらない男と離婚して、自由になれたのに。
何故私だけが、耐えなければいけないのだろう。
私にはオクタウィア様のお子様たちは、幸せそうに見えた。仲が良くていつも笑いあっていて、羨ましかった。
年頃になっても私に近寄ろうとする男性は父に叱責された。着飾ることや贅沢に興味を持つことは、悪徳だと思わされていた。私を綺麗だと言うものはたしなめられたし、自分でそう思うこともいけないことのようだった。若い女なら鏡の前で自分の姿に自惚れることもあるだろうに、私は罪悪感を感じていたものだった。
つまらない少女時代。寂しい思い出しかない。
誰かに認めてもらいたかった年頃だったのに、誰もが私を遠巻きにした。
やさしい言葉が欲しかった。
大切にされたかった。
必要とされたかった。
せめて、対等に扱ってもらいたかった。
誰かに。
その「誰か」の顔色ばかり伺うのは嫌だった。
誰か――。
あの人達の、顔色を、伺うのは、もう、たくさん……。
「いくら待っても何も出ないわよ。帰って自分の奥さんに甘えたら?」
仲が思わしくないことを知っていながら、男の妻を思い出させる女。本当に男に未練がないのなら、女はそんなことを口にしない。
勝ち誇った笑みが男の瞳に浮かんだ。そしてそれを冷静に認められるほどに今、私は彼を意識している。
ロドスに身を隠し、帰っても来ない夫の顔は、ろくに思い出せないというのに。何年まともに顔を合わせていないことだろう。ローマにいた頃も、時折見かけて夫の髪の色が褪めてしまったことや、白かった肌の粗さに驚いたほど疎遠だった。
夫とやりなおせたら。
どこまで時間をさかのぼればいいのだろう。夫の最初の妻の代わりには、私にはなれない。では私の初婚の前まで? それでも結果は変わらないように思えた。
一体、誰に許してもらえば、私は楽になれるのだろう。夫? 父? 義母? それともローマ市民?
私の息子たちは父によって取り上げられ、養子とされた。実父アグリッパではなく祖父を父と呼ぶことになり、私の手元を離れてしまったように感じられた。
それでも私の身は捕らわれたままだ。いつになれば「もういいよ、楽になりなさい」と言ってもらえるのだろう。
「別に愛人は、あなた一人じゃないのよ」
私が女であり続けるための、男ならいる。
だけど私個人を必要とする人はいない。
アウグストゥスの娘。ローマを継ぐ子供たちの母親。
この男だって、私が「ユリア」でなければ、私などに関心もなかっただろう。
この世の誰も、私を必要としていない。
お願い。いなくなって。
私はあなたを間違わせるわけにはいかない。
そう願いながらも、この男の存在にすがっている自分がいる。
この人を犠牲にして、私がつかの間の幸せを手に入れたとしても、構わないのではないのかと考えている。
他人のものを奪うことは、罪だ。
人の夫を奪うことは。
本当に?
私は幼い時にあの女に、「母」を奪われた。
何が正しくて、何が悪いのか。混乱した。今でもわからない。
10年以上も前、風紀を正す意図で「ユリア法」が成立した時に、陰では失笑した者たちがいた。当時の私の罪に加えて、己の矛盾に気づきもしない、彼らの滑稽さを笑ったのだ。
あの人たちは何様のつもりなのだろう?
当時結婚していたあの女と、私の父はこんな風にして会っていたのに、同じことが何故、私には許されないのだろう。
絶対に。
ああはなりたくないと、思っていた。
罪の意識がない者が、己の恥も知らぬままでいられるのだ。
けれど今の私は、彼らを罰することは出来ない。
この距離を縮めることは出来ない。
普通に言葉を交わせるだけでいい。官能的な刺激も約束もいらない。
そう思っているのに。
男はそれだけでは満足する気はないのだ。
私はこの男を退けられる言葉を知っている。私が尋ねさえすれば、完全に関係を切ることが出来る。
けれど。聞きたくはなかった。今の私は彼の言葉に、存在にすがっていた。ありもしない、その言葉があると思えるからこそ、気丈にしていられた。
でもこんな関係は、終わらせなければいけない。
「私を愛していると言える?」
ユルスに答えられるはずはなかった。「オクタウィアヌスの娘」である私の前には、「マルクス・アントニウスの息子」はけして膝をつく気はなかったからだ。
言えるものなら言って御覧なさい。
父の前では笑顔で卑屈なふりをしながら、陰では唇を噛みしめ、握りこぶしを固めていた男の子。
彼を知っているのは、私だけだ。
「お前なんか」
そう思われていたことも知っている。
あの男の娘でなければ、誰がお前なんかを抱くものか。
それでも良かった。
あんな父親を持ったことで、どれだけ苦しんだことだろう。一つくらいは良いことがあってもいいはずだ。
嘘でもついて酔わせてくれたら。
こんなに惨めな人生でも、私を愛してくれる人がいたのだと、そう思えたなら、この先の単調でつまらない人生にも耐えていけるのに。
「言えないくせに」
これまでのように、傍から見れば意味もない言い合いをしていられれば、それでいい。それ以上のことは望む気はない。
この男はマルケラの夫だ。これ以上あの女に関わるのはまっぴらだ。彼女の離婚も再婚も、私の意思ではなかった。けれど彼女の夫と寝たことは、私の意志であり、動かしがたい罪だ。繰り返すわけにはいかない。
あの時、救われると思ったのに、残されたのは傷と痛みだけだった。
「どうせ男なんてね、何ヶ月後かにはこう言うのよ。『こんなことはやめよう』」
愛していると言ってくれる男はいる。私のためなら命をかけられる、と言う男も何人も。
信じてはいない。けれど信じるふりをしてみせるのがルールだ。
逆なのかもしれない。男は常に、本気ではありえない大げさな演技をしながら、責任から逃れる準備をしているのかも。そうでなければ、あんな馬鹿げたことは口にしないだろう。
恋を始める時には、男は英雄譚に出てくる勇者のように、私をさらっていこうとする。
「自分はアウグストゥスの怒りなど、恐れない」
けれど物語を終わらせる時には、まるで真逆のことを言うのだ。
「『君のためだユリア。僕たちは別れなければいけない。こんなことは許されない』」
いや、物語の英雄たちは、こんな風にあっさりと女を捨てていたような気もする。運命のような出会いをした女にさえも、男は身勝手なもの。
突如、酔いから醒めたかのように怖気づく。私のためだと言って距離を置こうとする。実際は、自分の罪を理解しただけだ。
悲しいとも思わない。そう、と言って二度と会わないだけのこと。
つまらない男達は皆、あきれるほど同じことを言った。
「君はアウグストゥスの娘だ」
ユリア、ユリア、ユリア!
私はこの名だけを愛され、この名のために見放されるのだ。
「あなただって、最後には私を突き放すのよ」
この男とだけは。ユルスとだけは、そんな関係になるのはごめんだった。
屈辱でしかない。そんな惨めな思いはしたくない。
誰がお前なんかを愛するものか、とののしられる方がましだ。
最初から愛情なんかなかった、お前があの男の娘だから抱いたのだと言われた方がましだ。
「どうせあなただって逃げるんでしょう? 私を捨てるんでしょう? そんなのまっぴらよ!」
私は父親にさえ愛されなかった娘だ。
女に生まれついた時に、父は私を捨てたのだ。
妻に子供は期待できないと判断した時に、必要とされたにすぎない。
私はずっと誰かに愛されたいと思ってきた。一番でありたい。最愛の存在でありたかった。
でもユルスは嘘でさえ、与えてはくれなかった。そういう男だ。
卑怯者。
だけど卑怯という言葉は、相手が自分を対等以上に見なしている場合にのみ有効なのだ。
相手が自分を認識していない場合、「卑怯」などと罵られたところで意味がわからないのだ。何のつもりなのかと戸惑うだけだ。卑しき奴隷にそう思われたところで、誰が傷つくだろうか。
いいだろう。言葉なんて無意味。
今までの男たちから捧げられたたくさんの言葉も、結局は私には残らなかった。
私が本当に欲しかったものは、何だろう。
理解して欲しいといいながら、本当の私なんて私自身が知らない。
私を表現しようとする者の言葉は、皆見当違いだ。
私はそこまで哀れでもないし、無邪気でも幸福でもない。同情されれば腹が立つし、妬まれれば不愉快になる。
私の魂のあるじはこの私なのだと思いながら、誰かに理解して欲しいと思うし、愛されたいとも思う。
「私」の実像など、どこにもない。
ユリウス家の娘、ユリア以外の私なんてありえない。
この人が死ぬまでアントニウスの息子でしかありえないように。
構わない。
他人に救いを求めるのはやめよう。
この男も私を捨てるだろう。
私の生涯で、私を本当に愛してくれる男などいない。そう思えばいい。
父も夫も愛人たちも、私をどれくらい愛してくれたかなんて、考えても無意味。
私が誰を本当に愛しているのかさえ、私自身がわからないのだから。
現に目の前にいる男にだって、人生をかける気は微塵もない。
今欲しいのは「存在」だけ。
私が生きたことを、女として生きていることを、肯定する男の「存在」だけ。
どれだけ自分が女に生まれたことに、罪悪感を感じて生きてきたことだろう。どれだけ男に生まれなかったことを、呪っただろう。
男にさえ生まれていれば、私はこのローマから愛されたのに!
彼は答えない。一言も発さず、私を見るだけだ。
まるで私の一人芝居。それともこれは私の見ている夢? 部屋の中で一人うたた寝をしている私が見ている、夢の中でのことなのだろうか?
けれど私が手を差し伸べる前に、男が私を抱きしめた。
我が身を包み込む圧迫感。不愉快な重み。女や子供とはあきらかに異質の、肉の感触。
捕らわれた。それとも身体を支えられているのだろうか。全身の力が抜け、おぼつかない足元でも、添えられた手のために、ふらつくこともなかった。
ユルスの乾いた目が見下ろしている。私の飢えは、見透かされている。
私の身体を温めるこの体温を、愛だと思えればいいのに。その感覚は偽りでしかない。
私を騙すために、嘘すらつく気もない男。正気のまま私を地獄へ導くつもりなのだ。
言葉など信じない。「ユリア」の名に酔うだけの男たちの眼差しも、いつかは醒める。
「愛してる」などとつまらないことを言われ、「君のためだ」と突き放されるくらいなら。
男など信じない。「この人だけは違う」などと思わない。
他の男と変わらない。ユルス・アントニウスという男など、どこにでもいる男の一人にすぎない。
今欲しいのは、この温かさ。
私が生きていて、一人ではないのだと信じられる他人の体温。
私がこの男を罪に堕とすことになる。
それでもいい。
女に「愛してる」と嘘すら吐けない男など、犠牲にしても構わない。
いつかはこの男も、私を捨てるのだから。
この人と一緒にいたい。
今、この温かさがあれば何もいらない。
それが罪だとは、誰にも言わせない。
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