人の物を盗むことは悪いこと。
それが人の夫や、妻であるならばなおさら許されない。人道にもとる。
そんな風に考えていたこともある。
不倫なんて考えられない。
夫のある身で他の男性を愛するなんて。
自分さえしっかりしていれば、心など揺るぎはしないはずだ。
私はあんな大人には、なりたくなかった。
私の周囲の大人たちは皆すましていて、偉そうな顔をしていたけれど、汚かったから。
だけど私はいつしか彼らの中に、居場所を見つけていた。
一緒にいたい。
傍にいるだけでいい。
たわいのない話をするだけでも心が満たされる。
乙女のように、そう思う私がいる。
心の中で何を思ったとしても、それが罪だとは言われまい。
あの男は属州から帰国したとたんに、強引な振る舞いをするようになった。いかにも用があるように、あるいは何の意図もなさそうに、堂々とパラティウムに入り込み、私の視界に寄ってくる。そして私にしかわからない威圧感を押し付けてくる。
私に対して再び、嘗てのような関係を要求しているのがわかる。私には落ち着いて無視をするほかにはなかった。
3年近くも前のこと。あれきりのこと。繰り返す必要はない。
そう決めていた。
子供たちは義理の父ティベリウスよりも、赤の他人のユルス・アントニウスの方になついていた。愛想もなく、敵意を含んだ視線を向けてくる義理の父よりも、気さくに会話の出来る他人の方に、子供が安心感を感じるのも納得はいく。
けれど私の子供たちと、勉強の進み具合や今後の行事について親身な様子で話し込んでいた男は、私を前に向き合うと、温和な表情を消した。
子供の頃から私は知っていた。
どんなに明るく振舞って見せていても、これがこの男の本性だった。
幼く無力だった彼も、今やローマを担う政務官の一員だった。彼も家庭を持ち、それなりの愛情を注いで子供たちを育て上げている。気づけばお互い、そういう年になってもいた。
彼は自信に満ちた歩調で近寄ってくる。距離をつめられてしまう。
女の全身を眺めて、髪型や装飾品を誉めることなど、彼にとっては定型の挨拶をするようにたやすいこと。それらのついでに手を伸ばし私に触れることも。家族同然で育ったものとして、誰も気にすることはない。夫の目の前であっても、私の父が同席していたとしても。
――呆れたように笑顔で手を払い落とし、そっと離れながら、私はその場にはいない、あの女の視線を意識する。
マルケラ・マイヨール。
私の従姉。彼女の母にそっくりの外見を持つ女。
彼が義理の母オクタウィアを敬愛していることは知られていた。ユルスは彼女がいたために、生き延びたようなものだ。私の父に対し、いかに周囲が説得したとしても、彼女の言葉がなければ存命は叶わなかったかもしれない。現に彼の兄で、私の婚約者でもあった人、マルクス・アントニウス・アンテュルスは、私の父の命で死んでいた。
美貌を讃えられたオクタウィアにとてもよく似たマルケラを手に入れて、結婚当時のユルスは、幸せそうに感じられた。
自分の妻を「愛しい」「可愛い」と表現して、周囲にのろけてみせた。その実、自分の妻が彼女の母オクタウィアを思わせる、清楚な服装や髪型をするのをユルスは苦手にしているらしいと、誰かに聞いた。アントニアたちだったか、ウィプサニアだったか。派手で身勝手な女が好きで、自分に依存してくる女は重いのだ、と本人も言っていた。容姿を誉められて謙遜するのではなく、堂々と礼を述べて返すような女がいいのだと。
「困る。オクタウィア様に似てくると、本当に困る。俺の嫁なんざ、適当な女でいいのに」
小さい時から大マルケラは、自分の気持ちの表現が下手な女の子だった。自分の母や兄にさえ甘えたことのない、しっかりものの長姉だった。
素直に大人に甘えることができなくて、可愛げがないと言われて育った私には、彼女が他人のようには思えなかった。でもそう思っていたのは私だけのようで、常に彼女には距離を感じていた。
彼女はどんなに新しい夫に熱烈な言葉をかけられても、事務的で潤いのない返事しか返せない、不器用な妻だったのだろう。それでも大切な女性の大切な娘を任されたユルスは、その責務さえ誇らしく受け止めているように感じられた。
彼の「困る」という言葉には、大切すぎて困る、という意味も含まれているように感じられた。妻に誠実で真摯な愛情を向けられて、当惑しているようにも見えた。
他人の言いなりとはいえ、そうした結婚も中にはあるのだろう。
まるきり別世界のことだったけれど。少なくとも私が不幸にした女が、新しい夫に愛されているのならと罪悪感も薄れる気がした。
だけど人の心とは、そうした足し引きで解決できるものではないのだ。
どれほど今現在、愛されていたとしても、一度傷ついた心は元の通りにはならない。奥深くに生じた亀裂は、どう手を伸ばそうとしても癒すことは出来ない。時々過去を思い出しては、胸が締めつけられる。そういうことを繰り返すことで、痛みに鈍くなってゆくことはあっても。
彼女に忘却が訪れることはないだろう。
嘗ては最も「アウグストゥス」に信頼された男の花嫁だったマルケラは、夫に愛されていたという実感には乏しかったと思うけれど、幸せではあったに違いない。アグリッパはローマ一の武将であり、アウグストゥスの姪の中では一番に大切な存在だったのだから。
その幸せを奪い取ったのは私。
私さえいなければ、彼女が離婚させられることもなかったのだ。
マルケラの心を傷つけたのは私。
私が謝り倒しても意味はないし、かえって屈辱として受け止められることだろう。私は従姉の気持ちを推し量ることをやめた。卑屈になりすぎれば私の心の方が擦り切れてしまう。不本意な離婚も再婚も珍しくない。そう言い聞かせなければ、私自身があまりにも不幸で惨めではないか。
元夫の本音は誰も知らない。夫は前妻たちと私とを、比べるようなことは一切しなかったし、私自身も興味はなかった。私は私。そう扱ってくれた人だから、過去を推し測る気もなかった。
けれど周囲から見れば、彼女は女として「ユリアに劣る」という烙印を押されたも同然だった。
夫がどの妻を一番愛していたかなんて考えても意味はない。
私自身、誰を最も愛しているのかすら答えることもできない。
今の私は、ローマで一番の地位を持つ女のはすだ。
違う。私の前には一人いる。
父の妻だ。
夫の子供を生まなかったくせに。
私がその代行をさせられているというのに。
父にとって、私はその女よりも価値はない。
それは私が女であるから。
私が女として生まれたから。
父にとって私は、不完全な子供だった。
それがために、私はこの枷から釈放されることはない。
物語のように、いつか私の前に、私をここから連れ出してくれる人が現れないかと願っていた。
鎖で岩場に縛り付けられている王女アンドロメダのつもりだったけれど、いまだに助けは来ない。
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