パクス・アウグスタ     1

 パラティウムの丘をのぼったユリウス邸の戸口の上には、柏の葉の冠がくくりつけられ、柱は月桂樹の苗木で飾られている。この屋敷にはローマの第一人者が住んでいる。神々の姿を彫刻にし、それに命を与えたような人物が、午後の木陰の下にまどろんでいる。俺が近づいていくと、ウマのような灰色の瞳を開いて俺を見た。
「申し訳ありません。遅れました」
 傍らに水差しと杯をのせたテーブルがある。臥台に横たわり、俺を待つ間に書簡を読んでいたのが、つい眠ってしまったのだろう。
「お疲れなのではありませんか」
 約束の時間には遅れて到着したのだが、突然呼ばれてのことだから許される範囲だろう。俺が訪れると家内奴隷に庭へどうぞ、と案内されてこちらにまわった。
「あまりに風が気持ちが良くてね」
 アウグストゥスは身体を起こし、紙の束をまとめながら、俺にも庭に設置されている椅子に座るように指示した。座る前に、姿勢を正す。
「えーとこのたびは、我が異母妹の」
「ああ、いいから。せっかく覚えてきたのだろうけど。堅苦しいのは抜きにしないか、ユルス」
 がう。一応俺だって弁論とかの勉強してんだから、アントニウス家の主として、異母妹の婚約式で世話になったお礼や挨拶くらい、できるってとこも示してやりたい。けど通いなれたユリウス家の庭で、そういうやり取りをおっぱじめるってのも、妙に気恥ずかしい。それに今ので頭の中からふっとんでしまった。
「それとも今後のために、練習しておくかね?」
 ……どこにローマの最高権力者の目の前で、演説の練習をするヤツがいるんだ。やっぱ無理はしないどこう。
「……いえ。やめときます。えーと、クレオパトラ・セレネの婚約の件、ありがとうございました」
「いえいえ。どういたしまして」
 アウグストゥスが楽しそうに俺に返事する。あー、調子狂う。
「それと、ユリアの婚約のこと、おめでとうございます」
「ユリアが君のことを怒っていたよ。少しは寂しく思ってくれるのかと思っていたら、けろりとして『おめでとう』と言われたって」
 ユリアも父親にそういうこと喋っちまうのがお子様だよな。再び勧められて、椅子に腰掛ける。
「娘は君に、憧れていたのかも知れないね」
「あー、わかるかも。俺も結婚する時には、幼なじみとか、好きだった女の子に『ユルスのばか〜』とか言って泣かれたいっすね」
 いやアウグストゥス。そんなに笑わんでもいいと思うんですけど。
「ユルスの場合、葬儀の泣き女みたいな数になりそうだね」
 どうしてそういう想像するかなー。
「……ユルスには、異存はなかったのかね?」
 異存? 何に? どっちのことだ?
 アウグストゥスはさりげなく、重ねて言った。
「セレネをユバに与えることに、何か意見はなかったのかな?」
「ないです。他にも王子とか族長とか候補がいたとしても、ユバ以上に適任のヤツはいないし」
 オクタウィア様にも俺の意向は言ってあるはずだが、彼らはセレネの血縁で、唯一の成人男子である俺が、本当に納得しているのかが気になるらしい。どちらかというと、セレネがアフリカに行っちまうって方に意見はある。まるで追放みたいだ。

 アウグストゥスは安堵したように笑った。
「私はユバに、家族を与えたかったのだよ」
「……」
「私や姉がどんなに親身になっても、ユバには私たちは、家族ではないらしい。それが少し寂しかったのだが。これでユバは、姉上の義理の息子になる」
 血のつながりの全くない、法的な家族でしかないけど。婚姻によって生じる家族関係は、そのままアウグストゥスの信頼の表れでもある。
 ただ親身になる、なんて言葉を遣う間柄を、家族とは言わないと思うけど。
「ユルスにとって、私は家族なのだろうか」
 まじめな顔で尋ねられる。

 満面の笑顔できわどい質問をして、目が笑ってない大人もいる。アウグストゥスに媚びるために、俺にわざわざ言わせようとする大人たちもいる。「アウグストゥスはなんて寛容な方なのだろうね?」
 俺はそんなおべっか野郎に調子を合わせたりは、するのだ、もちろん。
 バカみたいに素直に、「はい!」と返事をする。大人にはいろいろ事情があるのだ。大変だよな。俺をダシにして、そういう話題をふってこられるのって正直迷惑なんだけど、そこで俺が返事に躊躇したら、勝手に話題にされてるアウグストゥスだってもっと立場に困るだろうし。
 だけど、本人とサシで会ってる時にはそんな返事はしない。
 
 答える前に無意識にすっ、と息を吸った。
「恐れ多くも、我が家には父の如き存在と、感謝しております」
 あくまでも是か否かの質問であって、忠誠を確認してるわけではない。アウグストゥスも、こんな子供に対して小心的かも知れん。
 でも、俺は返答をはぐらかしている。わかるだろう。俺の父親を追いつめて殺しといて(自殺だけど)、そりゃ都合がいいってもんだ。ただ家長がいない状態というのは何かと不便だから、アウグストゥスに頼っているのは事実だ。
「……父、か」
 アウグストゥスが、やや複雑そうな表情を浮かべる。
「せめて少し年齢の離れた兄」
「むり」

 通りすぎようとしていたユリウス家の奴隷が、アウグストゥスの高らかな笑い声を聞いてギョっとしている。ホント、叔父と甥って似るのかな。不意うちでツボに入った時の笑い方が、マルケルスと似てる。臥台に突っ伏して肩を震わせていて、起き上がれなくなっている。
「ユルス。早すぎるよ、返事」
 俺は、オヤジが今のアウグストゥスよりいくつか上の時に生まれた子供だ。アウグストゥスにしたらその親と同列にされるのには、抵抗があるんだろうけど。
 元老院の皆様がこんなとこを見ても、何が起きてるか理解に苦しむだろう。アウグストゥスは涙目で笑い、俺はふんぞり返っている。
 こんなんでも、俺は息抜きになってるのだろうな、と思う。こんなくだらない、たわいもない会話をアウグストゥスと交わすようなローマ市民は、いまやわずかしかいない。尊厳者、第一人者。仲間や親族と、ごく低レベルな話題や、掛け合いをしてふざけていられた時代とは違う。

 ――こうしているといつも、この人のこと嫌いじゃないんだけどな、と認識する。会ってない時に感じている不信や不満が、全部解消されていく気がする。
 話し合いたいと言いながら、言いたいことだけ言い捨てておしまいの人とか、俺の言うことを理解してない人とか、打算でしか話しかけてこない人とか、そういうのに比べたら話せる方だ。普通にうちに遊びに来る、親戚の兄ちゃんでもいいと思うんだけど。
 俺がそういう風に、あっさりと馴染んでいくことに慣れてしまったら。殺された兄貴の無念とか考えた時に、やっぱり少し後ろめたい気がするのだ。

 それから俺がついつい頬に手を当てるのを見て、アウグストゥスは言った。
「あまり上手くない床屋に剃らせたようだね」
「こちらへ来るのに、急がせたせいもあると思います」
 フォルムで開業している床屋に髭剃りも頼んでみたら、ニキビまでつぶされた。成人する時に剃ったくらいで、それ以後もさほど必要性はなかったのだが、ふと試してみたくなったのだ。やっぱあれは、アタリハズレがあるわ。
「双子神の神殿の近くにいた、シリア人の床屋はまだいるだろうか。無愛想だが、手際は良かった」
「今度行ってみます。アウグストゥスはリウィア様に会いに行く前に、寄ったりしてたんでしょ。キスする時に気になりますもんね」
 ま、実際のとこ、リウィア様だかテルトゥラ様だかテレンティア様だか以下略だか、わかったもんじゃねーけど。
「ませた口をきくようになったものだね」
 アウグストゥスは、また笑った。俺のオヤジが存命だったり、彼に息子がいてこんな年齢になったら、こういう会話もしたのだろうか。……あれ、いるじゃん。アウグストゥスには一応、俺と同い年の息子が。けど会話なさそうだよな、あの義理の親子。
「それで、お話ってなんでしょうか」

 一すじの風。木蔭を揺らす。アウグストゥスの顔にかかる、薄い光がちらつく。
「イスパニアには行きたくないそうだな」
「はい」
 リウィア様の連れ子のティベリウスや、アウグストゥスの甥であるマルケルスは、この秋遠征に帯同する。実務研修だ。若者は成人したからといってもすぐには職にはつけない。その間に戦争の現場を体験したり、属州の総督の見習いについたりしておくことがある。
 俺はオクタウィア様に、イスパニア行きについては「行きたくない」と訴えてあった。
「何故?」
「あんまり出世したいとか、役職につきたいとかってのは、ないんで」
 嘘だけど。でも「今から着々と経験を積んで」という気は全然ない。
「あと、同列に並べられるのは、辛いんです。マルケルスとか、ティベリウスと。俺、そういうの、困るっていうか」
 どうやったって俺は、アントニウスの息子なんだから。あいつらとひとくくりにされると、すごくミジメな気がしてくる。本来なら父親が死んだとしても、一族の関係者が俺の後見をするだろうに、俺に関する全権をアウグストゥスに握られている、という事実も気に入らない。
「別に、あいつらといることそのものは、不愉快なわけじゃないです。ただ……」
 マルケルスはユリアと結婚すると決まった以上、もうアウグストゥスの後継者として安泰だし、ティベリウスはお貴族様で勉強もできる上に、体格にも恵まれていて武術も得意だから、それと張り合うのもしんどい。
 そして、これからずっと、そういう風に生きていくのかと思うと。
 俺はあいつらとは違って、本来アウグストゥスとは関係ない。その他人に庇護されて、他人の言いなりで生きてくことを、まだ受け入れることができない。
 でもそのうち、流されてしまうんじゃないかって気はしてる。
TOP      LIST      NEXT
アウグストゥス書くの苦手です。ユルスだけでなく、自分にも自問自答。「私はアウグストゥス、好きだよね?」私、彼の評価はとても高いんだけどなあ。主人公も「整理しきれていない」と自覚していることを書き出しているので、支離滅裂さがそのまんま出ます。
前27年のイスパニア、ガリア遠征にティベリウスとマルケルスが同行しましたが、ユルスも行ったのかどうかは、わかんないです。ご存知の方いたら教えてください。
 キャリア見ると、役職与える年齢が早かったのは、マルケルスとドルススな気がするんですけど。(わりとユルスは標準的な気がする。でも執政官やアシア総督までさせてもらってるんだから、すごいことだよ……)だからまあ、アウグストゥスはユルスに関しては、わざとらしいまでのひいきはしなかったかも知れないです。
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送