父親

  アントニウス家は、ヘラクレスの子アントンを先祖に持つと言われている。まあ信憑性は甚だ薄いが。一応その血統を受け継ぐ、単純明快な親父マルクス・アントニウスと、女傑フルウィアから生まれたのが、俺ユルス・アントニウスだ。
 実の母のことはあまり覚えていない。相当な女だったと、母を知ってる奴らは言う。親父とは三回目の結婚で、糸紡ぎやら家事やらには全く興味がなく、男にあれこれたきつけて、思うままに操縦するのが好きな女で、しかも地位のある男に固執した。典型的な悪妻だ。親父との結婚も、なんだかんだ言ってお袋が言い寄ったようなものだろう。
 もっともお袋は俺の小さい頃に死んだ。親父の弟と共に軍を率い、カエサル(アウグストゥス)に戦いを挑んだとんでもない女で、さすがに慌てた親父が叱り、お袋はそれがショックで憤死したという。騒々しくも華々しい女だ。
 ともあれ、俺には母親の記憶はない。

 親父の次の結婚相手、オクタウィア様が、俺の母親といえば母親代わりだった。美人でやさしくて賢くて、こんな佳人が親父みたいな無骨というか粗野というか、知性のない男と結婚したのかと思うと、可哀想になるようなできた女性だった。

 で、親父の四回目の結婚相手、オクタウィア様には連れ子が三人いた。俺と同い年のマルクスを筆頭に、年子の妹が二人いる。俺にも三つ年上の兄貴がいて、子供だらけの家になった。マルクス、通称マルケルスは俺のオヤジのことは嫌っていた。図体がでかくてやたら品がなくて、自分の母親が痛々しくてならなかったのだ。俺も同感だった。

 ある日、オヤジが遠征中だったかの留守中に、オヤジからの使者がやって来てオクタウィア様に面会を求めた。ただごとでない様子にオクタウィア様が青ざめた。
「マルクス・アントニウス様に何かあったのですか?」
 うつむいたまま使者は答えない。夫の訃報に奥方が衝撃を受けるのではという配慮から、言葉を続けられないのではないか、とオクタウィア様は察した。深呼吸をし、使者に促した。
「わたくしはどんな覚悟もできています」
 俺は気づいていたが黙っていた。
 使者は突然オクタウィア様に抱きつくと、「ただいま帰ったぞ、我が妻よ!」と言った。臨月間近だったオクタウィア様は目を大きく見張り、それから気を失った。

 あほだ。

「フルウィアは大笑いしてくれたんだがなあ」
 思うほどウケなかったオヤジは、オクタウィア様を抱きかかえながら、不思議そうに言った。
 俺のお袋とオクタウィア様を一緒にするのでは、あまりに失礼だ。マルケルスはもうこんなのと同じ屋根の下にいるのも腹が立つという表情で、帰ってきたオヤジに挨拶もしたがらなかった。
 俺とマルケルスは良くも悪くも一緒くたに育てられた。ガキの頃はしょっちゅう喧嘩もした。殴り合いだの蹴りあいだのしてると、親父が帰ってきて笑いながら片手ずつに俺とマルケルスの頭をつかんでがつんとぶつけた。頭が割れるような痛さで二人ともクラクラしながら、やっばりこのオヤジはあほだと思った。マルケルスは信じがたいものを見る目つきで、がははと笑いつつ去るオヤジを見てつぶやいた。
「お前には悪いが、大ッキライだ」
 マルケルスの父親はやっぱり小さい頃に死んでたから、俺のオヤジが父親代わりになるのだが、あんなのはいらない、と言いきった。まあ嫌われたって仕方ないオヤジだ。
「お前は両親が離婚すりゃ他人になるけど、俺はあいつの息子だってのはやめらんないんだぞ」
 俺が言うとマルケルスは同情するような目をした。ま、俺はもう慣れていたし、諦めもしていたのだが。

 だがどういうわけか、オヤジは人に好かれた。呑んだくれでお調子者で、節操なしで、ばかだなあと思う男だが、周囲には憎めない奴と思われていた。見栄をはってもすぐばれる。指摘されると素直に認めて大笑いする。ローマの政界は、そういう人間関係が大いにものをいうから、オヤジのようになんだかわからんがやたら威勢のいい男にほいほいついてく元老院議員は多かった。個人の資質ってのは結構重要らしい。

 だからオヤジがエジプトの女王に惚れこんで、エジプトに居座り続け、アレクサンドリアで凱旋式をしたり式典をしたりしても、従う部下はいた。あまりのばかげた放蕩ぶりに離脱するまともな人も多かったが。
 エジプト女に骨抜きになったオヤジに捨てられた形のオクタウィア様は耐え、当時のアウグストゥスにとりなし続けた。マルケルスはローマに叛旗を揚げたオヤジのことを話題にするたびに、「ばかだ」と言った。
 オヤジがエジプトで自殺をしたという報ののち、オヤジの仲間だという輩がやってきた。兄貴も殺され、アントニウス家の嫡男になった俺を引き渡せと言うのだ。このままでは俺の命も危ないから、安全な場所にかくまうと言う。
「ユルスは渡しません」
 俺の肩に手を置いたまま、オクタウィア様は男たちに言った。
「しかし、あなたの弟は、ユリウス・カエサルの息子、カエサリオンや、アントニウスの長男アンテュルスを殺しているのです。このままではユルスの命さえ奪うつもりかも知れません」
 当時十二歳だった俺は、男たちの怖い形相に怯え、オクタウィア様が毅然として言い返すのに、すがりきったままだった。
「わたくしが、弟に言ってそんなことはさせません」
「しかし、オクタウィアヌス――カエサルは、あなたの夫君さえ殺したのですぞ」 
 オクタウィア様は言った。
「……殺されたのではなく、自害されたのです」
 生きてさえいてくれれば、自分のもとに帰ってくることもあったのかも知れない男は、命を絶つことになっても女王クレオパトラの側にあることを望んだ。
「ユルスのことは、わたくしに任せてください。わたくしが、けして危害を加えさせないと、約束します」
 オクタウィア様が言って、渋る男たちを帰した。
「何があっても、わたくしはあなたを守ります。安心なさい」
 そう言って、子供のとき以来、何年かぶりに抱きしめられた。オクタウィア様は夫に裏切られた妻で、俺はローマに置いてけぼりにされて、顧みられることのなかった孤児だった。
「ばかだ、あのオヤジは。どうしようもない奴だ」
 オヤジの自殺したのを聞くと、そう言って、マルケルスは立ち去った。泣き顔だったかどうかは知らない。
2005.04.01 UP
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ユルス・アントニウスの生い立ちです。
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