「――もしも僕が亡命、討伐隊が出される、なんてことになったら、兄さんに追いかけてきて欲しいな」
このままではどこかで義父と対立する。同調するわけにはいかない。自分は共和政ローマの市民で、王も、血統による権力の継承も、認めるわけにはいかないからだ。
義理の父アウグストゥスとの仲は良好だった。度が越せば討たれることもあるかもしれないが、殺されることはないだろうし、或いは亡命という形でなら黙認されるだろう。
甘さも自覚していたが、義父との対立は避けられない、と感じていた。
――それは自分が、アウグストゥスの血族ではないからだ。
そして自分の名誉も、けしてアウグストゥスの個人的な恩寵によるためでもなく、伝統あるクラウディウスの血筋ゆえのことだ。
そう信じることができたなら。
義父への反抗には、甘美な響きがあった。そうした証をたてることを望む自分も確かにいた。
「ローマを追われることになったって、僕はアントニアさえいればいい。どうせ捕まるなら兄さんに会いたいし、僕に万が一のことがあっても、家族のことも頼めるしね」
自分と彼女のためなら、ローマを敵に回したってかまわない。
実母のクラウディウス家、義父のユリウス家の後ろ盾を失うとしても。
血族か妻のどちらを取るかの選択なら、それがアントニアに限ってならば、彼女だ。彼女を望んだ時に、彼女を取り巻く背景も受け入れることを覚悟した。
「僕はクラウディウスである前に、一人のローマ人だ」
自分が何者なのか。もう考えることはやめた。真実はどうであろうと、自分がクラウディウスに属していること、母がユリウス家と契約を交わしたこと。その事実は揺るがない。
大切なのは自分が何を信条として生きるかだ。第一に自分であること、彼女がいること。
それに反する全ての事項は受け入れない。これは自分の生き方だ。兄や母でも譲るわけにはいかない。
うつむくウィプサニアを一瞥してから、兄は呟いた。
「お前はそれで満足だろうが、辛いのはお前の家族だ」
ウィプサニアが兄を見つめる。だがその痛ましげな目線を、兄は煩わしげに避ける。
そうか、と悟った。
兄が反発という手段を取らないのは、そういうことなのかも知れない。
兄が勝手な信条で動いたとしても、それで板ばさみになって辛い思いをするのは彼の大切な家族、ウィプサニアだ。
自分が兄を煽っていることで、ウィプサニアは心を痛めていた。兄の無念を理解しているだけに、自分が軽く不平を口にしていることが、さぞや疎ましいことだろう――。
兄嫁は自分や実家のことで諍いになることが辛そうな表情を浮かべていた。
ごめんなさいと言うと、兄は「私はいい。ウィプサニアに謝れ」と言ってきた。この態度。堂々と自分の妻を守りながら、「冷やかそうものなら許さん」と威圧してくる。笑いたい衝動を無理やりこらえる。
もちろん、謝罪する気持ちはある。わざと挑発的な言葉を選びつつも、彼女になら許してもらえるだろうと打算した自覚もある。
素直に謝ると、ウィプサニアはかぶりを振って微笑んだ。
「お前はドルススに甘すぎる」
兄さん。ふんぞりかえってそう言っているあなたは、妻に甘すぎます。内心でそう思ったが、本人に自覚はないだろう。兄は義姉だけでなく自分の気持ちに対しても鈍感すぎる。以前兄が自分と二人きりの時に、「どうして女の足は、あんなに冷たいのだ」とぶつぶつ言っていたので、思わずギョッとしたことがある。これから寝に部屋に戻るという時で、「えーと、ウィプサニアが?」と聞くと「当たり前だろうが」。確かに兄を足蹴にする女は他にいないだろう。まあその点は、自分も威張る気はないが。夜中、寝ぼけてる妻が冷たい足を自分の足にぴたりと絡ませてきても兄は我慢してるのだろう……。悪気はないとわかってても真冬ならば本気でやめて欲しいことだろうに、怒らないでじっと温めてやっているのか。自分ならアントニアとケンカしてるかもしれない。
「あ、あの。これで失礼するね」
ああ、ウィプサニア。なんてことを。
兄が目を潤ませたウィプサニアに突然抱きつかれ、と言うより座ったまま抱きとめる形になって、短い、悲鳴のような声をあげた。
そういうことは自分がいなくなってからにしてくれ!
見てはいけない、と直感した。今、兄と目があったりしたら石になってしまう気がする。
即座に立ち上がり、軍隊じこみの動作で部屋を後にする。
「何なんだお前は!」
馬上の司令官を知っている兵士たちが今、この男を見たら、軍務からぞろぞろと離脱するだろう。
振り返ると、兄の姿は言葉ほどは勇ましくなかった。心底弱ったような顔で天上を見上げ、無言で胸に頬を寄せてくる妻の背中を、ぽんぽんと叩いている。
「……わからん」
頭はいいはずなのに、どうして理解できないかな、この人。
見ていればウィプサニアの気持ちはわかるのに。自分が好かれている自覚がない。お互いに一方的で、ほとんど意思の疎通ができていない夫婦だと思う。
兄は、あれで幸せなのだろうか?
本人は亭主関白のつもりらしいが、ウィプサニアにペースを乱されて、時々気疲れしているような気もする。
人に「よくティベリウスとうまくやっているものだ」と感心されると、彼女は「私はアグリッパの娘ですから」と笑顔で答えている。兄が彼女にかなわない理由はそれだけではないと思うのだが。微笑ましいというよりも、バカバカしくなってくる。
自分たち夫婦の部屋に戻ってからアントニアに尋ねると、幼馴染でもある妻は「幸せなのだと思う」と答えた。
「私、義兄様の笑顔を見たことなかったから、驚いてしまったもの」
確かに以前に比べて、兄が笑うのを見かける頻度は多くなった。
自分たちにはわからない、兄の笑いのツボのようなものが、ウィプサニアにはわかるようだった。兄にとって気分のいい話題と言えば、古典や歴史の教養を下地にした言い回しであるとか、そういう高尚なことだ。「無教養な」者相手であれば嫌みったらしい解説を混ぜつつ会話をするところなのだが、ウィプサニアにはそのままで通じるのだ。時々夫婦でギリシア語まじりの妙な会話をしていることもあって不気味に思っていると、訳知り顔の家内奴隷が呆れ気味に言った。
「オケアノスの娘の名前を、どちらが多く言えるか競争してるんですよ」
「オケアノスって海の神様?」
「そう。3000人います。で、それに飽きたらネレウス(これも海の神)の娘たち。こっちは100人」
……もちろんその総数は数の多さの比喩であって、全部名前が判明してるわけではない。
「……で、それがなんかの役に立つの?」
「さあ。奥方がいくつ言えるか言い出して、ティベリウス様も無表情に答えてるだけで、楽しいのかどうか」
その日ウィプサニアが読んだ本の話題や、クイズを出すというようなこともやっているらしく、兄としては楽しいのだろうと思う。間違いなく。自分は絶対ごめんだけれど、兄にふさわしい人が来てくれてよかったと、しみじみ思う。
それから、彼女とて万能ではないから兄に謝ったりすることがあると、困った顔で笑ってやることもある。そういう血のかよった人間らしい一面が兄にもあって、この世にあの兄を変えられる人間がいたのだ。奇跡のような気がする。
こう言ってはなんだけれど、あの適当なアウグストゥスの決め方で、よく「アタリ」の目が出たものだと思う。
「義兄様の立場からすれば、ウィプサニアの実家とこじれたり、彼女を悲しませたくないのだと思う」
兄とて今の状態を屈辱に思わないわけでも、全く野心がないわけでもないはずだった。だいたい母だって。もう少しアウグストゥスに、きちんと話をつけてくれてもいいと思う。自分たちは連れ子なだけで、あの人の私兵隊長ではない。
自分はこわばった顔をしていたのだろう。アントニアの表情には、自分の気分が反映されてしまっている。
「ドルスス」
アントニアが呟いた。相変わらず美しい。長い睫も大きな瞳も、今でも見飽きることがなくて、見惚れてしまう。比べては何だけれど、同い年のウィプサニアよりも大人びていて、彼女の母オクタウィアの優雅な面差しに、少し似てきたように思う。既に子供もいるからか、少々ふっくらとしてきたところがまた女性らしく、所作にもゆったりとした気品がある。既に立派に家のことを任せられる貴婦人だ。
「私は今のままで充分幸せよ」
自分はマルクス・アントニウスの娘だから。生きて、こうして幸せな家庭を持つことが出来て、それだけで幸せなのだ、とアントニアは言う。
「お願い。無茶はしないで」
兄にも暗に「アントニアを巻き込むつもりなのか」と諭された。いくら自分が彼の義理の息子であり、アントニアが姪であっても、行動を誤れば間違いなく失脚する。自分もアントニアも、父親は彼の敵であったのだ。そこまで優遇される理由はない。
「大丈夫だよ」
今はまだ、動くべきではない。だがもしも彼に万が一のことがあれば。
自分たち兄弟ならば、ローマを掌握することはできる。幼い後継者たちの父親であるアグリッパ将軍の存在は手ごわいが、政界での立場は磐石ではない。手を回すことはできようし、自分たちならば軍隊を掌握することも可能だ。
アグリッパ将軍よりも案外厄介なのが、後継者の母親でありアウグストゥスの唯一の実子、ユリアの存在だ。彼女が将軍亡き後、子供たちの後見を面倒な相手に任せたりすると少々困ることになる。同居していた頃は子供であったし問題もなかったが、ユリアは母とは折り合いが悪い。アグリッパ将軍に嫁して正妻としての権限の自由を知ると、実家の母に対してはおざなりの敬意しか払わなくなった。
ユリアは自分の子たちがないがしろにされ、父の後妻の連れ子である自分たちがローマを支配することを、面白くは思わないだろう。まあろくなアタマはなさそうだが。やはり当面は、アグリッパ将軍の天下に甘んじると見なすべきだろう。
他にも気になることはある。少し気に入らないのが、義兄のユルス・アントニウスが良くない輩と一緒にいる点だ。反アウグストゥス、いやマルクス・アントニウスの子飼いの残党と言うべき連中なのだ。気にするほどの規模でも質でもないが。
彼自身はアウグストゥスのことを「いい人だと思うよ」と評価はしている。
「感謝してる」
会って話をしている時は信頼されていることを実感出来るし、何の不審もない。
「だがそれだけだ」
なのだそうだ。
ユルスへの印象は、まさに彼のアウグストゥス評がそのままあてはまる。
直に対話している時は、微塵も疑いを感じない。明朗でわかりやすく、裏があることを隠そうともしないし、その暗部は自分も共有しているという意識はある。
だが、その一言に尽きてしまう。距離を置いてしまえば、彼を信用していないということを思い出す。ユルスは本当の裏にある顔をこちらには見せてはいないし、それは自分にも言えることだから、お互い様だろう。
ユルスを利用することもできそうだが、彼の仲間たちは信用もおけそうにないし、そもそも単なる不満分子だから最終的に使い道に困る。だがそう、使い方によっては――。
手を組んでから切る、というやり方もある。神君カエサルの死後、義父がいっときマルクス・アントニウスと手を組んだように。
「――大丈夫」
百年の内乱を繰り返すことに比べたら。この偽りの平和がどれだけ尊いものか。 しかもアントニアの兄や、兄嫁の実家という範囲を直接敵に回すことにもなる。間違えるわけにはいかない。
昔ならば当たり前のことだと言われるだろう。政略結婚も姻族間の対立も。だが自分たちの家族間の問題は、そのままローマ中を巻き込むことになるかも知れない。アウグストゥスの力は、それほどまでに大きくなっているのだ。
ただ待てばいい。彼の死を。まだ自分たちは30にも満たない。静かにキャリアを積んで、その時までにローマを掌握していれば良いのだ。
不安に顔を曇らせているアントニアを抱き寄せようとする。
彼女のためなら我慢もしよう。その時まで待ってみせよう。
自分が手にする名誉は、彼女を飾ることだろう。
ローマ人にも自分たちは「アウグストゥスの義子」でも「アントニウスの娘」でもなく、「将軍ドルススとその妻」だと認識されることだろう。
「――ちょっと」
迷惑そうに手を払われ、アントニアに逃げられてしまった。
「忙しいんです。あなたのことまで子供のように、お世話をしなくてはならないのかしら?」
兄なんて、見事にお子様のままなんだけど。妻に明らかに甘やかされている。
「なあに? ローマの将軍様がそんなお顔をして。兵士たちが見たら逃げちゃうわよ」
妻というよりも母親の顔つきをして軽くあしらわれ、アントニアは部屋を出て行ってしまった。
「……」
何だろう、兄夫婦とのこの差。逆というよりも、自分は妻に邪険にされているじゃないか。自分はこんなに彼女を愛してるのに!
自分はあの兄の弟なのだろうか、と思った。
別に、あまり似ていたくはないのだが。
少し複雑だった。
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