夫のトガを、兄嫁は家内奴隷に手渡して、そのまま室内からさがらせた。それ以後は、夫のことは自分でするということだ。
「すこし落ち着いたらどうだ」
室内を動き回るウィプサニアを眺めながら、自分はどっかりと腰掛けた兄はため息混じりに言う。
兄嫁が「でも」と振り返って言うのに、思わず苦笑してしまった。兄は簡素な生活を好むが、室内には兄嫁の手織りの布が使用され、彼女の気遣いなのだろう、生花が飾られている。神話の一場面を描いたらしい陶器などは、文学マニアの兄の自尊心をくすぐりそうだ。
少し内密な話をしたかったので、食事の前に少し飲もうかと声をかけ、兄夫婦の部屋に押しかける形になってしまっている。
「ごめんね。邪魔をして」
兄は「どういう意味だ」という顔をしている。
「最近兄さんが忙しかったから、寂しかったんだよね、ウィプサニアも」
兄は義父にも母にもそっけない態度で接し、妻ウィプサニアにさえも、家内奴隷に対するのと大差のない口のききかたをする。
「なんだ。大げさな」
「はい。ティベリウス様とゆっくりお話しがしたかったです」
ウィプサニアが呟いた。普段ははじけてる印象があるが、ふとこんなふうに、女らしい表情をすることがある。多忙な兄を煩わせないように静かに侍しているのだが、言うべき時には直撃でかましてくれるのだ。
見つめられた兄が、どう返していいのかわからずに、当惑している。なかなか「ああ、わかったわかった」と聞き流す域には到達しそうにない。聞いているこちらは慣れたのに、本人はまだ慣れてないのだ。。
兄は他人に好かれるという経験に乏しくて、ここまでわかりやすい妻にさえも、愛されているという自覚がない。だがウィプサニアの愛情表現も殺傷能力が高いので、好意というより暴言に近く感じるのだろう。
兄嫁を可愛いと思う。最初は痛々しいような気がしていたけれど、兄を一途に慕っているのはわかる。極端な気性の兄を常に怒らせないように、機嫌を悪くしないように気を遣い、年下のウィプサニアが健気に受け止めている。弟の自分でも、兄のような男とよくやっていると感心するほどだ。
アグリッパ将軍の躾が良いのだろうが、あれだけの有力者の娘なのだ、もう少しわがままに育っていても不思議はないものを。兄とは別の意味で謙虚で、いつまでも初々しい夫婦だと思う。
別に。アントニアがそうではない、とかいうつもりはない。ただ幼馴染だったから、こんなふうに見ている周りが微笑ましくなる甘さは、なかったと思う。
「えーと、まあすぐに退散するんで、ちょっとだけ」
ウィプサニアにも、兄に話したいことはたくさんあるだろう。家族の間でも彼らが何を話しているのか不思議だったので、アントニアが尋ねた時には、「お夕飯のお献立のこと」とか「親戚に子供が生まれた」という会話をしていたとのことだった。普段は案外普通の夫婦のようだ。
「アウグストゥスの考えてること。僕は納得いかない」
話を切り出すと兄が不機嫌そうな顔をした。いつでも不機嫌だから、今さら気にはしないが。
「僕らはクラウディウスだ。ユリウス家の使用人ではない」
ウィプサニアが無言でぶどう酒を置いて、部屋の外へ出ようとするのを、兄が制した。
「ウィプサニア、いなさい」
そうすれば、自分が発言を控えると思ったのだろう。
「アウグストゥスは僕らに、ユリアの子たちに仕えろと言うのかな」
ユリアの子の父は、このウィプサニアの父親でもあるアグリッパ将軍だ。
悪いけれど。陰で文句を言うよりも、この兄嫁に限ってなら直接言ってしまった方が良い。感情的になることはないし、婚家と実家の状況を把握するだけの冷静さはあるだろう。悪い方には持っていかない、良心的な配慮も期待できる。
「ドルスス」
兄は、ローマなどどうでもいいのかも知れない。
誰が権力を握っていても、誰が頂点にいても。
現在のところ兄にとっての二人の義理の父が、ローマ最高権力者とその後継者なのだから、そう簡単に彼の不利になることはないだろう。
もう少し兄がアウグストゥスにとって重要な位置にいれば、全く意味合いが違ったはずだった。或いはローマ市民にウケが良ければ。尊厳者の支持を凌駕する勢力になりえていれば。
なんというのか。皮肉にも兄の人望のなさが、ローマ及び家庭内が穏やかな理由になっているのだ。
もしもマルケルスが生きていたら、さらに屈辱的だったはずだ。軟弱で兄の足元にも及ばなかったくせに、派手なことをしてローマ市民へ取り入ることだけは上手かった。アウグストゥスの甥が生きていて、兄や自分を差し置いて、後継者づらをするのを見る羽目になっていたら。
「兄さんはなんのために、ローマ軍を指揮するの?」
即答だった。
「義務だからだ」
正確には間違っている。だが確かにローマでは、そのように生まれついた者が正規軍の指揮官を務めることは、義務だった。
「義務でガイウスやルキウスのために、兄さんは死ねるの?」
「どうしてそうなる」
「僕がローマ軍を率いるのは、アントニアがいるからだ。子供たちもローマ市民だから、僕はローマのために身を捧げている。ガイウスたちの都合の良いように使われるためじゃない。絶対に違う。僕らだけでなく、僕らの子供たちが、あの子たちの継ぐローマのために使われるなんて、許せない」
常にローマの権力の中心にいた、誇り高きクラウディウスが。まるで「庇護人」のようにユリウス家のご相伴に預かるまでに落ちぶれるだなんて。
「ぼくらはアウグストゥスにとって、アグリッパ将軍みたいな、便利な存在なのかな」
使い勝手の良い、駒の一つなのだろうか。何があっても裏切らず、彼の死後も彼の遺言に従って生きていくとでも、思われているのだろうか。自分の権威で巨大なこのローマを支配する権力の一部を付与されているのだから、感謝しろとでも?
兄は不愉快そうな顔をしていた。怒鳴る気も、否定すらする気力もないかのようだ。無言で「立ち去れ」と命じられている。
「兄さんは、ローマなんてどうなってもいいんだろう」
それがローマの男の姿か。名門クラウディウスの家長か。ローマの支配階級に生まれながら、その無気力は一体なんだ。共和政に捧げてきた一族の子孫として、あるまじき惰弱さだ。
兄はそれでもいい。自分は。いまだに「アウグストゥスの実子ではないか」と囁かれているのだ。あの人の血筋への妄執は、マルケルスの死後は自分に向けられた。
違う。自分はクラウディウスだ。
「能力のない者が権力を握れば混乱が起こり、内乱時代の再来になる。アントニアやウィプサニアだってイタリアを逃げ回ることになるかも知れないんだよ。ねえ兄さん。その時には僕らがローマを立て直そう。共和政を復活させるんだ。ローマを維持できるのは、僕らだけだ」
兄は返事をしなかった。
自分は個人的にはアウグストゥスの方法を受け入れてはいない。その点では兄の方が、独裁的な権限の元に統治される体制に、賛同していたとも言える。それでもその後継者になろうとは思っていない。謙虚であるとか欲がないというよりも、煩わしいのだ。これまで以上に、義父や母に干渉される機会が増えることが。
「……何だよ覇気がない。それでも僕の兄なのか? 野心はないのか?」
自分はこんなに率直に言っているのだ。血を分けた弟くらいには、本心を言ってくれてもいいものじゃないか。
「ドルスス様」
黙っていたウィプサニアが、静かに言った。子供のように拳を握ったその手を、たしなめるように兄が押さえる。父や異母弟たちを悪し様に言われても悲しげにしていた兄嫁は、夫をなじられて怒っていた。彼女にしては、珍しいことに。だがその敵意でさえ理由がわかったから、愛しいと感じた。兄がどれだけ幸せであるかを、感じられたからだ。
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