眠りは死の兄弟

 ひんやりとした静寂。
 このままではまた夜が明けてしまうと気づいて、仕事を切り上げて寝室に入ってきた彼は、そろりと私の隣に横になった。私を起こさないように気を遣ってくれていて、私も時々寝たふりをして物音に気づかなかったことにする。
 あれから少し時間がたっている。彼も眠れた頃だろうか。
 あまりにも静かだったので、だんだん心配になってきた。
 
 呼吸、しているわよね?
 不安になって、顔を近づけてみる。
 眠っている旦那様は、身じろぎひとつしない。
 お行儀が良いのはいいけれど、彼の静かさが怖くなる。
 少し姿勢を変えて、目を閉じる。
 眠らなくては。眠ろう。そう言い聞かせる。
 自分の呼吸の音ばかりが気になる。目を開いても、月の高さは変わらない。
 心臓の音を確認したくて、そっと耳を寄せてみる。
 
「……何をしているのかな」
 起こす気はなかったのだけど。
 やっぱり起こして、確かめたかった。
 迷惑そうに片目を開けた彼は、心のうちでは「ああ、眠れるところだったのに」と落胆していることだろう。
「眠れないの」
「……そう」
 手を伸ばして私の髪に指を入れて、軽く梳いてから、首筋に手をかけて抱き寄せられる。
 こうして胸に頬を寄せて安堵できる温かさ。
 
 いつか私かこの人のどちらかが、目覚めることのない朝が来る。
 いつかこの温かさを分かつことのできない夜が来る。
 眠り(ヒュプノス)は死(タナトス)の兄弟。こうして人は、毎日死に慣れていくのだろう。
 
「……起きた時にさ……」
 寝ぼけているわけでもない……わよね?
「あなたがそばにいるのって、いいよね……」
「いつの話? 私たちが結婚して、どれだけたつと思うの? まるで嫁いできた頃のようなことを言うのね」
「……毎日、一番に『おはよう』と言えるのが嬉しいのは、私だけなのか……」
 すう、と呼吸をして、再び部屋の中が静かになる。
 
 朝、起きるとあなたが私の隣にいて、「おはよう」を言えるようになったのが嬉しい。
 
 恥知らず、と陰口を叩かれた婚礼の翌日の朝に、やはり半分寝ぼけたような笑顔で同じことを言われた。
 その時はなんとか堪えて、「早く朝の謁見の支度をしてください」と言って、この人を部屋から追い出したけれど。
 一人になってから、大泣きしたことを覚えている。私はずっと泣かないできたのに。
 
 我が子も捨てて、身重の身体で。本当に、本当にこの決断で良かったのか。
 どんなに不安に折れそうな時でも、私は彼の前では泣かないと決めていた。私は彼の胸で泣くために、一緒になるのではない。

 これは私自身が決めたこと。私が選んだ人生。私の意志で、私はここにいるのだ。
 この罪の報いを受ける覚悟は決めた。
 子供も夫も捨てた女なのだ。守られたり支えてもらうために、ここに来たのではない。
 強くなるために、私は一人で立ち上がらなければらない。
 
 朝の光に白む部屋の中、やはり一人決意した私に彼は言った。
 「おはよう」
 
 幸せになってはいけない気がした。
 私が幸せに甘えることは、許されないと思った。
 けれどこんなことが、幸せだと思えるのだから仕方がない。
 
 それまで堪えていた分も泣いてから、私の新しい人生が始まった。それ以来は泣いていない……と、思う。
 人の中傷も旦那様の浮気も平気。そうしたことは「他人から見た私」が傷つくだけのことで、私の心までは傷つかない。
 他の女の夫を奪ったのだから、自分が同じ目にあったとて怒ることもないし、一度手放した子供に愛情を強いることはおかしい。
 冷たいと言われるかも知れないけれど、最後は私一人なのだと思っているから、平気。
 
 眠りは死に似ていて、時々夜中に不安になって、彼を起こしたくなる。
 でも本当は、早くその一言を彼から聞きたいだけなのかも知れない。

2006.01.15 UP
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 隠すことでもないのですが、書き終わってよく見たら人名を使っていなかったので、そのままにしてみました。気づけば再読してもらえるかな、と。計算して書いていたら、かっこいいんですけど。
 特に年代設定してないのですが、案外晩年でもいいかなあと思います。(その頃には寝室別だったんじゃない? つーツッコミはナシで)
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