祝婚歌     1

 絶望。
 無理に笑おうとしたけれど涙があふれ、目を閉じると、こぼれ落ちた。
「マルケラ……」
 何故私が、こんな思いをしなければいけないのだろう。
 二年前、兄のマルケルスが二十歳を前にして病死した。
 兄の妻は、ローマ市民の第一人者(プリンケプス)、アウグストゥスの一人娘だった。
 ユリアは私のいとこにして、ローマ最高権力者の娘だ。ユリウス家の娘、ユリア。彼女の夫は、アウグストゥスの後継者を意味する。
 そして、私の夫、マルクス・ウィプサニウス・アグリッパが、ユリアの次の夫に選ばれた。
 母は私を慰め、私をどんなに愛してくれているかを語ってくれたけれど、どんなに理屈ではわかっても、私はユリアよりも大切ではないのだと感じた。私などその程度の価値の娘でしかないのだ。実の母にさえ、私はその程度にしか扱ってもらえない娘なのだ。
 十三の時にアグリッパ様に嫁いだ。女児一人にも恵まれた。歳は離れていたけれど、武人の夫はとてもやさしい人だった。私がアウグストゥスの姪であるために大切にしてくれた部分もあったに違いないけれど、多忙で、幼い妻をかまってやれないことに、申し訳なさを感じていた人だった。
 無骨で不器用な夫だけれど、気にかけて下さっていることはわかっていたから、寂しく感じたことはなかった。執政官や総督を歴任するほどの多忙な人で、それほど立派な方に嫁げた自分は、幸せなのだと思っていた。幸せだった。
「マルケラ……」
 母が私の名を呼ぶ。私に落ち度があるわけではなく、ユリアをしっかりした人物に嫁がせる必要があったのだと言うけれど、だからといってどうして私がこんな目にあわなければならないのだろう。
「本当に、あなたには悪いと思うけれど……わかって欲しいのです。他にユリアを安心して任せられる方がいないの」
 マルケルスお兄様が亡くなってから、母も叔父も気が弱くなった。兄マルケルスのように、いつか病気がちなアウグストゥスも倒れる日が来る。そんな不安にかられ、私を離婚させて、大切な一人娘に、私の夫を与えることにしたのだ。
「それで話があるのだけれど……」
 叔父はローマを不在にしていた。だが書簡で母と叔父はあらかじめ打ち合わせていたのだ。私に会いたいからと言って実家に呼び出して、離縁の話をし、少し考えるように言っておきながら、次の手はずは整えてあったのだ。

「そこにお座りなさい、ユルス」
 ユルス・アントニウス。母の再婚相手の連れ子で、私にとっては一つ年上、二十一歳の義理の兄になる。マルケルスお兄様と同い年だったので、本当の兄弟のようにして育てられた。
 彼は執政官、そして謀反者マルクス・アントニウスの次男だった。叔父はこの嘗て自分と対立した男の息子を、血縁者や姻戚を優遇するように取り立てた。ローマの人々はその慈悲深さに感心したものだった。何しろアグリッパ様、兄マルケルスや、後妻リウィア様の連れ子の兄弟に次ぐと言われるほどの、地位を占めているのだ。
「ああ。大マルケラ、帰っていたのか」
 ユルスは無造作に椅子に座ると、涙をこらえようとしている私を見た。何故彼が。嫁いで以来、ほとんど言葉もかわしたことがない。
「こうした時に、こういう持ち出すのもどうかと思うのだけど」
 母は言った。
「マルケラ。ユルスと結婚する気はないかしら」
 なんてこと……。
 私が返事もできないでいると、ユルスは穏やかに言った。
「まだ早いのではないですか」
 彼は既に話は聞いていたのだろう。私が言葉もなく青ざめているのを見て、母がうなずいた。
「そうね。突然ですものね」
 義理の兄であるユルス・アントニウスは私と視線があうと、すっと逸らした。話している時はにぎやかなのに、黙ると別人のような厳しい表情をする。
「ユルス。あなたには異存はないと、考えても良いのかしら?」
 母は立ち上がった義理の息子に言った。
「あるわけないでしょう」
 ユルスは母を見据えて答えた。マルケルスお兄様の亡き後、我が家で唯一の男子となった彼は家長としてふるまうようになり、母にも信頼されている。
「俺にはもったいない話です。マルケラはオクタウィア様に似て美人だから嬉しいです」
「……」
「ま、マルケラに嫌がられたら仕方ないですが」
 そんな。
 義理とはいえ兄だと思ってきた人と結婚と言われても、判断ができない。今さっきアグリッパ様と離婚しなければならないと言われたばかりなのに。
 なんてこと。なんて屈辱。信じられない……。
「……ごめんなさい。今は、何も考えられません」
 私がなんとか答えると、それはそうだと母も許してくれた。
 母を残して部屋を出る時、彼は言った。
「しかし、俺たちに拒否する余地はないと思わないか」
「……そうですね」
 確かに拒めるとは思っていない。
 これはローマの第一人者、アウグストゥスの決めたことだ。
 母が同情してくれているのは今のうちだけで、嫌だと訴えても、結局は叔父の言いなりになるに違いない。
 叔父は、姪の私個人に対してはほとんど好意はない。あるとしても、お気に入りだった甥のマルケルスの妹であるとか、愛する姉オクタウィアの娘である、その程度の愛情にすぎない。だから親身になって私たちの幸せを考えてくれたのとは少し違う。
 叔父は彼、ユルス・アントニウスを見込んでいて姪と結婚させ、彼に対する評価を証明しようとしている。ユルスを重んじていることを示し、私に対しても、けしてないがしろにはしなかったという姿勢をとりたいのだ。愛娘ユリアのために私を離縁させた、後ろめたさを払拭するために、私たちを結婚させたかったのだ。
「ということは、この話は本決まりと見なしてよかろう。正式な話はお主が実家に戻ってからということになるだろうな」
 私の新しい夫になる男は呟いた。離婚させられること自体にも実感がないのに、この兄としてしか見たことのなかった人物が自分の夫になることなど、どうしても考えられなかった。
 逃げ場を失ったような気持ちになった。一人になって考えたい。そう思い、家内奴隷を呼び、帰宅を告げた。
「……ま、お互い頑張ろうな。結構俺は、嬉しく思ってる」
 彼は言って、こちらを見ずに手をひらひらさせて、自室へと戻っていった。


 帰国されたアグリッパ様は事前に叔父から手紙を受け取っていた。そして家で出迎えた私にやさしく言った。
「そなたは私にとって、申し分のない妻だった」
 アグリッパ様の先妻の娘、十五歳のウィプサニア・アグリッピナが不安そうな顔で、私に抱きついて言った。
「マルケラ様」
 ウィプサニアは私とは姉妹のような年齢だった。嫁いできた時には八歳だった。女友達のようでもあり、時には私を母として敬い立てる気遣いの出来る娘だった。大きな目を見開いて、必死な顔をしている。私の可愛い娘。いつも明るくて元気で、大きな声で歌を歌ってくれる。親のひいき目ではなく、賢くてやさしい娘だと思う。
「ウィプサニア。あなたのお嫁に行く時に、こうやって花嫁を送り出すお母さんをしたかったわ……」
 ローマの花嫁は生まれ育った家を出る時、母親の腕から奪われてゆくのだ。いつかその役をするのは私だと思っていた。
「どうして? 断れないのですか?」
 父親に対するウィプサニアの言葉は、半ば叔父に向けての怒りだ。彼女の実母が離縁されて私がこの家に上がりこんだ時には、同様の疑問を抱いたのだろうか――。
「いけません。ウィプサニア」
 涙が出そうになるのをこらえて言った。両親が別れ、すぐに新しい母親が家に入ることなど、ローマでは珍しくもないことなのだから。
「新しいお母様とも、仲良くするのよ」
 母親? ユリアが、この娘の?
「……たまには会いに来てくれますか?」
 泣くウィプサニアの顔を、私は初めて見た。もしかしたら私の知らない所では泣いていた日も、あったのかも知れないけれど。私たちはお互いの前では泣くことはなかった。私は義母で彼女は義娘だったから、互いに心配させたくはなかったからだ。
 私がアグリッパ様を見ると、夫はうなずいた。
「そなたの娘もいるのだから。いつでも会いに来てやって欲しい」
 嘘。新しい妻が、気にしないはずはないのに。全部、自分がかぶるおつもりなのだ。
 アグリッパ様は乳母に言ってウィプサニアを部屋から連れ出させた。娘の前でずっと涙をこらえ、こわばった表情をしていた私は、それでようやく泣くことが出来た。
 夫の大きくて温かい胸に抱かれて、泣きじゃくった。幼い子供のように。私はいつかこの方にふさわしい妻になれますようにと、願い続けてきたのに。 
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書いていた時は大真面目だったのですが、よく考えたら離婚と同時に再婚話なんて持ってくるわけないですよね。そんな非道な。
 それと「名残の薔薇」でも言い訳してますが、ウィプサニアはこの時には既に結婚している年齢かも知れません。
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