聖域     1

 近頃のローマは、いたるところ工事中だ。フォルムを通り過ぎる間に、あちこちで神殿やら議事堂やらを建設するための石材等が見える。人や物資の出入りでやたら慌しいけど、こうやって新しいものが完成してゆくのを見るのは気持ちがいい。
 これらの建造物の出資者はアウグストゥス。元老院から贈られた「尊厳なる者」という意味の名だ。……ローマは日々変化して、何か得体の知れないものになっていく。だがこのまま記憶の隅に追いやって、覆ってしまいたいこともある。
 平和ってこういう日々のことなのか。最近、やっとそういう風に感じるようになった。これまでは思い出したくもないと言いながらも取り出してきては眺め、それを元の位置に戻す。そんな日々だったのに、今では忘れようと思えば忘れられそうな気がする。

 この間完成したばかりの、アポロ神殿付属図書館の前に立っていた男が、俺に気づいて近寄ってきた。
「やあユルス。元気そうだね」
 故ヌミディア王の遺子、ユバ王子だ。何でそういう男がローマにいるのかと言うと、三歳の時に父のユバ王がローマに敗れて自殺したため、神君カエサルに捕虜として連行されてきたからだ。以後ローマ貴族の子弟なみの英才教育を受けている。二十二か三だ。
 ユバは遠くからでも見分けがつく。ほっそりしていて背高はそこそこだが、背筋が伸びていて腰骨の位置が高くて脚がやけに細長いから、ローマ人の中ではトガを着用していても浮くのだ。
 ユバはアフリカの出身らしい黒く縮れた巻き毛、褐色の肌をしている。だが口から出るのは流暢なラテン語、そしてギリシア語。発音も物事の考え方も、植民地出身の田舎者よりもよっぽどローマ人らしい。時々こいつがヌミディア出身であることも、王家の出であることも忘れる。
 ユバは穏やかな口調で話す。滅多に声を荒げたりはしない男だ。
「そういえば、この春には成人式だね」
 もう少し暖かくなれば、俺は成人式をして大人用のトガをまとうようになる。それから見習いとして、マルスの原に軍事訓練に行くのだろう。名門子弟の特有の習慣なんだが、アウグストゥスはそういう研修をすっとばして、俺ら(自慢の甥のマルケルスとか、愛妻の連れ子のティベリウスとか)を早々に、実務の中に放り込む計算をしているらしい。別にヒイキとか言わないから、俺は勘弁して欲しいと思ってるんだけど。
「うん」
「早いものだね」
「っていうか。俺、よく成人式するまで生きてられたよな」
 ――あの頃、俺が十五まで生きてるなんて思えただろうか。俺が言うと、ユバは苦笑はしたが答えなかった。
「何かいいことでもあったのか」
 ユバはすぐに顔に出る。嬉しいことがあると素直に嬉しそうな顔をするし、本人は隠しているつもりらしいが、傷ついた時には心底辛そうな顔をするのだ。そして何か難しいことを考えている時には表情が固まる。そういう時は放っておく。質問して返事があると長くて面倒だからだ。
「あるローマ市民の遺言で、遺産がアウグストゥスに譲られるのだが、その中に多量の書物があって、実物を見に行くのだよ。最近ウァロ先生の体調がすぐれないので、私が代理で行くことになったんだ」
 博物学の御大、ウァロはアウグストゥスの命令で書籍を選び、管理分類し、自らも執筆活動をしている。ウァロが書籍を収集している段階からローマ初の公共図書館に通いつめているユバは、ウァロの弟子みたいなものだった。

 ユバに会ったら言わなきゃならんと思っていたことがあったのを思い出した。
「お前、人んちの名前出して、本屋でツケにすんなよ。ユリウス家の会計係が出所のわからん請求書が来て頭抱えてたぞ」
 アウグストゥスはユバに甘い。言いなりで払ってやるんだろう。
「アウグストゥスの図書館にあるべきだと思ったんだよ」
 ユバは、俺が物の価値がわからんのを諭すかのような口ぶりで言う。
「『ペルシア史』なんだ。ディノンの『ペルシア史』じゃなくて、クマイのヘラクレイデスの方なんだけど。で、この書物に『林檎団』っていう王の護衛隊のことが書いてあるんだけど、本当に槍の石突に金の林檎を刺してるんだって。林檎団てヘロドトスにも記載があって――」
 そんなん知るか。
「額にも限度ってもんがあんだろ。お前それで将来、国を与えられてやってけるのか? 国庫が破綻するぞ」
「失礼な。私は高名な先生について勉強してるのだよ」
 こいつは数学は出来ても経済が出来ないタイプじゃなかろーか。
 だいたいその貴重な書物とやらだって、読みたいというよりは所有していたいからだろと思う時がある。博学というよりもオタクの域で、俺にはさっぱり理解できない。
 書物の今のところの主流はパピルスを数枚つなぎ合わせ、芯になる棒に巻きつけて一巻にしたものだ。図書館や書店ではタイトルを記した皮の小片が軸についている。保存のしやすい羊皮紙の書物も多少出回っているが、これはまだ高価だ。パピルスでも十分貴重だし、それがまとまったコレクションであればひと財産といえる。国が制圧されれば図書館は略奪されるし、犯罪者が財産として没収されることもある。持ち主の死後、競売に出回ることもある。
 ユバみたいな学者バカが目の色を変えるのは、やはりギリシア語の典籍だ。ウァロはそうでもないらしくラテン語の文学に力を入れてるそうだが。でも自国の文化に誇りを持つのはいい傾向だと思う。なんで支配者たるローマ人が、非征服者の言葉ギリシア語の勉強をしなきゃなんないんだ。(と、ローマの子供ならテスト前に、一度は思ったことがあるはずだ)
「お前、喪中の家に行くんだろ? 嬉しそうな顔はするなよ、人さまが死んでるのに」
 ユバには心外だったようだ。
「嬉しくはない。私も会ったことがある人だから」
 そうじゃないだろ。遺産だの遺言だのって場面には、必ず人の死があるってこと、わかってんのかね。
「それに、故人はわざわざ私に『どの本でも良いから、お好きなものを一巻差し上げる』と遺言して下さってるのだそうだ」
「……なんで?」
 宴会で会ったことがある程度の人間に、わざわざ遺言するのかね。ユバ本人も、その貴族との面識は乏しいので不思議がっているのだと言う。
「さあ。だからこれから、その家に行くのだけど」
 ヌミディア王の御子ユバと言えば、ローマで教育された王家や族長の係累の筆頭に上げられるくらい模範的で有名だし、知識人としても知られてる。だが故人から何かを譲り与えられるほどの関係ではなかったという。
 ローマ市民がアウグストゥスに遺産を残すこと自体は珍しくはない。だけどユバに残すというのは、妙な話だ。

 その貴族の名前を聞いて、俺もついて行こうと決めた。ユバは俺を追い払いたいような顔をして「君が来たってきっとつまんないよ」と言う。
「それに先方だって困惑するかも知れない。君はアウグストゥスの甥っ子なんだから」
 あー、それ、結構微妙なんだけどね。人によっては執政官の甥だけど、別の連中にしたら逆賊の息子だし。まあそれ言うとユバも面倒な立場だからお互い様なんで言わないけど。
「俺も少し知ってるウチだから」
 個人の名前を聞いた時に、ピンときた。ユバも俺についてこられるのは嫌なのだが、やはり相手方には興味がある。どういう知り合いなのかと尋ねてきた。
「俺の学校の時の友達の姻戚」
「なんだ。会ったことはないのか」
「その友達の妹がすげー美人でさ。よく皆で見に行ってたんだけど、嫁行っちまったんだよ。その、遺言でユバに書物を譲ってくれるっていう人の長男に」
 ユバは「だったら、若い男が嫁さんの知り合いってのは、迷惑なんじゃないのか?」と言った。顔に「やめてくれ」と書いてある。
「久しぶりに会いたいから会わせろ」
「えー」
 顔が不審そうだ。こいつもお年頃だし、女を知らんわけでも興味がないわけでもないと思うんだが、一人で清廉潔白ぶりやがる。
「あんまり失礼なことしないでくれよ」
 と念を押される。俺はどっちかと言うと、お前の常識の方が怪しいと思うんだけど。

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