アレーナ     1

 マウレタニア国王から贈られた猛獣が、見世物としてマルスの原のスタティリウス円形闘技場に出される。ローマの高官には、ローマ市民に娯楽を提供する義務がある。だから自分には娯楽というよりも公務のようなものだ。
 属国の王はアウグストゥス宛てに、捕獲した珍しい動物を贈ってくる。ライオン、ゾウ、キリン、ヒョウ、トラ、大蛇、サイ、クマ。
 ローマ市民は贅沢だ。各地からやってきたこれらの動物にも見慣れてしまい、「飽きた」という声が聞こえてくる始末だ。
 日除けの布が陰をつくっている闘技場の席で、綺麗に晴れた空を眺めていると、不思議な気がしてくる。
 険しい山岳を黙々と歩き続けたり、高熱を出して動けなくなったり、重たい身体をひきずって、ようやく寝床にありつけた日々が、嘘のようだ。
 今は、アウグストゥスが服装にうるさいのでトガをまとっている。あの人は厚着や重ね着をしても、苦しくは感じないのだからいいけど。自分は面倒なのであまり好きではない。平時のローマ人の服装なのだから、望ましい状態にあると思うことにしておく。
「こんにちは、ドルスス」
「珍しいね。マルケラ」
 貴賓席に大マルケラが現れた。彼女がこうした場所に姿を見せるのは、再婚以来は初めてのことだ。ユルスと二人でアウグストゥスと母に挨拶をしてから、マルケラだけがこちらにやって来た。
「あの人がどうしてもって……」
 と、まだ話している夫を振り返る。ユルスは今回の見世物が、異母妹の嫁ぎ先からの贈り物だったから、マルケラにも見せたかったのだ。そういえばアグリッパ将軍とユリアは来ていない。ユリアが妊娠しているので外出を控え、将軍も今回は見送った、というところか。その辺はきちんと確認してあるだろう。
 ちょっと息苦しい。いや、トガの話ではなく。マルケラとユリアは従姉妹なのだけど、こうも婚姻関係が複雑だと。マルケラはアントニアの姉であり自分にとっても義理の従姉だし、ユリアは義理の姉だ。それぞれの立場の辛さを知っているから、どちらに味方できるというものでもない。
 夫のために着飾ったマルケラは、立派な貴婦人として輝いて見える。もちろん華美すぎず控えめなところも、印象が良かった。ひとつだけ肩に飾った宝石はみごとなものだったが、それすらかすむような母譲りの美貌だった。
 ユルスも自慢たらしい様子で、アウグストゥスの前から辞して、すぐさまマルケラの元に来た。
「どうだ美しいだろう」
 自分の隣にいる兄ティベリウスが、重々しくうなずいた。
「こんな佳人を妻にしている男が、何故浮気をするのか、理解に苦しむ」
「お主は喋るな。俺が浮気ばっかしてるみたい言い方、するなっつーんじゃ」
 二人とも二十五になるのだが、会話の調子が成人前と変わらない。
「さすがに『していない』とは言わぬな」

 小アントニアがむっとしている。兄が奥さんを自慢して浮かれてたって、いいじゃないか。微笑ましいと思う。
 手招きして自分の左隣に座らせる。右隣にいた兄がため息をついて、席をひとつずれた。まあいいか。アントニアとこういう場所にいられる機会の方が少ないのだから、もちろん彼女を優先すべきだ。兄の妻ウィプサニアとは言えば、きちんと兄とは席を離している。家族なのだしせっかくだからいい席に来ればいいと言っても遠慮してしまう。生まれついての貴族とは違うという意識があるのだろうか。
 アントニアも丁寧に髪を編んでいた。可愛らしい。やはり誉めるべきなのだろうか。わざとらしくなりそうな気がする。
「信じられない」
「何が?」
「ユルス兄様の『お知り合い』の女性たちが、マルケラ姉様の前なのに、わざわざ挨拶に来るのよ! 何なの? 失礼しちゃう」
 ……複数なんだ。
「で、でもマルケラは機嫌良さそうだね」
「今はね。皆がチヤホヤしてくれるから。帰ったら怖いわよ」
 マルケラは、姿は母親の若い頃にそっくりなのだが、夫の浮気を見ないふりして堪える、というタイプではない。わめき散らすまではしないが、一言二言刺しておくのだ。ユルスはそれを気に入っている。
「むちゃくちゃ嫉妬してるのに、抑えてるとこがすごい可愛いんだ〜。で、たまにイヤミ言われると『俺って愛されてる』と思うんだよ〜」
 浮気をしなければ、もっと敬意をもって愛してもらえると思う。
 
 見世物の前には剣闘士たちの行進がある。彼らは「生者の門」から、アレーナの砂の上を二輪馬車や戦車で登場してきた。
 そしてこちらとしては一番重要なのが、主催者の名を知らしめる場面だ。尊称のついた、長たらしいアウグストゥスの名前が読み上げられると、ローマ市民たちは歓声をあげる。場内は見世物への期待もはらみ、異様な雰囲気だ。
 何故人々は、見世物に夢中になるのだろう。
 現実を忘れ、非日常に人々は身を委ねようとする。けれどこちらの方が、ローマでは日常的なことになりつつある。この幸せを、当たり前のものとして受け取ることの贅沢さを、彼らは理解しているのだろうか。

 続いては「野獣狩り」と言われる見世物で、早い時間帯に行われる。ラッパの音が響きわたり、猛獣と戦う闘獣士(ベースティアーリウス)が登場した。以後の試合は剣闘士たちの熟練度が増してゆき、最後が一番の花形の登場となる。
 アウグストゥスはこうした催しを重要視しているから、きちんと臨席する。長い「休日」となるのだ。
 やはり男たちの怒号のような歓声。それをかき消すかのような、女たちの甲高い悲鳴。アントニアと顔を見合わせて苦笑する。話そうと思うのだが、お互いに聞き取れない。
 アフリカから来た猛獣は、たてがみも見事なオスのライオンだった。闘技場の上に引き出され、熱狂する人間のかもし出す異常な雰囲気に、猛々しく咆哮している。高貴なライオンには悪いが、公開処刑として武具もない罪人が餌にされる見世物よりは、闘獣士が獣をしとめる見世物の方が、気分的にはいい。

 そういったことと一切関係なしに、何故かユルスが熱心にマルケラの機嫌をとっている。
「せっかくそんな格好してんだから勿体ない、フォルムでも庭園でもいいからどっか寄ってから帰ろう。自慢して歩きたい」
 ユルスは普段はああいう風にナンパしてるんだ、と妙に感心した。マルケラも、夫の浮気相手たちも見ている前で口説かれていることには、まんざらでもなさげだ。――帰宅したら怖いだろうけど。彼女は夫のお知り合いの夫人たちには微笑して返したそうだ。一見笑顔だが、内心ではご立腹なのがわかる。
 自分の両隣の兄とアントニアが、うんざりした表情をしている……。確かにアウグストゥスの近臣がこれでは、示しがつかない。これだから闘技場は風紀が乱れると言われるのだ。
 ユルスも必死だねえ、と言うとアントニアは呆れ気味に言った。
「あのね、さっき叔父様に挨拶した時に……」

 ふと、視界に入った女性を見て眼を疑った。ユリアだ。本日の見世物には、来ない予定だったはずなのに。
 彼女は誰かを探しているようだったが、こちらに気づき、ゆっくりと闘技場の階段をのぼり、マルケラの前に来た。
 ユリアは自分より一つ上の二十二だ。マルケラはそれより二つ上の二十四歳。年も近い従姉妹だった。
 マルケルスと結婚していた頃は、まだまだ人妻には見えなかったけれど、アグリッパ将軍の妻になってからは、多少は落ち着いたように見える。マルケラの清楚さとは対照的に、凛々しく華やかな人妻だった。
 こわばったマルケラの表情に振り返ったユルスが、無意識にマルケラを背に庇うようにして、座ったままユリアに身体を向けた。
「あなたに話があってきたの」

 ユリアはマルケラに近づきながら話しかけた。歩き方が慎重で、その腹にはアグリッパ将軍の子を宿していて出産も間近なことを嫌でも意識させられる。
 ローマ市民の期待と熱気の中、闘獣士たちが闘技場に入場してくる。鮮やかな羽飾りのついた兜、美しい装飾のされた脛当て。見事な筋肉をした男たちだ。今日、彼らのうちの誰かは確実に死ぬだろう。
「私には話すことなどありません」
 マルケラが立ち上がり、ユリアを威嚇するような厳しい口調で答えた。
 そのとがった声でわかってしまった。マルケラはけして、アグリッパ将軍との結婚生活を忘れてはいないし、傷が癒えているわけでもない。
「私は、ここに来なければ、あなたに会うことができないから来たの……」
「ユリア」
 同じく立ち上がったユルスが困惑している。ユリアに、というよりもマルケラに。妻を座らせようと手を伸ばしかける。
「あなたの娘に、会いに来てあげてちょうだい」
「……」
 マルケラが聞いていないかのように、顔を反らした。少し戸惑ったが、ユリアは続けた。
「あなたは私に遠慮したり、ユルスに悪いと思っているのかも知れないけれど、あなたの子であることは変わりないのだし」
 二人の間では、いつもなら陽気に誤魔化してしまうユルスも黙ったままだ。
 義父も義理の伯母も端整な顔立ちをしていて、美しい家系だと思う。二人も従姉妹同士とあって美貌だけれど、顔立ちは似ているようでいて、印象は全く違う。そしてもちろん小アントニアも、彼女たちとは全くタイプが異なる。
 ただ普段であればマルケラは物静かで穏やか、ユリアは毅然として物怖じしない物言いをする、というイメージが、今日は逆転してしまっている。
「私はあなたのように、自分の子と先妻の子を同じように愛してあげられているかはわからない。でも実母が亡くなったわけでもないのよ。母親に会えない子供の気持ちを考えてあげて」
 ユリアには既に二子がいて、自分が先妻の子をないがしろにしていないか、気にして頼みに来たのだ。子供から「母親に会いたい」と言いにくいのならば、大人が行動してやらなければならない。
 自分の時は、わりと母に会いに行っていたと思う。記憶にはなくても、義父も自分たちを気にしてくれていたのか、乳児の頃の話もしてくれるし、兄もパラティウムに呼ばれていたと言う。
 ふとそんなことを考えていると、マルケラの声に再び驚かされた。
「勝手なことを言わないで!」

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「翼ある言葉」を書いていて、途中で話の中心が変わってしまったので切りました。  話の流れ的には続きものです。  ドルススとアントニアを軸にして、ユルスとかアウグストゥスのことを書いていたつもりが、ここから軸が変わってしまったのです。
 題名。剣闘士の試合とか出すなら、「ローマの休日」がいいなと思ってたのですが、そんな陽気な話でもないので、変更……。
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