最終話 マウリタニア王国

 二年後、マルケルスはユリアと結婚した。だが結婚生活は二年で終わる。マルケルスが病死したためである。未亡人となったユリアは父親と同い年のアグリッパ将軍と、彼の亡き後はティベリウスとの結婚を命じられた。二人とも妻を離縁しての結婚だった。ティベリウスはアグリッパ将軍の愛娘を妻にしており、二人目の子が腹にいたという。
 そしてユルス・アントニウスは、ティベリウスの妻だった時のユリアの、愛人の一人になった。それが発覚してアウグストゥスの激怒を買うと、ユルスは自殺を選んだ。残念ながらユルスがユリアとの愛に殉じた、とは思わない。
 ユルスは明朗で人に好かれたから、人間嫌いで陰気なティベリウスよりも、アウグストゥスに信頼されていたという人もいる。兄アンテュルスは謀叛を恐れて殺されたが、ユルスは執政官まで任された。ユルスがアウグストゥスに深く感謝していたのは確かである。
 そのアウグストゥスに逆らおうとも、決して他人に心を許すことのなかったティベリウスとの生活に絶望していたユリアを、陰ながら支えたかったのかと考えるのはうがちすぎだろうか。謀叛を計画していたともいわれる。
 ユリアは娘の醜聞に怒った父により、孤島に追放された。ユルスを含めた異性との放蕩の数々は語り種になっている。
 ユリウス家を継いだ、そしてそれはカエサルに連なるあかしとなった、ティベリウスの悪評も、私には記すにしのびない。
 晩年のティベリウスの精神は病んでいたとも言われる。カプリ島に隠遁すると、残虐と倒錯を尽くしたというが、長くローマを離れた私には、真偽のほどはわからない。噂の全てを事実とは思いたくはないが、彼を取り巻くものが変わった以上、もはや私の知る彼ではないかも知れない。私の記憶の中ではティベリウスはいつも何かに不満そうな顔をしている。だが誰も知るまい。ティベリス河の橋の上、月の光の下、ローマの平和を誓った少年の姿を。
 太陽神アポロにもたとえられたアウグストゥスの持つ光の裏に、御子たちそれぞれが隠し抱いていた闇がある。私にはあの方たちが、アウグストゥスの犠牲者であるような気がしてならない。彼らの運命も、アウグストゥスゆえの、ゆがみから生じたもののように思う。
 ユバ王子は遠く隔たったアフリカの地でこれらの報を聞くたびに、目を閉じて深く嘆息したものだった。

  私がローマでこの事件に遭遇した二年後(紀元前25年)、ヌミディア王の遺子は、ユバ二世としてマウリタニアの王位に即いた。二十五歳の国王と十五歳の王妃は、北アフリカの大地を踏んだ。
 アウグストゥスによって国を任せられた王たちは皆、カエサリアというカエサル(アウグストゥス)の名を戴いた都市を造った。ユバ王もはりきって自分のカエサリア(現アルジェリアのシェルシェル)に芸術の女神の神殿や図書館を建てた。円形劇場、広場、水道橋、公共浴場など、ローマやギリシアの文化を取り入れた壮麗な都市である。エジプトの女神イシス神殿まであり、中には剥製のワニが置かれた。また、国の貨幣に明らかにエジプトを起源とする朱鷺やワニ、女神イシスやハトホルの象徴を刻ませている。
「別に愛妻家だという証拠にはならんさ。ユバの趣味だろ」
 などとユルスは言ったそうだが。
 マウリタニアの王は芸術保護政策を行い、文化活動を奨励し、産業に力をいれた。有名なのがアトラス山から切り出した木材から造った工芸品や、モドガル島に建設した古代紫の染料工場の製品である。だが、その優れた統治よりも、学者王としての名の方が広く知られていた。
 ユバ王は芸術や学問を愛し、研究や執筆に明け暮れた。粋で風流な王だった。即位の後もしばしばお忍びでローマにやって来ては、アウグストゥスや義理の兄妹たちに表敬訪問に伺った。
 ちなみに、ユバ王とクレオパトラ・セレネ王妃との間には、一男一女がお生まれになった。マウリタニアの二代目の国王は、プトレマイオス王という。名の由来は言うまでもない。王女の方はドルシラと名付けられた。クレオパトラではなかったのである。

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読んでいただいてありがとうございました。
最後にこうやって締めましたが、クレオパトラという娘がいたかも知れません……。
私はユバ王が愛妻家で、クレオパトラ・セレネが幸せだったらいいなあと思います。
Plaudite, acta est fabula.

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