エレクトラ

  王女は義理の母に、泣くか怒るかされるだろうと思っていた。まずどう謝罪するべきかと悩んでいた王女は愕然とした。自室で待っていたオクタウィアは一晩で急激に年老けたように見えたそうである。
「今回のことは、あなたの身勝手から起きたことです。年頃の娘が供も連れずに家を出るなど。あなたに何かあったら、わたくしはアントニウス様とクレオパトラ女王に、なんとお詫びすればよいのです? 婚約者であるユバ王子に対して責任のある身を自覚なさい」
 オクタウィアは力なく、疲れきった表情をしていた。
「わたくしを母と思えと強要する気も、何故わたくしの気持ちがわからない、と責める気もありません。いたらないわたくしの責任です。ですがわたくしはあなたを実の娘と思ってきました」
 不実な夫、アントニウスの子らを育てた、誰もが美徳として讃えたローマの貴婦人。美しく、聡明なオクタウィアは、王女にとっては生母よりも母らしかった。
「少なくとも、決めた結婚が嫌だという娘に、そうかと言って別の婚約者を与えるほど、いい加減な母親ではないつもりです。どうしてもわたくしに従えないと言うのなら、出てお行きなさい。わたくしは自分が貞女であると思ったことはないし、人にそしられることなど何とも思いません」
 そして、無念そうに呟いた。
「情けないことです。娘にこんなことを言わねばならないなんて」
 王女はオクタウィアの足元にひざまずいた。
「私はユバ様と結婚いたします。だからどうか……おかあさま、安心なさって下さい」
 ラテン語ではじめて「おかあさま」と言ったとき、王女はやっと居場所を見つけたような気がしたのだそうだ。

「ギリシア語のメーテールと、ラテン語のマテール。そういうことにしました」
 実母に対する思いもあり、なかなか口に出来なかった言葉だったが、母親の言葉ギリシア語と、父親の言語であるラテン語とに区別して、やっと割り切れたのだそうである。
「私の母はばかでどうしょうもない女だったけれど、私くらいは母親だと思ってあげないと」
 女王クレオパトラは、自分の全てをかけて国を守ったファラオだった。内に弟や妹、家臣たちとの対立という問題をかかえ、周辺諸国との駆け引きに明け暮れ、急激なローマ世界の変化という激流に呑み込まれようとする最後の瞬間まで、戦い抜いた女性だった。女の手練手管と批難されることがあっても、彼女の智慧や話術、機転が国を支えたのは事実であり、それは全身全霊を傾けた外交手段であったのだ。いつの世でも外交とは、理念の善し悪しで結果が出るのではなく、生身の人間の駆け引きで成立する。男のファラオではたちまちのうちにプトレマイオス王朝は泡沫と消えていたであろう。
「ばかとは違うと思うが」
 純粋に女王の教養には敬意を抱いている王子が言うと、王女は首を振る。
「母はローマを知らなかったの。王の如き男はいても、王はいない。王の如き者が死んでも、ローマが滅ぶことはない。エジプトもそう。王がいなくなっても、エジプトの民は何も変わらずに生活しているわ。あの人は、一体何を守っていたのかしら」
「我が子を守ろうとしたのではないのか?」
 王女の部屋で手足を洗い、傷の手当てを受けた王子は、侍女が引き下がってもそのまま王女が戻るのを待っていた。侍女も葡萄酒などを持ってきてはあれこれと気づかう。私が何か言いたげにしているのに気づくと、ユバ王子は困った顔をした。何故こんなことになっているのか、本人にも説明できなかったのだ。
「まさか。そうだとしても、母が大事だったのはカエサリオンだけで、彼だけはインドに逃がそうとしたけれど、私たちは放りっぱなしにされていたのよ」
 王女は拳を握り固めた。
「私は母を勝手で、子供を残して自分だけ屈辱を免れるなんて、とずっと思ってきました。負けが決まると『死を共にする仲間の会』なんて作って、毎日死ぬことばかり考えていて。私も兄たちも不安で。死ぬのも、残されるのも怖くて。毎日、いつ殺されるか、いつ両親がいなくなるのか、怯えてました。皮肉なもの。私の名が『父の誉れ(クレオパトラ)』なんて。私の覚えている父は、弱気で見栄張りで、私たちのことなんて少しも構ってくれない……」
 エジプトではあれだけの大家族だったのに、彼女を残し家族は自殺し、処刑され、病死した。ローマの家族など、他人で、どうせすぐに別れるに決まっていた。だから王女は家族など信じなかった。
「ローマに連れて来られて、もういつ死んだっていい。そう思っていました……ずっと自分だけ生き残って申し訳ない、死にたいと思ってきたけど……あの時、カエサリオンには従えなかった。どんなに辛い思いをしたって生きたいと思って……そう思ったら死ぬのが怖くて……怖くて……」
 王女は泣き声になった。思い返してようやくカエサリオンが、王女と共に死ににきたという恐怖を実感したのだ。王女本人も望んでいたことかも知れない。蛮族の王に嫁ぐよりは、誇り高く死ぬほうがふさわしいと。
 だが、いざ死に誘われた時、王女は生きることを望んだのだ。
「……それにあの時死ぬことを考えたら、ユルスや妹たち、オクタウィア様のことが思い出されて。あの人たちは悲しむのだろうなって思ったら、死にたくないって思って……。死ぬことが怖いって、こういうことなのかしら……」
 その中にユバ王子が入っていないのは仕方ない。だが下手に王子が口を挟んでいれば、王女は妙な意地を張ったのではないか。たとえ王子が彼女を、自分と共に生きてくれと言葉で諭しても、白々しい限りであるのだから。
 王子は女王クレオパトラの、母親としての姿を知っていた。だから女王に免じてカエサリオンを見逃したのだ。
「『恐ろしい、恐ろしい目にあっては、そうするほかはなかったの。私の気持ちの激しすぎることは、自分でもわかっているわ……』」
 王女は目を閉じ、ずっと胸中で繰り返してきたであろう『エレクトラ』の台詞を呟いた。
「『私がいつまでも父のことを嘆いてばかりいて、あんまり苛立ちすぎるように、あなた方の眼に映ったら、恥ずかしいと思います。でもこうせずにいられない差し迫った今の事情、許してくださいね……』」
 王女の声がとぎれ、座った膝に置いた拳が震えた。王子の前では泣きたくはなかったに違いない。顔をそらしてこらえたが、嗚咽がもれた。
 これまで私は王子にかなり失望していた。二十三にもなって、人を慰撫することもできないのだ。一生口に出して発音することのないかも知れない、こ難しい単語よりも、素直ないたわりの言葉をおぼえるべきだったのではないか。語学力と雑学があるので人は博識と讃えるが、実践では十の子供にも劣る。
 だが王子は今度は少しだけ努力をした。王女の隣に座ると、ぎこちなく胸に抱きしめた。私の位置からは、小さな王女の身体が見えなくなった。
 驚いて泣くことを忘れている王女は、身じろぎ一つしない。王女の侍女が非難めいた悲鳴をあげかけたので、私はそれをなだめた。大人のくせに小娘を口論で泣かせたり、泣いてるのをつっ立って傍観してたのに比べたら、気のきいた言葉までは頭がまわらないにしても、随分ましになったと褒めてやりたいくらいだ。
「ステファノス!」
 だがそれもわずかな間のことで、王子は私の名を呼んだ。意外なことに、真っ赤になっている。
「か、帰る!」
 王子は立ち上がると、妙にぎくしゃくとした動きでトガを拾って、帰宅する準備を始めた。王女がトガの端をつかんで尋ねた。
「泊まっていかれないのですか?」
 王子の顔がひきつった。ギリシア語でも母国語のように話し、どんな歌でも正確な音階で歌える王子の、あんな無茶苦茶な発音を聞くのは初めてのことだった。
「え!? エエッ!? い、イヤ……それは……」
「あ、あの。そうじゃなくて」
 王子がうろたえ、王女も自分の言った言葉のもう一つの意味に気づいてうつむき、私はトガを着る手伝いをしていいのかどうか迷った。
「も、もう朝になりますから、部屋を用意させておりますし、ユルスやマルケルスも御酒を一緒にと、待っているようですから」
「いやそのもう、これで……」
 王子はこれはいけないと思ったのか、いい加減なままトガをひっかけて部屋を飛び出した。
「あの。また来るから……」
 かと思うと、わざわざ部屋に戻って声をかけた。これで、気をつかったつもりである。あの時、王女が血のつながった家族を選ぶというのなら、王子にはとめる気はなかったという。自分には家族に代わる存在にはなれないから。ゆくゆくは法的に家族になるというのに。
 アウグストゥスとリウィアの結婚には愛情があったかも知れないが、大抵の人は夫婦愛など幻想だと思っている。婚約した時からユバ王子とクレオパトラ王女もそう割り切っていた。
「私としたことが……」
 憐憫なり好意なりを感じたのなら素直に認めればいいのに、往生際が悪い。
 王子はあの瞬間まで十三の少女を異性として見たことがなかったのだ。十二、三歳で夫が親より年上という少女もいるから珍しいことではないが、物足りなさを感じるのが一般的な成人男性である。(そしてそれを言い訳に男は人妻や遊女との浮気を正当化する)理性はあると自己評価していたから、少女相手に動揺していることに、少なからず自信を喪失していた。
「ステファノス。何か言いたいだろうが、今は何も言わないでくれ。頼む……なんだか、頭がクラクラする。気分が悪い……」
 全くこんなのと結婚しなければならない王女が哀れだ。
「お、間男のお帰りだ」
 部屋を出て階下に降りると、食堂で祝杯をあげていたユルスたちに行きあたった。
「な、な、なんてことを言うんだ!」
「ふーん。だったらなに、その恰好。あやしー」
 マルケルスがユバ王子の手当てを受けたために乱れている服装を見て笑った。わかっていて適当なことを言ったのだろうが、王女の侍女から広まって、驚くことになるだろう。
「でも女の子をぞんざいに扱っておいて、大きくなってから相手にしてもらえなくても、文句言えないんだからね」
「手を出したら出したで許さんけどな。ま、貞女オクタウィア様と同じ屋根の下で、しかもユバが嫁入り前の娘に悪さなんかできるとも思わんが」
 王子は相当、信用されているらしい。
「なあユバ」
 酒の入ったユルス・アントニウスが泥酔した目つきで、王子に言った。
「俺は妹を不幸にする奴は許さんぞ」
 そして状況によっては身内さえ殺せる男なのだ。マルケルスは、アンテュルスの最期を知ってか知らずか微笑している。
「……はい。善処します」
 神妙に王子は言った。
「ま、お前も良かったじゃないか」
 ユルスは婚約の決まったマルケルスに向かって乾杯した。
「アウグストゥスの娘を任せるにたる男と見込まれたってことなんだから。めでたしめでたしだ」
「……そうかなあ」
 マルケルスは幸せそうに笑った。

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よく頑張った、ユバ。
よく頑張った私。(恋愛小説っぽい表現が苦手なもので)
ちょっとくどい気もしますが、ここまでたどり着いたぞ、という感じです。
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