決意

「……いや……!」
 決断を、王女は下した。
「私は……。死ぬのはいや……。嫌です。私は……死にたくない……」
 ユバ王子は王女を見て、そうか、と小声で呟いた。まるでその言葉を待っていたかのように、ようやくユバ王子は進み出た。
「そういうことだ。死ぬのならお前ひとりで死ぬがいい」
 カエサリオンに向かって言いはなった口調は穏やかだった。王子がカエサリオンからかばうように立つと、王女が顔をあげた。涙でほつれた髪が頬にはりついている。
「この娘を連れていかせるわけにはゆかぬ」
 その嘗てない力強い言葉に、王女は涙を払った。立ち上がり、手をのばし、ユバ王子の肘に触れた。
「黙れバルバロイ!」
 誉れ高きエジプトの王に愚弄されても、この時の王子はたじろがなかった。そしてそれ以後も、この言葉に屈することはなかった。
 王女が言ったのである。
「……わたくしの夫となる方です」
 震えながら王女は言った。
「兄上といえど、侮辱はゆるしませぬ!」
「……ローマが長すぎたか」
 カエサリオンの剣先が閃き、襲いかかる。王女をかばおうとした王子は、一瞬の差で短剣で受け止めるのがやっとだった。その短剣も、両手で力まかせに剣を押しやったために放り投げだされた。
 次の一撃は、やむを得ず背を向けて王女を守らざるをえなくなった。
「逃げなさい!」
 ユバ王子は言ったが、セレネ王女は婚約者を押しのけ、前に出ようとした。だが王子はそれを許さず、王女を守るような立ち方をしたまま、背中を刺された。急所はそれたが、血がトゥニカを染めてゆく。
「ユバ様!」
 王女が蒼白になる。王子は身体を盾のようにして立ったままである。
「セレネ!  来るのだ!」
 カエサリオンはなおも叫びながら、王女を奪い取ろうと続けて攻撃に出た。
 王子は側にあった椅子を掴んで楯として受け、剣難をまぬがれた。刺さった剣は椅子ごとうまく部屋の隅に放り投げられた。
 王子は婚約者をかばい、叫んだ。
「逃げなさい!  私はそなたを死なせるわけにはいかない。王位が欲しいのなら私が与える。アレクサンドレイアをもう一度見たいのなら、必ず連れてゆく。だから、今は逃げなさい!」
「嫌です。ユバ様をおいては参れませぬ。私のためにあなたが殺されるなんて、おかしいではありませんか!」
 王女が怒ったように答える。場違いにも王子は苦笑した。
「クレオパトラ。そなたは生きなければならないのだよ。やっと、自分でそう決めたではないか。そなたは私を殺してでも、ここから生きて出るのだよ」
 カエサリオンの目つきが変わり、怒りをはらんだものになった。
「……お前は死ぬしかない。それがお前のためなのだ」
 並び立つ二人の姿に、カエサリオンが呟いた。
「婚約したと聞いて、お前を救いに来た。もとよりローマ人など信用してはおらぬ。王家の再興も夢物語とわかっている。だが、オクタウィアヌスに買い殺され、ユバなる蛮族の出の男に辱めを受けるほどなら、お前を殺し共に死ぬしかないと、思って来たのだ」
 カエサリオンの言葉に、王女は唇を噛みしめた。
「ずっと、私だけがこうして生きていることを、申し訳なく思ってきました……」
 王女は拳を握り、力なく兄を見た。兄にかける言葉を選んだすえに、言った。
「でも……ごめんなさい……私は生きたいのです。……許してください……」
 傷を負い、武器を持たぬ王子は背後に婚約者を隠したまま、じりじりと壁際に後退した。カエサリオンも二人に視線を固定したまま、近くにあった机上に手をのばした。気づいた王子が呟く。
「その弓は……」
 カエサリオンが弓に矢をつがえ、壁際に追いやられながらも王女をかばう王子に狙い定めた。
 カエサリオンに、矢が妹に当たる危険性を考える余裕はなかった。いっそ二人もろともに、殺してしまうつもりであったのか。
「朕はお前を愛しているのだよ、クレオパトラ。お前だけが心残りなのだ。これはお前のため、お前の名誉のためだ。お前のような恥さらしな女は、生きていてはならない……お前を我が王朝の汚点とするわけにはゆかぬ……」
「聞くなクレオパトラ!」
 王子がその言葉を遮るように言った。
「そなたの命は、そなただけのものだ。兄に罪悪の意識など感じる必要はない!  こんな者に引きずられるな!」
「黙れ、黙れ、黙れ……!」
 引き絞られた弦から、矢が放たれた。
 隠れていた私はそこでようやく動いた。それまで持ち歩いていた王子のトガを掴んで広げ、カエサリオンめがけて投げつけた。なんとかカエサリオンの視界をさえぎることができ、矢は、布にからめとられた。
「カエサリオン。一緒に生きてくれと言われたのなら、あなたに従いました。どんな理由にせよ私を必要としてくれたのなら、あなたについて行きました。でも、死ぬのだけは嫌です」
 トガをふり払ったカエサリオンに、王女は一歩近寄って語りかけた。
「それも誰かの命令で死ぬのは、嫌です。兄や親でも、従うことは出来ません。それが神の意志であっても、逆らうつもりです」
 ユバ王子は深呼吸すると一言、王女を促すように言った。
「ティベリウスが来る」
 耳をすますと遠くからティベリウスの声が聞こえてきた。
「ユバ! クレオパトラ! いずこにある!?」
 二人の眼があった一瞬の後、王女は叫んでいた。
「カエサリオン、逃げて……!」
 それを合図として、カエサリオンは身を翻した。部屋を出た二階の奥には柱廊があり、それが別棟に続いている。
 背を向けていた王子は、それを見なかった。

 カエサリオンと入れ違いに、沸騰状態のティベリウスが飛び込んできた。
「ったく、何てことをしてくれるのだ、このたわけものが!」
 血の匂いがする。若く美しく健康な身体に血塗られた剣。武器を持つ姿も様にならぬ十五の少年には、不釣り合いな光景だった。
 頬に返り血を浴びたティベリウスは、容赦なくユバ王子を罵り倒す。
「そもそも貴様の如き腰抜けは、小咄をするしか芸がないではないか!  グノーティ・サウトン(身の程を知れ)!」
 両手で顔を覆ったまま、王女はうずくまっていた。残念ながら王子には、傷心の女性をやさしく慰める芸当はない。肩を壁に押し付け、つっ立っていた。
「自称カエサリオンはやっつけたの?」
 ユリアが尋ねた。王子は正直に答える。
「逃げられた」
 即座にまぬけ、と言い返されたが、王女が慌てて言った。
「ユバ様が私をかばって下さったの。背中に傷を負ってしまわれたのよ」
 必死で王女が言わなかったら、ユリアにさんざん貶されたことであろう。
「戦闘中に敵に背中を向けるな臆病者! 黙って刺されるなど、いったいサル以下か!  獲物などなくても戦えるはずだろう、何のために貴様の頭はついている! だいたい勝手な行動をしてくれたせいで、こちらの計画が台無しではないか。わかっているのか?」
 ティベリウスはさらに何か言いたげだったが、クレオパトラ王女が涙目で睨みつけたので、黙ってしまった。
 倒れたり負傷しているカエサリオンの手下たちを調べると、エジプトからの部下はわずかで、ほとんどが金銭で雇われた程度の、素性の知れない男たちに過ぎないということがわかった。ティベリウスの機嫌は甚だしくよろしくない。主だった部下は安全な場所に隠れているか、とうに逃げたに違いない。それにカエサリオンと呼応していたローマ人をつきとめるためには、クラウディアを尋問するしかないが、ユルスが黙っていないだろう。
 私は王子は背中の刺傷について尋ねた。
「大丈夫だ。私が作った薬があるから」
 王子は携帯していた自信作を取り出した。
「そんな得体の知れないもの、使わないで下さいまし!」
 クレオパトラ王女が本気で止めた。王子はどう受け取ったものかじっと考えている。
 全てを終えたユルスがこちらに合流してきた。ティベリウスはユルスの首尾を確認することなく、無言で王子たちを示した。
「クレオパトラも不憫な娘だな」
「珍しいことを言う。お主に人の情があるとは思えぬが」
 ティベリウスに哀れまれるほど不幸な姫君は、思い出して部屋の隅を探した。私が鉄の指輪を拾って差し出すと、小さな声で礼を言い、両手で受け取った。
 王女は最後にカエサル庭園を振り返った。屋敷の裏門を出て下る小道は、ティベリス河を下る、小舟の乗り場に続いている。神君カエサルの暗殺された時、クレオパトラ女王は、そうしてローマから脱出したのだと、王子は言った。

TOP      LIST      NEXT
  
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送