女王

「我が母を覚えているか」
 カエサリオンの言葉にクレオパトラ王女が王子を見上げた。
「……だいぶ後になってからだ。気づいたのは。あの時の婦人が、女王だったのだと……」
 王子は自分の婚約者を力ない表情で見つめ返した。
 ユバ王子の記憶では、神君カエサルに連れて行かれた別荘には、赤子を連れた女性が滞在していた。凱旋式のすぐ後、王子の四歳の頃で、カエサルの暗殺される二年ほど前の日々のことだった。
「当時、私はラテン語もギリシア語もほとんど理解できなかった。ローマにヌミディアの言葉を話せる婦人がどれだけいただろう? 何語で聞いたのか覚えがないが、私が理解できたのだ、ヌミディアの言葉だったのだろう」
 幼い王子に話しかけたギリシア人の女性。その事に気づいた時、ユバ王子は、多くの言語に長じ、異民族との会談でも大抵は通訳を必要としなかったという女王クレオパトラ・フィロパトルだと知ったのである。
「『お前の母はどうした』と尋ねられた。私は答えなかった。『母が恋しいか』と尋ねられた。恋しいとは思わなかったし、思ったところで仕方がない。だから黙っていた」
 ユバ王子は椅子に座ったままの王女に語りかけていた。
「泣いてくれたのだよ。そなたの母上は。『こんなに愛しいものと別れなければならないお前の母は、どんなに辛かったことか』と」
 いつ王子が女性の正体に気づいたのかは知らないが、王女と婚約してからも言う機会はあった。だが王子は黙ってきた。誰も王子の記憶の女性を女王だと、認めてくれなかったからだ。
「服装や化粧もローマの婦人よりもずっと質素で、声が美しく聡明そうな顔だちをしていた。ガイウス・ユリウス・カエサルの愛人だろうということはわかっていた。人は言う。魔法を使うエジプト女。それと、私の見た女性はかけはなれていた。あれが本当に女王であるのか今でも自信がないが。優しい表情をする女性だった」
 カエサリオンには王子の描写は気に入らなかったようである。愛人と過ごしていた頃のただの女としてのクレオパトラよりも、プトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラの神々しい姿を誇りとしていたのだ。
「確かに兄プトレマイオスです」
 ユバ王子を見上げて、クレオパトラ王女は言った。
「アレクサンドレイアの都市も、宮殿の部屋も教師も奴隷も、父や母、兄弟たちのことも、兄本人しか知らないことを知っています。間違いなく我が兄、プトレマイオス王朝最後のファラオです」
 生じた沈黙は、王子は王女の次の言葉を待ち、王女は王子が何か言うのを待っていたことを表していた。もしかしたら二人とも単純に困惑していただけなのかも知れないが。
 エジプトでは珍しくないことなのかは知らないが、かの地のファラオは、異父妹に求愛していた。立場的には王子とは対立するものである。本当に彼女との結婚を望むなら、ここで意思を明らかにする必要性も生じる。
「……どうする?」
 ようやくユバ王子は尋ねた。
「そなたはエジプトの女王になるのか?」
 クレオパトラ王女は顔を背けた。待った結果がこの言葉だとは。私は王女を不憫に思った。 「クレオパトラはわたさないわよ!」
 そう言ったのは残念ながらユリアである。飛び出して二人の間に立ち、振り向きざま「これくらいはおっしゃい!」と王子を叱責する。
「ユバ。あんた、最っ低だわ!」
「退け小娘!」
 カエサリオンがユリアに言い放つ。とっさに返答をためらった王女の胸中での迷いを、自分に有利な手応えとして感じ取ったに違いない。この婚約者たちがお互いになんの執着もないのは明らかであるのだから。
「無礼者!  私はユリア。ユリウス家の娘。正統なるガイウス・ユリウス・カエサルの後継者、オクタウィアヌスの娘。恐れを知りなさい!」
 王女を守ろうとでも言うのか、ユリアはカエサリオンとの間に進み出た。
「お前ごときが神君カエサルの息子づらしたところで、このローマでお前を認める者はいないわ!」
 それは誰もが知っていた。万が一カエサリオンが生きていたとしても、それがなんだというのだ。神君カエサルはカエサリオンには何も残してはいない。遺言で後継に指名したのは、アントニウスでもカエサリオンでもなく、オクタウィアヌスという名の、十八歳の青年であった。カエサリオンは実子として認知されていないのだ。
「それがあるのだよ。反アウグストゥス、元老院派、閥族派(オプティマテス)はいる。全ての理が旧に復せば、朕は王となるだろう。無論、条件はつくが。朕はローマ市民からエジプトの地を王として統治を任される身となるのだ」
 私はここまで語るカエサリオンに、危険なものを感じた。ここまで内情をさらした以上、ユリアは取引なり脅迫なりの材料に使われる可能性も考えられる。そしてそれに続く最悪の結果も。
「朕は神君カエサルとファラオの血を継ぐ者。ローマとエジプトと、世界をも統べる者だ」
 対するユリウス家の末裔ユリアはせせら笑う。
「せいぜいがユダヤのヘロデのような、名前だけが立派な徴税吏ってところよ。税金を納めろと命じられる王様ってやつでしょ」
「無論だ。朕はローマ市民の子でもあるのだ。兄弟に領地の恵みを分かつ温情はある」
 嘗てクレオパトラ七世が一番最後に譲歩してアウグストゥスに嘆願した形、ローマの容認のもとにエジプトを統治するという妥協案である。あわよくば再興も、との目論見もあったに違いない。だがアウグストゥスは女王の最後の希望を拒否した。現在、アウグストゥスがファラオとしてエジプトを直接統治としている以上、かの地の玉座につきたければ彼に退いてもらうしかない。
「お父様に対する反乱分子なんてそこらにいるわ。それがいくら束になってかかってきたって、どんな大義名分を掲げてきたって、今更驚かないわよ。謀叛者はどんな恩義があってお前を助けるの? お父様を失脚させるのに成功しようが失敗しようが、お前は全部の罪をきせられて始末されるだけのことよ」
 そこまで言ってのける、末恐ろしき十二歳の少女だった。
「ローマ市民を軽んじないことね。熱狂的で無邪気で愚かだけれど、手のひらを返す時は一瞬よ。栄華を極めた者の名誉も、その子の代には朽ちた花のように見捨てられる。王だの貴族の家名なんてものは、もう時代遅れなのよ。それすらわからないの?」
 ふいに、別荘全体が一瞬静まった。だがそれは錯覚だったようだ。配下を引き連れたティベリウスが突入を開始したのだ。カエサリオンの手下たちとの戦闘に入った物音が聞こえてきた。 助かった、と思った。
「遅い! ティベリウスのグズ! ったく何ちんたらやってるのよ!!」
 それはユリアが強行したからではないか。
「ユバ、あんたじゃ到底役にたたないから、ティベリウスを連れてくるわ!!」
 言うなり、ユリアは階段に飛び出して行った。

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女王クレオパトラなら、アフリカの言葉も話せたと思います。
子供がいたら話しかけたりしないかな。
何故ユリアがこんなに偉そうなのかは、言わないお約束。
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