王子はしばし、闇の中にそびえる館を見つめた。館に隣接するティベリス河畔のカエサル庭園は、糸杉や月桂樹の並木やオリーブの植え込みなどがある市民の憩いの場である。
「ここは嘗て、神君カエサルの持ち物だった別荘では……」
夜目をこらして、私は尋ねた。ティベリウスは首肯する。既にティベリウスの配下の者たちが待機していた。
「屋敷は閉鎖されていたはずだがここ半月ほど、人の出入りがあるようだ」
「悪党のくせにこんな所をアジトにするなんて、贅沢だこと!!」
ユリアが呆れ気味に言う。まったくだ。規模や庭つきの部分は考慮しないとしても、造りの豪華さでアウグストゥス邸は随分と見劣りがする。ユリアは王子の腕を掴んで、さっそく手入れも粗雑になりがちな敷地内に入って行こうとした。
「待て!
万全を期したい。まだ指示や配置を完了していないのだ」
くれぐれも早まるべからずと念を押すと、ティベリウスは指示を出しに人々の中に入って行った。
「ふーんだ。後からおいで! こんなことをしている間にクレオパトラがどんな目にあっているかわからないじゃないのよ!」
ユリアはわかったと言ったその口も閉じぬうちに踵を返していた。屋敷への強行突破を唱える。だが王子の歯切れは悪い。
「待ちなさい。物事には準備や順序が」
「もしもここにいるのがプトレマイオスじゃなかったら?
追いつめられた偽プトレマイオスは、クレオパトラを殺すかも知れないのよ?」
ユリアは王子を怒鳴りつける。
「あんたってば、ホントにその程度の男なの。婚約者の命が危ないって時でもまず机上論なの!?」
だが一介の男がペルセウスやヘラクレスのように勇敢に、とはなかなかいかぬのも事実ではある。
「もういい、この腰抜け!
あたし一人で行くわよ!」
王子の表情はいつになく強張り、何かに怯えているように見えた。
「叫ぶと目立つ。ティベリウスにも迷惑がかかる。それにアウグストゥスの娘なのだから」
「あんたなんかと結婚しなきゃいけないクレオパトラが可哀相だわ! いちいち親のこと持ち出されたら、うっとおしいものね!」
ユリアは、私を振り返りざまに睨みつけた。
「お前、供をなさい!」
たった今、一人で行くと言ったはずである。未成年は人頭に数えないのか。しかしユリアも女子供なのでは?などと頭の中で考えた。
クレオパトラ王女の命もかかっている。ローマ第一人者の娘の命令でもある。だが、私の人生で最大の難題だった。せめてこれがティベリウスなり、ユルスなりの指示であれば。王子の命令であればなおさら、喜んで従うだろう。私も王子の不甲斐なさには呆れていたのだ。だがユリアの命令に従って敵陣に突っ込むのは勘弁して欲しい。
引きずられる私の後を王子が渋い顔でついてくる。これでは婚約者が心配なのか、アウグストゥスの娘が心配なのか、わかったものではない。
ユバ王子は嘆息してから言った。
「こっちだ。庭園の方から屋敷の中に入れる」
私たちは屋敷の前に集まった人々を避けるようにしていったんその場を離れ、庭園を横切って裏手にある門から屋敷に近づいた。犯人と、ティベリウスたちにも気づかれるわけにはいかないので、灯は持っていない。植え込みに邪魔されつつ、始終不便と不快をぼやくユリアと共に苦労して進入した。
「ユバってこの屋敷に入ったことでもあるの?」
ユリアは見知ったように歩く王子に尋ねたが、答えなかった。裏から屋敷の中を伺ってみたが、人けがなかった。
「どっち?」
王子は鋭い視線を向け、すっとある方向を指さした。
カエサルの別荘は大きな建物なだけに使用人の出入りや物資の搬入のために、いくつか出入りできる場所があった。王子の手引きで、私たちはこんなところに、と思うような裏口から屋敷に潜入し、慎重に中を探索しながら進んだ。内部の造りは一般的で、大きな中庭を中心に小部屋や食堂が配置されている。王子の判断で階段へ向かおうとした時、見張りらしき灯が近づいてきたので、小部屋に隠れてやり過ごした。やはり何者かがいる。人の住んでいないはずの邸内には、明らかに人の気配があった。
「なんでここに階段があるってわかるの? 第一、なんで二階なの?」
突然、王子は落ちつかなく質問や愚痴を繰り返していたユリアの口を押さえつけた。耳をすますとかすかに人の話し声が聞こえた。二階の一番手前の部屋はかすかに明るい。灯が外に漏れないように工夫されているようだ。
「ユバ、苦しい。手を放してよ」
「静かに」
王子が厳しく命じる。話し手は、まさに私たちが捜している女性の名を呼んだ。
「……クレオパトラ」
故人の寝室とおぼしき立派な調度品のある広い部屋だった。男が椅子に座る王女の前に膝をつき、少女の頬を両手で包みながらささやいているのが見てとれた。
びくりと膝に置かれた王女の拳が震えた。男の手がそれに重ねられる。
「蛮族と婚約したことは耳にしている。なんという屈辱だろう……」
無礼な言葉だった。有名な歴史家に数えられるほどの王子も、ただ出身から侮られるとは。ユリアが無言で王子を見上げた。私と同じ気持ちで、怒りのあまりに言葉を失っている。
「その名を持つ女よ。朕の妃になるがよい」
男は王女の手から乱暴に鉄の指輪を抜き取ると、部屋の隅に投げつけた。王女はうつろな視線でその転がるさまを見る。
王子は、思いがけない行動をとった。ふいに出ていったのである。あまりに突然だったのでついてゆけず、私たちは隠れたまま見守った。
王女は突如現れた婚約者に動揺した。青ざめ、無言で瞳をそらした。
男、カエサリオンは立ち上がり、しばし王子を見つめた。神君カエサルとクレオパトラ・フィロパトルの息子、エジプト最後の王。背はさほど高くもなく、像で見る神君カエサルや女王の面影はないが、きぜんとした表情がセレネ王女に似ていた。
王女を挟んだ二人の男の間に、一瞬沈黙がたちこめた。
カエサリオンがやがて微笑して言った。
「久しぶり、と言うべきかな。ユバ王子」
ユバ王子は、はっとしたようにカエサリオンを見返した。
「ああ。確かに朕は覚えてはおらぬ。だが、汝とは初対面というわけではないのだろう?」
カエサリオンの声は王子の失念を疑ってはいなかった。王子は渋々ながら、うなずいた。
「昔、朕は汝と会っている。汝がローマに来て初めての冬のことだ。とは言え朕にはその時の記憶はない。当時の朕は幼かった故、母上から聞いたことだからな」
十九年前、神君カエサルが凱旋将軍としてローマに帰還し、エジプトのクレオパトラ七世の妹アルシノエ王女やユバ王子は式典に引き出された。女王クレオパトラは彼らを見ているはずである。一歳の愛児プトレマイオス・カエサリオンとともに。
「この別荘は父上の持ち物だった。朕と母上がローマで滞在したティベリス右岸の庭のある別荘では、ローマの名士を集めては宴が開かれたそうだ。母上は、汝が父に連れられて来た時、新しい奴隷の子が来たと思ったと仰っていた」
ユバ王子は目を閉じた。
王子はカエサリオンなる男が偽物であると最初から決めつけていた。
幼児の頃見たきりだったから本人かどうかを見極める自信はなかったが、簡単にボロが出るとふんでいた。
だが、この別荘にいると知った時、王子は明らかに動揺した。神君カエサルがエジプト女王を愛人にしていたことは有名で、クレオパトラ・フィロパトルのローマでの滞在地がここであることは一般に知られていた。
しかし敢えてここを選んだということが、逆にカエサルの実子のこだわりとも受け取れるのである。
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