月下の少年

 「死んだとばかり思っていた、自分に会うために命懸けでローマにやって来た兄ではないか。それを……」
 肉親を知らない王子の思いと、肉親のいるはずのティベリウスたちの残酷さ。身内をも疑い、邪魔であれば殺すことも厭わない。その皮肉さ。
 確かに王子は肉親を知らない。それを失う痛みも、想像によってしか理解できない。だが、肉親であるが故の、決して断つことのできないしがらみや憎悪も知らないのだ。
「クレオパトラやアントニアたちだって、ユルスには大切な肉親だわ」
 ユリアが呟いた。
 もしも捕らえても、アンテュルスはアウグストゥスの命で殺される。ユルスやアントニアたちは、再び肉親を失う辛さを味わい、その罪のために肩身の狭い思いをし、アウグストゥスに対し、知らなければ抱かずにすんだ、複雑な感情を堪えねばならなくなる。
「しかし正しくはない」
「正しく生きても不幸なら、正しくなくたっていいわ」
 この歳で、これまで何を見てきたのだろう。ユリアは自分に言い聞かせるように言った。
「あたしたち、みんな一緒よ。あたしはお父様の娘だけど、お父様の敵対者の血縁者でもあるの。助けたくても助けられなかった人もいたわ。もうあんな思いはしたくない。間違っててもいい。自分と自分の大事な人のためなら、他人なんて犠牲にしたっていいのよ」
 王子は見知らぬ人を見るようにユリアを見つめた。これまでローマ最高権力者の一人娘と名ばかりの王族とでは、雲泥の立場だと思ってきたのだ。
 ティベリウスは正面を見つづけていた。ティベリウスもユルスもマルケルスも、既に父親を亡くしていたが、皆、神君カエサルやアウグストゥスの敵陣にいた人物だった。
  しばらく王子は言葉を失っていたが、なんとか我にかえると呟いた。
「……だがやはり、アウグストゥスに引き渡すべきだった」
 得体も知れぬアントニウスの息子を名乗る男が現れ、クレオパトラ王女への接近をはかったとすれば、反アウグストゥスの動きがあると見てよい。ましてやカエサリオンが生きているともなれば、ティベリウスが裁断を下していいことではない。
「あの方のお手を煩わせたくはない」
 ティベリス河に架けられた橋を渡る時、初めてティベリウスが振り返った。
「私はあの方のお役に立てる男になりたい。信用に足り、物事を任せるに常に私の名を挙げられ、ティベリウスなら大丈夫だと心安らかに執務に専念して頂けるような、一人前の男になりたい」
 当時のティベリウスは、まだ少年らしいほっそりとした身体を、過激とさえいえる鍛練の中で戦士としての身体につくりかえようとしている時期にあった。元来は内気で静寂と思考を好み、知的な会話が傍らにある生活を望んでいた少年は、やがてマルクス・ウィプサニウス・アグリッパ将軍亡きあと、ローマ軍を率い、最前線に立つ男となる。
 突然夜空の雲がはれた。ティベリウスは大きな月を背に、何かを見据えるようにして顔をあげた。川面に月の光が反射して、ティベリウスがきらきらと輝いてみえた。
 私はこの時のティベリウスを生涯忘れはしない。たとえその後の彼についてどういう噂が流れてきていても。彼の本当の姿はこの姿で、変わらざるを得なかったのは、彼の意志ではないと思うのだ。
 愛情を知らない。本当の意味での家庭も知らなかった。母の再婚相手や血のつながらない家族に囲まれた世界が全てだった少年の、切実な願い。
 それは国家の父たるアウグストゥスの心に叶うこと。血ではなく実力で認めてもらうことであった。アウグストゥスが神君カエサルに選ばれたように。
 当時、その点では明らかにマルケルスの方に軍配があがっていた。アウグストゥスはこの甥を後継者にと目していた。だがティベリウスは後継者の地位には興味はなかった。家族として優遇され、愛されたかったのではなく、純粋に実力を評価されたかったのだ。
 ローマの政務官に文武の官の区別はなく、軍事でも指揮官として国家に貢献することを要求される。ティベリウスは天才だった。確かに環境には恵まれていた。だが名門であること、才能のあることだけに頼りきった若者であれば、ティベリウスは二流で終わっただろう。
 ティベリウスは、アウグストゥスの期待に応え続けた。執政官として、軍の指揮官として、アウグストゥスの望む統治の実現者の一人として、望まれたことを完璧に叶え続けた。常勝不敗の人(インウィクトゥス)、と人は彼を呼んだ。
 だがアウグストゥスによって、ローマは変わりゆこうとしていた。アウグストゥスの求めたもの。それは自分の血であったのだ。
 たどり着いたのはティベリス河畔に面した庭園で、王子もよく散歩に来た場所だった。ただし昼間とは全く印象は異なった。
「ここだ」
 ティベリウスはそこで足を止めた。そこには数年間閉鎖されてきた屋敷があった。

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ドリーム入ってますねえ……。今なら書けない、こんなティベリウス。
本来ならマルケルスに振るべきキャラクターなのですが。当時はティベリウスをこんな風に思い込んでたんですよ……。いったい誰だ。
Gurissini」のれこ様に、初めて私の作品に絵を描いて頂いたのがこもシーンでこちらです! とても幻想的なシーンをして描いてくださいました。
ここを書きたくて小説を書きだした場面でもあり、思い入れがあったので、まずここを選んで下さったのは我が意を得たり、という感じで嬉しかったです。
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