家族の亡霊

「ユルス。いい加減にユバには話しておけ。鬱陶しくてならぬ」
 手際よく人々に指示を出し、ティベリウスが戻ってきてユルスに言った。
「〈奴〉とは、ユルスの実兄、マルクス・アントニウス・アンテュルスだ。四年ほど前に、父親に呼び寄せられてエジプトに渡り、後の混乱で殺されたとされている。三年前に十五だから、今は十八くらいだろう」
「アンテュルス……?」
 マルクス・アントニウスは生涯に五回結婚しており、三人目の妻フルウィアの時に二人の息子をもうけていた。長男がマルクス・アントニウス・アンテュルス。次男がユルスである。
 アンテュルスは父と共にエジプトに行き、宮殿で生活していた。最高指揮官アントニウスが自殺した後、隠れていたが家庭教師テオドロスに裏切られて通報された。アントニウスの長男は、謀叛の可能性を考慮してアウグストゥスの命令で殺されたという。あの時アウグストゥスに兄を殺されたのは、クレオパトラ・セレネ王女だけではなかったのである。
 アンテュルスは、あまり素行のいい少年ではなかったようで、師もほとんど彼の話をしなかった。
「その男が、生きているのか? ウェヌス神殿の男は、そのアンテュルスだったのか?」
 ユルスは俯いたまま答えた。
「わからん。顔つきや体格が変わっていて、確信が持てなかった。第一、あの状況では判断のしようもない」
 ユルスは追求され、たまっていたものを吐き出すかのような勢いで言った。
 ウェヌス神殿に行った数日後、王女とユルスに、その男からの接触があった。が、二人は注意深く沈黙を決めることにした。
「……兄だという男から『話をしたい』という連絡があった。何度かアンテュルスを示す頭文字やなんかの名前で、手紙が寄越されて来た。最初、ユバにカエサリオンのことを言われても、何のことだか俺もクレオパトラもわからなかったが。アンテュルスがエジプトで殺されそうになったが生きているというのすら、うさんくさかったからな。向こうも用心してカエサリオンのことは言わなかったんだろう」
 ユルスは抱え込めるものなら、一人で抱え込みたかったに違いない。だが無力な子供でしかない彼には、何も解決できなかった。そのことに腹を立てていた。
「だが、お主がカエサリオンの話を持ち出した直後だったかな。カエサリオンも生きているとか言いだしやがった」
 それぞれ別々の場所で殺されたはずのアンテュルスと、プトレマイオス・カエサリオンが生きているというのも、不思議な話である。
「まさか」
「そうだよ。信じられるか? あまりに嘘くさい。アンテュルスか、カエサリオンか。そのどちらかならば、なんとか信用してやってもよいが、二人ともが生きていたなんて、あり得ないじゃないか。嘘をつくのもたいがいにしろ、ばかにしやがって……」
「クレオパトラは神殿の男をアンテュルスだと言ったのか?」
 アンテュルスが面変わりしていたとしても、別れた時期がユルスよりも遅い王女なら判断できたはずである。
「……怖くて追求しなかった。俺が聞きたがらないのを察して、あいつも言わなかったしな」
 ユルスが小声で答えた。本物であるという実感があったからこそ、知りたくなかったのだ。知ってしまったら、取り返しのつかないこともある。王子は不可解そうな表情をした。
「だが、俺が〈奴〉と係わるのを嫌がるからか、クレオパトラには、〈奴〉と……アンテュルスと内密に連絡をとっていたようなふしがある」
 クレオパトラ王女は動揺した。もしも異父兄が生きているのなら、その無事を確かめたいと、ユルスにも黙ってアンテュルスと連絡をとったのだ。むしろ自分からすすんで会いに行ったのではないのか。
「とにかく、クレオパトラが狙われていたのなら、何故アウグストゥスに知らせなかったのだ? その輩がエジプト王家の再興をもくろんでいるかも知れぬではないか」
 ティベリウスもカエサリオンには目をつけていたのだから、アウグストゥスに言う機会はあったはずだが、報告はしていない。
 ティベリウスとユルスは、そこでそろって表情のない顔つきをして王子を見た。強いてあげれば、「何をわかりきったことを」とでも言いたげな冷淡なものだった。
「生きているわけがなかろう。アンテュルスはエジプトで死んだ。無論、カエサリオンもだ」
 ティベリウスの断定的な言い方に苛々した様子で王子が言い返す。
「万が一ということもある」
「あり得ない。ましてやユルスやクレオパトラに接触をはかり、エジプトの王家の再興をはかることなど、あってはならない」
「そういう一般論ではなく……ティベリウス。君だって疑っていたじゃないか」
「私は王家の生存者の真贋に興味はない。アウグストゥスに謀叛を企む者がいるとローマの秩序が乱れる。クレオパトラはその駒になりやすい。それだけだ」
「ティベリウス?」
「うるさい黙れ」
 王子には二人の落ち着きが、理解できなかった。
「ユバ」
 ユルスは、静かに言った。
「……もしも本当に生きていたら、どうすると思う? 俺たちは奴らの言葉に従って、エジプトで反ローマの旗を掲げるか? 俺たちが説得して、ローマで生活できるように取り計らうのか? 奴らはアポロニオスを殺し、クレオパトラを確保し、俺に話し合いに応じるように持ちかけている。信用のおける奴らには思えぬ」
「だからなおさら、アウグストゥスに報告し、取り押さえて頂いて、国事犯として厳罰に処した方が」
「そして、妹たちはまた、人の噂にのぼって、肩身の狭い思いをするのか?」
 ティベリウスは興味なさげに視線をそらしている。
「クレオパトラも俺も、兄をアウグストゥスに殺されている。クレオパトラはそれを恨んでいるし、俺も正直、兄の死を聞かされた時には怖かった。謀叛の可能性があるからとアンテュルスは殺された。俺はまだ成人していなかったし、ローマで暮らしていたから、オクタウィア様に助けて頂けたが、俺も殺されていたかも知れん。妹たちは一緒に生活していた俺が、突然処刑されていたら、クレオパトラのようにアウグストゥスを恨んでいたかも知れない……なあ。ユバ」
 ユルスは、一気に語ってから、やや声を落として言った。
「〈奴〉が本物だとしても、辛い思いをするのは俺たちなんだ。加担する気なんかない。静かに暮らしていたい。やっとクレオパトラやアントニアたちは幸せになれるんだ。俺はそれが本物だろうと偽物だろうと、構わん。その名を名乗る者が現れるのなら、〈奴〉を葬り去る他に、選択の余地はないんだ」
 王子はかなり衝撃を受けていたが、ティベリウスはユルスの決意を疑わしげに聞いていた。感情論を信用することのない人だったから、ユルスが裏切るかも知れないという疑いは、常に抱いていたのだ。
「アンテュルスには会う場所が指定されている。俺一人で来いと言われてる。無論、従ってやる義理はないから人数を連れて乗り込むことになるが」
 ユルスはちらと私たちを見た。
「トガをはずせ。ユバも坊やに免じて連れていってやる。お主たちなら俺の奴隷に見えるだろう。ティベリウスは、場所は教える。人を連れて待機していてくれ」
 ティベリウスはわざわざ聞こえよがしに言った。
「私は別にクレオパトラの生死はどうでも良い。ただ死なれたり行方不明になられるとアウグストゥスに迷惑だから、協力するだけだ」
「……わかっている」
 ユルスの口から呟きがもれた。
「クレオパトラ……」
 もしも偽物とわかっても、プトレマイオスを名乗る男が現れ、王女がエジプトの女王になることを選んだら。
 その時には、ユルスはどうするのだろう、と思った。

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同人誌を出して、唯一出たイベントの時のお隣のサークルさんの本にも、アンテュルスのネタがありました。
思いつくネタなんですねーとお互い笑いました。
やっぱりねえ。ここは仮面でもつけて出すべきだったかなあ。で、取るとユルスそっくりなの。(何かが違う……)
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