失踪

 夕刻になり、彼女も落ちついただろうからと遣いを出して、オクタウィアの屋敷に行く準備をしていると、アウグストゥスの名でパラティウムに来るようにとの連絡を受けた。
 予定を変更してパラティウムに行き、アウグストゥス邸の玄関で門番の奴隷に取り次ぎを頼んでいると、侍女を連れたユリアがやって来た。
「クレオパトラがいなくなったんですって?」
 なんの話だろうと思っていると、そこへドルススも来て説明してくれた。「さっきマルケルスが来たんだ」
 クレオパトラ・セレネ王女が失踪したという。
「一度あんたのとこから帰宅したところで、すぐに帰るからって言ってまた歩いて出てったって。なんか様子が変で、侍女は前回のこともあったんで、すぐにユルスに告げ口したのよ」
 ユルスはすぐ連れ戻すから他言するなと言ったが、マルケルスの判断は早かった。一定の時間が経過すると、速やかにアウグストゥスに報告に来た。
 執務室のアウグストゥスのもとへ行くと、既にティベリウスとマルケルスが並び立ち、難しい顔をしていた。マルケルスは王子に詫びるような表情をした。
「今日、ユバのところに行くと言った時には驚いたけど、お付きも連れていたから、前回のことを反省していると思ったんだけど。結婚前の娘を何度も簡単に失踪させるなんて、申し訳ない」
 その前に普通の娘は家から無断で出たりしないものだ。
 アウグストゥスは、その端正な顔を不機嫌そうに歪めていた。だが、声に出しては王子をいたわった。
「クレオパトラのことは既にローマ中に探索の手を差し向けた。お前たち 報告を待てばよい。だが厄介なことに夜だ。誘拐されたと想定した場合、市内でも馬車や馬が使える。既に街道に逃げられている可能性も考慮せねばなるまい」
 マルケルスの報告を受けると、即座にアウグストゥスは護衛隊や都警隊をはじめ、自分の被護人や解放奴隷たちをローマ市内(ポメリウム)に巡回させ、王女の行方を捜させた。もしも見つかればアウグストゥスに報告される手筈になっている。
「ユバ。訪ねて来た時に、クレオパトラは何か言っていなかったか?」
 アウグストゥスが王子に尋ねた。
「いいえ。急に帰宅すると言って帰っていったので顔すらあわせていません」
 「やはり追いかけて聞くべきだったのか」と後悔気味に王子は言ったが、私は「どうせ王女は何も喋らなかったでしょう。王子が怒らせて出て行ったということになるでしょうから、それで正解ですよ」と答えた。どちらも喧嘩腰でものを言うから、ろくな結果にはならない。だがそもそもそういう関係でなければ、我が師の殺害にしても、王女の心境にしても、もっとはっきりしているのだが。やはり日頃の関係に問題がある。
 そのままティベリウスたちと退室した
「クレオパトラの失踪は、アポロニオスの殺害と関係あるのかな?」
 マルケルスが王子に尋ねた。この人くらいである。我が師の訃報を知ると即座に、しかもまともに悼んでくれたのは。
 王子は黙っていたが、やがて言った。
「もしもアポロニオス殿を殺した者が彼女をさらったとすれば、大がかりなものかも知れぬ。他にも共謀者がいるだろう。身の代目的か、政治目的か」
 王女の失踪とだけ思っていた事件が、別の様相を帯びてくる。
「エジプト王家の再興、か?」
 ティベリウスが呟いた。
 玄関まで戻ると、マルケルスが義兄弟の姿を見つけて叫んだ。
「ユルス!」
 王女の行方を追っていたが、一度引き返してアウグストゥスの元に報告に来たのだ。
「クレオパトラは見つかったのか?」
「いや……」
 ユルスは、王子に気づいて口ごもった。マルケルスとティベリウスが口々に尋ねる。
「何かわかったの?」
「問答する間はない。とっとと話せ」
 ユルスのためらいに気づいたマルケルスは言った。
「ユルス。迷っている暇はない。ティベリウスには話しておいた。即座にアウグストゥスに言いつけるような真似はしないと約束させた。ユバもだ。いいね」
 マルケルスは王子に有無を言わせなかった。ぴしりと言いつけると、ユルスに話を促した。
「……〈奴〉から俺の……知人を通して連絡があった。クレオパトラは預かっている。話あいたい、と」
ユルスは青ざめながら告げた。それでは王女は誘拐されたということなのか。
「誰だ、それは。カエサリオンか」
 王子が尋ねる。既に何か知っているマルケルスとティベリウスは黙っている。ユルスは首を振った。
「できるだけ内密にことを済ませたい。ティベリウス。少し探索に加わるようなそぶりをしてから、別行動をとる。いいか」
「……わかった」
 珍しいことにティベリウスは素直に承諾した。
「僕はアウグストゥスの近くにいようと思う。集まった情報は、僕からアウグストゥスに取りつぐようにする。何かあったらアウグストゥスの部下の方は出来る限りとどめて、君たちに先に連絡がゆくように手配するから、そちらは頼む」
 マルケルスが言った。あらかじめティベリウスとは、話をつけていたのだ。
 ユバ王子はユルスと行動を共にすることにした。
 フォルムには灯が集まっていた。ティベリウスは私たちに待つように言った。アウグストゥスとは別に、彼には父祖の代からクラウディウス家に仕える被護人が存在する。堂々と大人たちの間に入ってゆき、何事か話し合っている。何十人にも及ぶ被護人たちに、クレオパトラ王女が行方不明になった旨が伝えられ、数人ずつに分けたグループにそれぞれ指示が出された。人々が散ってゆく。
「君の言う〈奴〉とは、やはりプトレマイオス・カエサリオンなのか?」
 王子が重ねて尋ねたが、ユルスは無視した。
「お主を巻き込めぬ。帰れ」
「私のことなら……」
「ほう。ではクレオパトラを案じているのか?」
 王子が傷ついたような表情をした。だが王子はこれまでそれだけのことを言い、してきたのだ。ユルス自身も言いたくはなかったに違いない。
「クレオパトラが死のうと生きようと、お主には関係ないではないか?」
 ユルスはユバ王子を見込んでいたし、心底異母妹の幸せを願っていた。だから二人の婚約を誰よりも喜び、友の豹変に落胆することになった。
「クレオパトラもお主をまきこめば、俺を恨む。自分のために命を張る義理もない男に、万が一でも危害が及んだら、かえって迷惑だ」
 アウグストゥスに頼らざるを得ない今、やる気のない王子について来られても、ユルスには鬱陶しいだけだった。
「アウグストゥスの命令だとしても、お互い憎みつつ一生を添い遂げねばならないのだとしたら、今婚約を解消させてもらうべきだし、男から言うべきだ。異母妹がお主と結婚しても不幸になるだけだ。とっとと婚約を破棄してくれないか。俺もせいせいする」
 ユルスは言い捨てると、王子を置いて歩きだした。
「彼女との結婚は」
 王子は考え込んでいたが、なんとか答えた。
「私がこのローマのために尽くせる最上のことだろう」
 彼らはアウグストゥスの統治のための駒だった。王子は逆らえない以上、納得することにしたのだ。
「ああそうか。お主はご立派な犠牲者だ。見事な悲劇を演じるがいい!!」
「ユルス……」
 いつになくユルスが厳しかったのは、クレオパトラ王女がいなくなった不安ゆえの混乱だったのか。
「俺がクレオパトラを案ずる理由を教えてやろうか。お主のせいだよ。お主なんざと婚約しなければ、俺はもっと楽な生きかたをしていたさ」
 ユルスが自嘲気味に笑った。
「ティベリウスなんざは、疑っている。異母妹はエジプト王家の生き残りだ。今でもうちには、親父のエジプト時代の部下や官僚が出入りする。エジプトには親父の財産もある。俺だってエジプトに行けば、王のような生活も夢じゃない。アウグストゥスの温情でびくびくしつつ暮らすこともないってわけさ」
「君は王家の者ではない……」
「俺の親父もローマ人だったが?」
 マルクス・アントニウスはローマに妻がありながら、エジプトの女王とも婚姻関係を結んだローマ人である。
「それにクレオパトラは、実の兄弟とも結婚できる」
 ユルスの言葉に王子が息を呑んだ。
 ローマ人にとっては忌まわしい兄妹間の結婚も、王女にとっては王位を継承するための義務である。
「する気もないし、別に権力も欲しいとは思わん。だが、お主を見ていると腹が立つ。お主の言動は、俺の心の奥底の、考えたくはないことをほじくり出してくる。お主に腹を立てている限り、俺は考えつづけるだろう。クレオパトラが沈んだ表情をするたびに、いっそお主から奪ってやりたくなる」
 嘗ての権力者の遺子という境遇は、手を伸ばせば或いはという、甘美な誘惑と表裏を成している。
 ユルスはその歳で、諦めることを知っていた。必死で家族を守り、目立たぬように、野心など抱かぬように、不満のないような表情で、生き延びてきた。
 二人はにらみ合っていたが、ユルスの方が先に目をそらした。
「祖神ウェヌス神殿の男は、カエサリオンではないな。君はカエサリオンの顔を知らないはずだ。あれは誰だ?」

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都警隊っていつ発足したのかなあ。
あまりに帝政初期すぎて、後に成立しているものは「まだ出来てなかったりして」という予感があります。
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