ウェヌス・ゲネトリクス

「同じ血を分けた親族なのに、何故素直になれないのだろう」
 理解に苦しむという表情でユバ王子が言う。ユルス・アントニウスは答える。
「血のつながった兄弟だからといって油断できないのは、レムスとロムルス以来、ローマの常識だ。それにクレオパトラの立場で考えれば、いきなり親子だ、兄弟姉妹だと言われても納得いかなかろう」
 ユルスはアウグストゥスやオクタウィアからは信頼され、マルケルスや妹たちとも仲は良い。だが相応の苦労はあるだろう。陽気で人あたりが良く、わきまえた少年だった。ローマを裏切ったマルクス・アントニウスの息子の、それは処世術だった。時折見せる気性の激しさに、不安をおぼえたことがある。
「俺だってエジプトの王子や王女が異母弟妹だと言われた時には、参ったぞ」
 おまけにヌミディアの王子が義理の弟になるのだから、国際色豊かな家庭環境である。
「しかしあの娘も、オクタウィア様があれだけ親身になって下さっているのだから、少しは心を開くべきではないか?」
 ユバ王子が直接的に王女のことにふれたのでユルスは珍しげな目つきをしたが、王子はオクタウィアをかばいたかったのだ。
「まあ、あの方は欠点がないからな。夫への忠誠、貞節。自分とは血縁のない子供まで引き取って立派に育て上げた、このローマ最後の貞女だ。皮肉なことに、そうした全ての美点が、あれの実母と対比されてきた。オクタウィア様の完璧さ故に、俺たちの親父が窮地に追い込まれたんだから、クレオパトラにとっては不愉快なのだろうな」
 オクタウィアはクレオパトラ七世と過ごしていたアントニウスの元へ、向かったことがある。物資と援兵を送り届けるためである。アントニウスは妻に手紙を送り帰国するよう命じた。二人の女のどちらかを選んだことになる。ローマの人々はアントニウスの態度を非難した。
 結果としてオクタウィアは夫を孤立させることになった。当時のアウグストゥスは、まさにそれを狙って軍隊の派遣を姉に許可した。アントニウスが正妻であるオクタウィアをないがしろにし女王を選んだともなれば、アントニウスを攻撃する口実ともなる。当然ローマ市民も快くは思わない。
 あの頃から、ローマ市民はアウグストゥスを支持するようになったのだ。ローマ人はまず国益を重んずる。神君カエサルの後継者争いは、ローマ市民の、オクタウィアへの同情とアントニウスへの憎悪を利用した、アウグストゥスが勝利を得た。
 夫の元へ赴いたオクタウィアの真意はどこにあったのか。真実夫のためであったのか、弟のためであったのか。王女は貞女の行動を白々しく感じているのだろうか。
 やわらかだった風に冷たいものが混じり、ローマの日が傾き始めた。帰宅するもの、食事に招かれるもの、長い夜へとくりだすもの、供を連れ、知人と、足早に急ぐ人々の中を、私たちは行き先に迷いながら歩いてゆく。
 スブラの界隈は活気づく時間帯である。怪しげな店では客引きや、肌の色の違う女たちが立ち、それを目当てにやって来た若者や田舎者が、危険な脇道に入り込んでゆく。
 貧民の多いスブラの住宅街は、禁止されているにもかかわらずやたらと高層に増築されている。怪しげな物売り、酔っぱらいの喧嘩、派手な女たち。あたりかまわず汚物が捨てられている。なんで王子様がこんな極端な場所に住んでいるかな、と思う一瞬である。
 あてのない私たちは、自然とフォルムの方に足が向かっていた。ユルスが何気なく言った。
「しかしお主。そんなに駄目か? あの強情な娘が、指輪だけはきちんとしているのだぞ」
 ユバ王子は指輪をしないが、クレオパトラ王女は素朴な鉄製の婚約指輪を薬指にしている。指輪は王子への好意は全くないにしても、婚約者のいる、子供ではないというあかしである。不満はあっても婚約していることは事実で、その自覚はしているのだから、婚約者としての扱いをして欲しいということなのだ。お互い意思の疎通はなくとも、義務だけは守っている。誇り高い王女のけなげな一面である。
「子供なら子供らしければ、五年や十年、幼稚さを我慢する寛容さはあるつもりなんだがね。妙に知ったかぶったり言い返されたりすると、苛々するのだよ」
「そこを子供だからと笑い飛ばせぬところが、お主自身も子供だという証拠であろう。充分釣り合いがとれてるではないか」 
 よほどユルスの方が大人である。
「たまに思うのだが、人は私が、十三やそこらの娘に媚びたり、欲情したりする卑屈な節操なしだったら満足するのかね」
 確かにそんな王子の姿は、想像出来なかった。
「アグリッパ将軍はマルケルスの妹の、大マルケラを後妻にしているぞ。十やそこらの年齢差で何をぐちぐち言っている」
 大マルケラは王女より一つ上である。アグリッパ夫妻には親子ほどの年齢差があるが、将軍の包容力と人徳であろう、夫婦仲は睦まじかった。将軍には亡くなった先妻の娘、ウィプサニア嬢もいたが、新妻の大マルケラはその義理の娘を大変可愛がった。理想的な家庭である。
「そりゃ大マルケラは、オクタウィア様に似ているし……」
 王子が思わずつぶやいた。ユルスがなだめるように言った。
「それ、クレオパトラには絶対に言うなよ。怒るぞ」
 結局、性格のあわないことの言い訳に、年齢差を強調しているだけのことなのだ。
「……一か所だけ、行きたいところがある」
 やがて王子は言った。自信はあまりなさそうだが、少し前から考えていたようだ。
「もしかしたら、いるかも知れない」
 王子が向かったのは、フォルム・ロマヌムをいきあたったアルクスの丘の東の麓にある、祖神ウェヌス(ウェヌス・ゲネトリクス)神殿だった。元老院の裏手に面したカエサルのフォルムと呼ばれる広場にある、神君カエサルによって建てられたものだ。
 東側に前廊、南北両側に二重の柱廊を持つ広場で、カエサルの持ち馬だと言われる騎馬像と噴水がある。そのつきあたりにあるのが祖神ウェヌス神殿である。
 ユリウス一族はローマの建国者ロムルス、さらにはトロイア戦争の落人アイネイアスに逆上るとされる。アイネイアスの母がアフロディテ、ローマでいうウェヌスとされており、名門の出自を誇示する目的で建てられた神殿だった。随分前に着工されているが、フォルムにはまだ建築途中の部分が残されていた。
「ここは……」
「いるかどうかは保証しないがね」
 ユルスが驚嘆したように王子を見た。当人は憮然としている。
「そうか!」
「他に思い至らなかっただけだ」
 ユルスは感謝の代わりに王子の肩を叩いてから走り出した。王女のいることを疑っていない様子だった。
 それに続きながら私は「どうしてですか」と尋ねた。王子は「神君カエサルがこの神殿に、ウェヌスに模した女王の像を奉納しているのだよ」と答えた。

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えー、ユバとユルスの会話、ユルスは他人事ですが、数年後には笑えることになってます。いや笑えないのか。
大マルケラがオクタウィア似というのは、想像です。
ウェヌス神殿には当時、女王の像があったそうですが、アグリッパの作ったパンテオンにも女王の像があって(移動させたか別物かは不明)、そっちには酢で溶かした真珠と対のもの(女王が追加して溶かそうとしたのをアントニウスが慌ててやめさせた)真珠を半分に割った耳飾りをつけていたそうです。
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