闘技場のスフィンクス

 ローマには祝祭日が非常に多い。その日も何かの祝日で、アウグストゥスがアフリカから珍しい獣を呼び寄せていた。市民に娯楽を与えることは、ローマの高官の務めの一つとされている。
 王子はその見せ物に、我が師を誘って言った。
「スフィンクスが見られるそうなのですよ」
 私はそんなわけあるかと思ったが、王子は本気で楽しみにしていた。
「どうせ作り物でしょう。ライオンの頭に、かつらでもつけるんですよ」
「でも本物なら、スフィンクスとなぞなぞが出来るじゃないか」
「答えられなかったら殺されるんですよ」
「あ、そうか。それは困るな」
 マルスの原のスタティリウス円形闘技場は、植民地からも集まってきているような人込みだった。特別席にはアウグストゥスやその家族が既にいた。
「まったくもう。闘技場って殿方に見初められるのにいい場所だってのに、なんで家族と一緒なのかしら」
 着飾ったアウグストゥスの一人娘、ユリアがぼやいている。華やかで、やたら口の達者な娘である。
「そう思わない? 突然いい男が現れて隣に座って、ちょっと膝が触れたりして、その人が素敵な言葉をかけてくれたりするの。それで二人は恋に落ちて、あたしをこんな生活から連れ去ってくれるのーっ! って出会いがあるかも知れないのに。家族や護衛だらけだなんてつまんないーっ」
 隣にはクレオパトラ王女がいて、王子に紋切り型の挨拶をした。我が師には何か言いたげだったが、諦めたようにそっぽを向いた。
 彼女の異母妹、十二歳の大アントニアと九歳の小アントニアも来ていた。
「ユバさまあ。スフィンクスってホントにいるの? ティベリウスはいないって言うのよ」
 ドルススと並んで座っていた小アントニアが立ち上がり、王子を出迎えて言った。
「ゾウも別に賢くもないし、月にお祈りなんかしないって言うの」
 この日はゾウも出た。王子も年貢の納め時なのだが、笑っている。小アントニアが王子の手を引いて席に座らせ、自分は王子の膝の上に座った。
「クレオパトラ、こっち来ない? ユバ王子がスフィンクスとオイディプスの話をしてくれるのよ」
 無邪気な小アントニアが言ったが、クレオパトラ王女は遠慮した。ドルススは私たちに手招きをし、こっそり言った。
「ミノルはクレオパトラと仲良くなりたいんだよ。お父さんのこととか聞きたいんだって。最後まで一緒に住んでいたの、クレオパトラだったでしょう? でも恨みがましくなるから聞けないでいるんだよ」
 ドルススは後に才色兼備と謳われる小アントニアと結婚する。幼い頃から仲がよく、見ていて微笑ましかった。
「あ。見て見て。ゾウだよ」
 大観衆の前に、アフリカからやって来た、厚い皮に覆われた巨大なゾウが引き出された。歓声とともに迎えられたゾウは、長い鼻を左右に揺らし、ゆっくりした動作でアウグストゥスのために設えられた席の前に来た。巨体にはきらびやかな布や武具のような飾りを纏っている。
 ゾウ使いの命令に合わせ、ゾウは前脚を折り曲げ、恭しく頭を下げてみせた。観衆は沸いた。その歓声が闘技場に響きわたり、震動となった。
「ホントね。ゾウって頭いいのね!! アウグストゥスにお辞儀したわ!!」
 小アントニアが嬉しそうに手を叩いた。かろうじて王子は嘘つきよばわりされるのを免れた。
 ふと視線に気づいた。ふりかえると王女がこちらを見ていた。王子を見ているようだが本人は気づいていない。到底好意的なものではないから私は安堵した。
 続いてキリンが出てきた。背はウマより少し高いだけだが、首が長く家屋を見下ろせるほどである。この獣はラクダとヒョウのあいの子で、その証拠に顔はラクダにそっくりであるし、赤らんだ肌に白い斑点がある。脚はウシに似ている。
 キリンは何周か闘技場を行進すると、私たちの前で止まった。悲鳴をあげて怖がる大アントニアの前で、ユルスは葉のついた枝をかかげ、キリンに食べさせてみせた。
「首、ながーい。なんで長いのかしら?」
 小アントニアが言うのに、王子は答えた。
「キリンは食いしん坊で、高いところにある木の枝を食べようとして首を伸ばしすぎて、長くなったんだよ」
「ほんと?」
 頭の固いティベリウスが「おいこら」と言ったが、王子は笑っている。無邪気な子供にいい加減なことを吹き込むのは、王子の嫌う知ったかぶりには入らないのだろうか?
 馬具をつけたヒョウやカバの登場である。それからは血なまぐさい闘技になる。ティベリウスはその野蛮さが趣味にあわないのか、あからさまに不快な表情をしているが、多くのローマ人はこうした趣向が好きである。獣同士が戦うものもあれば、剣士が出てきて獣と戦う試合もあった。
「次はスフィンクスだよ」とドルススが言った。
「スフィンクスと人間が戦うんだって」
「スフィンクスなら、知恵比べじゃないのかな」
 王子がまだ妙なことにこだわっている。

一番の呼び物であったためか、準備に時間がかかったようだ。スフィンクスの出てくるまで、会場ではさまざまな噂が囁かれていた。
「おおっ、出てきたぞー!!」
 だが観衆は嘲笑じみた声をあげた。現れた獣は、やはりただのメスのライオンに、人頭に見立てるかつらや作り物をつけた代物だったからである。
「ライオンなら充分面白いんだから、妙な小細工なんてしなくてもいいのに」
 マルケルスが呟く。
 メスライオンは観客に興奮し、唸り声をあげて闘技場の中を駆け回った。作り物の飾りが不快なのか、何度もそれを振り落とそうとし、首をひねる。それが不自然な動きだったので、妙に痛々しかった。
 続いて怒濤のような歓声が響いた。ローマで一番の人気剣闘士が、登場したのだ。まず女たちが若い剣士の姿に狂喜の悲鳴をあげ、男たちが熱狂的な声援を送った。
 そして別の理由から、ローマ人たちは激昂していた。馬にまたがった剣士は、ローマの将軍の恰好をしていたのだ。その手には、模造だがローマ軍の軍旗を掲げている。
 王子の表情が変わったことに、王女以外は気づかなかった。
 スフィンクスはエジプトの象徴で、剣士はローマ軍の象徴である。わざと貧相な細工のスフィンクスを登場させ、ローマの将軍がそれを倒してみせる。そういう趣向の見せ物なのだ。企画者が、アウグストゥスに媚びたのだろう。
 やがてどこからともなく、アウグストゥスを褒めたたえる声が聞こえてきた。
「レス・プブリカ(共和国)、万歳!!」
「アウグストゥス、万歳!!」
 ティベリウスは冷静にそれらを眺めていた。その歓声は当然であるかのように。マルケルスは名を叫ばれると立ち上がり、観衆に応えてみせた。ユルスは怯えている大アントニアの手を握っていた。小アントニアが王子に抱きついた。歓声が地響きとなって、特別席まで伝わってきて、闘技場全体を震わせた。
 観衆がアウグストゥスやローマを讃えながら、剣士の闘いに熱い声援を送る。
「クレオパトラ?」
 ユリアが王女を覗き込んで尋ねた。
「気分が悪いの。先に失礼させてもらっていいかしら」
 確かに王女の顔は青白かった。大アントニアも不安そうな表情で、一緒に帰ると言いだした。ユバ王子が一応、気にしたそぶりで「帰途は大丈夫か」と声をかける。我が師は婚約者に遠慮して話しかけなかった。
「私が送ろう。終わってから帰るよりは、混雑もないだろう」
 やはり悪趣味な催しものに不機嫌きわまりなかったティベリウスが申し出た。ユルスは異母妹たちを見送るために立ち上がったが、ふと闘技に目を戻した。
 剣士は挑発するように軍旗をはためかせ、馬を駆った。見事な乗馬の腕前を見せつけ、闘技場いっぱいに弧を描くようにして、スフィンクスの周りを回っていたが、しだいにその輪を小さくして行った。
 野獣は唸り声をあげ、剣士に向かって飛びかかる。だが剣士はそれを避け、いったん客席へと駆け戻った。軍旗を捨て、予めの計画だったのか、客席から投げられた槍を受け取った。
 ローマの将軍が槍をかかげ、再びスフィンクスに馬首を向けて挑みかかってゆく。期待の極まった観衆の声援が、頂点に達した。
誰もが息を呑んだ瞬間、糸が切れたかのように歓声が途切れた。
 馬上の剣士の身体が、奇妙な角度で制止したように見えた。
 次の瞬間、ティベリウスはアウグストゥスのもとへ走り出していた。ユルスは王女の身体を抱きかかえて伏せさせた。マルケルスはやはりユリアや大アントニアに伏せるように言うと、護衛を呼び寄せた。
 何が起こったのか判断をつけかねていると、ドルススが教えてくれた。
「剣士の首に、矢が射かけられたそうだよ。危ないから伏せていて。次はこちらが狙われるかも知れない」
 言った先から、矢が飛び込んできた。後方の席で悲鳴があがる。気づくと我が師が立ち上がって、客席を見渡していた。
「先生、何をしているんですか!?」
「あれは……」
 我が師は斜め向かいの上方の席を見つめ、何か言いかけた。カエサル、と言ったような気がした。
「アウグストゥスの御前で、なんたることだ!!」
 ティベリウスが激怒している。
 矢の射手を探すように命令が出されると、客席は騒然となった。だが客席の混乱を無視して、舞台では見せ物は続いていた。馬から投げ出された将軍は、そのままライオンの前に餌として転がった。見る間に男が獣に八つ裂きにされてゆく。人が一人、死にゆこうとしているのに、楽しみが台無しにされたと不満をもらす者もいた。
 小アントニアに抱きつかれた状態のユバ王子は、王女に視線を向けた。
 クレオパトラ・セレネ王女はユルスを押しのけるようにして立ち、闘技場のスフィンクスを見つめていた。
 王女の怒りが天に通じたのだ、と私はぼんやり考えた。
 人はこの事件にアウグストゥスへの害意や、彼の面子を汚す意図を感じたようだが、私は単純にスフィンクスを救うことを目的としたのではないかと思った。
 アフリカのゾウ。エジプトのスフィンクス。
 その意図に気づいた何者かが、栄華を誇るローマに怒り、見せしめのように将軍を殺したのではないか、という気がしたのだ。
 ユルスがクレオパトラ王女を、女性用のマントで包んだ。彼女を隠してしまいたいというように。

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「クレオパトラの娘」で出した場所を、他の話で出してることがあります(下調べがあまりいらない、というメリットもある)。
 円形闘技場。「またかよ」と思われるでしょうがどっちの話もティベリウスは不機嫌で、早退してしまいます。ワンパターンだけど、彼はこういうの嫌いですから!
書いたのは『グラディエーター』の上映前で、姉に「映画観に行かないの?」と言われて「剣闘士もの苦手」「小説に書いた場面も、最後に付け足した」と言ったら「それ言わない方がいいよ」と言われましたっけなあ。うん、伏線のために追加したんですよ!(棒読み)。
ステファノスは頭いいのか悪いのかわかりません。スフィンクスはナンセンス、と信じてないのに、キリンの知識はむちゃくちゃです(出典はプリニウス)。目で見られるものしか信じないようです。この子の主観のおかげで、クレオパトラの性格がかなり歪んでいる、という気もします……。
ユバの「キリンの首が伸びた理由」は、キリンの進化説のなかの一つです。
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